アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「怠けるとどうなるのか」です。
[Q]
ブッダの教えに出会っていながら、実践を「いつかやろう」「今度やろう」と怠け心が出てきて負けてしまい、自分がいかにダメな奴かと思い知ります。やっぱり怠けはダメですよね? 自分自身でも積極的に実践しないことは良くない、怠けることは悪いことだと理解しています。怠けると、どうなってしまうか教えてください。
[A]
■いつでも自己判断で生きている
怠けるかどうか、それは各自の自由です。「いつかやる」「今度やる」それはあなたの自由にやってください。私にはあなたに「瞑想しなさい」と命令する権利はありません。
誰だって自分で判断して生きています。自分が判断した生き方で人生は流れていきます。自分が判断することに他人は関係ありません。私があなたの性格や判断を、今のようにしたわけではありません。では他の人があなたのその性格を作ったのでしょうか? まさか両親が、あなたの性格や人生をすべて決めたのでしょうか? そんなわけはありません。自分が自分で判断し、その判断により今の人生が現れてきたのです。
誰しも自分の判断・自分の人生・自分の性格について、他人からあれこれ言われたとしても、そう簡単に変えたくはないのです。あなたは私に、その葛藤・ジレンマについて訊いているのでしょう。それをちょっと偉そうに言うのであれば、仏教の専門用語で「無明・無知」と言います。無明・無知とは何かというと、「これは何なのだ?」「一体、どういうことだ?」と探求する意欲・エネルギーが無い状態のことです。
■生命の自由と尊厳を守るべき
何かを探している状況とは、「今に満足していない」ということになります。それから自分で判断し、その判断をもって「はい、これで終わり」と決定を下し、それから進化・成長を止めてしまうのです。しかし、進化を止めることは不可能です。進化を止めたということは退化するという意味になります。退化とは成長を破壊することです。たとえば川の流れは止まりません。高いところから低いところに流れます。もし流れをせき止めてみたらどうなるでしょうか? 水が溢れて氾濫し、一帯に浸水の被害が広がることになります。ですから、仏教では「心を進化させなさい、退化させてはいけない」と教えているのです。ただ、もし誰かが「進化したくない、イヤだ」と言ったなら、「どうぞ勝手に退化してください。自由ですよ」と言うだけです。なぜならば、人は基本的に自由であるべきだからです。私たちは、人に厳しく言われるなら、他人に命令されるなら、普段はやりたがらない良いことをするのです。それが良い結果になるかもしれませんが、大果にはなりません。完成に達しません。具体的に考えてみましょう。あなたは怠けを無くして仏道を歩みたいと思っているが、いつでも怠けが優位に働いて何もできない状態になる。そこで私があなたを洗脳する。修行しないと不安を感じる人に変える。結果として、あなたは怠けに困らないかも知れません。しかし、あなたは洗脳されていてロボットのように生きる人間になっているのです。人格を向上させて完成させることも、心を全ての束縛から解放して自由になることもできなくなってしまったのです。洗脳されているのです。ですから、仏教は一人ひとりが自分の自由で、自分の判断で、自分の弱みを乗り越えることを推薦しているのです。
■どんな生命も自分で判断し生きている
ポイントは「生命は自分で判断して、その判断に従って行動している」ということです。どんな生命も同じです。犬猫も自分で判断して生きています。昆虫も同じです。これは生命の基本原理・基本行動です。それを他人がいじっても良いと思いますか? 勝手に「あなたは必ず私の判断に従って生きなければいけない」と命令して良いでしょうか? これは命の尊厳を侵害していることになり、恐ろしい悪行為になってしまうのです。このことは明確に理解した方が良いポイントです。
ある子供が私に、「人は宗教を信仰する必要がありますか?」と訊きました。素晴らしい質問です。私からの答えは「無い」の一言です。宗教を信仰する必要はありません。宗教を信仰しなさいと誰が言ったのですか? 自分で考えようとする子どもたちに真理を教えてあげられれば、しっかり理解すると思います。
生命は自分で判断して行動するのに、人はそれを理解しません。だから生きることにトラブルが起きるのです。やみくもに他人に命令・指令しようとしても上手くいきません。子育てでもよくこれが問題になります。私も何度も相談されることですが、「うちの息子(娘)が全然言うことを聞かない。どうしたら言うことを聞くようになるのか?」と親は訊いてきます。私はどう答えればいいのでしょうか? もし息子・娘が親の言うことを一言一句全て聞き入れるなら、それこそ大問題です。精神的な病気と言っていいでしょう。
■相手の判断を奪うことは残酷なこと
取るに足らない小さな昆虫たちでさえも自分で判断して生きているのです。それを理解してください。自分自身はワガママで、好き勝手に判断して生きているくせに、自分以外の人にはそれをやらせないようにする。自分は自由に生きて、他人には命令し自分に従わせようとする。親は子どもを徹底して支配・管理しようとする。これはとても残酷なことです。
生命は自分の命を自分自身で守らなくてはいけないのに、相手の自由を奪うような恐ろしい残酷なことを平気でやっているのです。それに気づきもしていない。ですから、仏教では当たり前に生命は無知・無明であると言っています。生命・人は、無知で目を塞がれていて何も見えない状態なのです。どこまでも愚かです。理解能力がゼロということなのです。
アリ一匹でも自分で判断して生きているのに、私がそのアリに「こっちに行きなさい」と命令したからと言って、アリが私の命令に従って思い通りに行動すると思いますか? まず命・心の働きをありのままに理解した方が良いと思います。
■本当に自分の判断は正しいのか?
