仏教がもたらす行動変容
サンガ新社のウェブメディア「WEBサンガジャパン」の特集の第5弾は、「仏教の行動学」と銘打ち、仏教や瞑想を通しての行動変容、あるいはひろく「行為」「行動」「思い(はからい)と行い」に焦点を当て、考察と問題提起をしていきます。
人が間違った行動をするのは、「みんな無明のせい」とするのが仏教の基本設定と言えるでしょう。無明ゆえに、いつでも頭の中のお猿さんに振り回され、ありのままに物事や自他を見ることができず、結果、自らを苦しめ他者を苦しめている。「私」を離れることができず、自我への執着が諸悪の根源であると、学び理解したつもりになってはいても「わかっちゃいるけど、やめられない」の習いで、煩悩まみれの諸行を繰り返してしまうのが、仏教の考える人間像と言えそうです。
仏教は生存の根源は渇愛であると定義します。いきおい、「日々のわたしを動かすもの」も渇愛にほかならず、渇愛ゆえに私たちは行動し、一生を生きています。「なぜ、わたしはマインドフルではないのか?」と問えば、究極的に言えば「渇愛に飲み込まれているから」と仏教は答えるでしょう。
仏教は行動への指針を明確に提示しています。それは八正道に集約されていると思います。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定――これらが最終ゴール、つまり自我への執着を手放し、渇愛を離れ、無明を破り、涅槃に至るための八つの生き方のグランドデザインであり、究極的な行動指針となるものです。そして「仏教の修行」に限らず、ひろく社会に生きる市井の人間においても、参照して損のない指針といえるはずです。なかでも正思、正語、正業は、直接に行動に向けられて、私たちの日々に行動変容を促します。
心を主(あるじ)とするブッダの教えでは、清らかな心による行いには、からだから影が離れないように、おのずから結果がついてくると明言しています。汚れた心で行為をすればまたおのずから結果が現われる。禅では「百尺竿頭一歩を進む」という言葉もあります。仏教では行動に焦点を当て、それに先立つものとして心のありようを説いています。なるほど、仏教は心を主とした行動学といえそうです。
以上のような考察を出発点に、今回の特集で、仏教を通して行動はどう変容するのか、仏教は思いと行動をどうとらえているのかを改めて考えてみたいと思います。仏教を通した個々の行動変容が、混沌として明かりの見えない状況においても、一縷の光を兆す一助になればと思います。今特集が皆様の行動の参考になり、行動変容のきっかけにもなれば幸甚です。(編集部)
『WEBサンガジャパン Vol.5」 特集「仏教の行動学」 目次ページへ