次に「では自分の判断は正しいのか」という問題が出てきます。そこで引っかかるのです。判断している本人は、常に自分の判断が正しいと思っています。コンビニに行きたいと思ったとしましょう。私たちがコンビニに向けて足を一歩動かすためにも、判断をしなければならないのです。しかし、その判断が正しいのか間違いなのか、それはわかりません。そこで人生は急に曖昧で中途半端になってしまいます。誰一人として決定的な判断をするための必要なデータが無いのです。幸福になるための判断材料を持っていないのです。人生で問題が起こるのはそういうわけです。
■誰もが自分の判断が正しいと思い込んでいる
ネズミが自分の巣から出て、外にエサを取りに行くとします。エサにありついてネズミが「ああ、良かった。今日はツイてる」と喜ぶ。そうすると上空にいるトンビに捕まって食べられる。ネズミには上空にいるトンビは見えません。ネズミがエサを探して巣から出てきた瞬間にトンビが自分のエサ(ネズミ)を捕獲する。それでネズミに「お前の判断は誤りだったから、今度は気をつけろ」と言ったとしても意味がありません。ネズミにとっては、一度判断を間違えればもう命は無いのですから。「エサに飛びつくんじゃなく、きちんと周囲を見渡してからエサを取りに行け」と言ったとしても、ネズミにはそんな判断はできません。
そうだとしても、ネズミが愚かだったと言えるでしょうか? 実は私たちの人生も同じようなものなのです。人間も偉そうに判断して行動するのですが、その判断が絶対的に正しいのかというと、全く正しくはありません。それどころかよく間違えます。面白いことは、間違わないようにと丁寧な言葉でアドバイスしたとしても、相手は腹を立てたりするのです。「ゲームをやめて宿題をしなさい」という言葉に子供が怒るのです。同じく大人も、正しいやり方を教えるために過ちを正されると機嫌が悪くなるのです。しかし、道を知っている人に道案内をしてもらうべき、という決まりは変わりません。
■正しいことを指摘されると反発・反抗したくなる
ポイントは、誰もが自分の判断は常に正しいと思っていること。物事を知っている人が知らない人に注意したり、指摘したりすると、自分の判断を見直して改めるのではなく、物事を知っている人に対して反発・反抗するのです。人の話は聞かないのです。
人は自分の判断が正しいと思っていますが、正しい判断をするためには、客観的で正確なデータ(情報)が不可欠です。なのに生命はデータを取る・収集することが大嫌いで、その能力がありません。だったら、どうぞ勝手にしてくださいと言うしかありません。私たちがヴィパッサナー瞑想で教えているのは正しいデータの収集方法ですが、大嫌いなので皆、絶対に言われた通りにはやりません。、逆らって軽視さえします。全く言った通りに実践しないのです。万が一にも言われた通りにやってみれば、物事を冷静に判断することができ、瞬時に思考も働き、妄想で苦しむことも無く、どんなことが起きても落ち込まず、何事にもめげないでいることができるのに。とにかく、生命は正しくデータを取ることを嫌がるのです。心はもともと無明なので仕方がありません。
■正しい情報があれば正しい判断ができると思ったら大間違い
次に、では正しいデータがあったら、それに基づいて正しい判断ができるでしょうか? できると思っているでしょう? 無理です。いくら正しいデータがあったとしても、判断は主観的になってしまうのです。主観は事実ではありません。やれやれですね。そもそも判断すること自体が主観的なので、当てにならない・真理にならないのです。よって真理の答えは、「何も判断しない」ということになります。
■真理の答えは「判断しない」
「判断しない」「判断を入れない」人になるためには、相当な訓練・実践をしなければいけません。判断という主観が入る余地が無いくらいに、正確で緻密なデータを収集させるのです。ここから内容が急に難しくなってしまいます。仏道というのは判断する必要が無くなるところ(ありのままに観る、如実知見)まで、心という認識機能を成長させる方法を教えています。
■他人の主観を壊すことは人権侵害
面白いのです。生命は自分で判断するようにできていて、そこを他人が壊してはいけない。判断は主観なのですが、だからといって他人の判断を壊すことは人権侵害であって、相手の尊厳を侵すことになります。世の中・世界・社会は、人に判断を押し付けてくるものです。あなたの判断・気持ち(価値観)はどうでもいいから、こうしなさいと要求してきます。世界はそのようにして成り立っています。ですから、世界は苦しみの塊になっているのです。
■命は自由を求めている
世の中に不幸なことはいくらでもあります。大雨で洪水になったり、地震で津波が襲ってきたり、伝染病が蔓延して死者が増えたり、様々な出来事が起こります。今より昔の方が、不幸な出来事・天変地異が起きたでしょう。そうすると、神の怒りだと後付けするのです。世の中にはそれを信じる人もいます。どんな古い文明の中にも、歴史的に人が人を奴隷としてきた時代もあり、誰かが生命を支配・管理しようとしてきました。しかし、肉体は管理できたかもしれませんが、どうしても心(精神)を支配・管理することはできませんでした。なぜなら心は自由を求めて働くからです。
■怠けは死の道 苦しみの道
生命が判断すること--この判断も心がやっていることです。心はワガママで、自分勝手で、自由奔放で、神の言うことさえ聞きません。たとえ判断を間違えたとしても気にもしないのです。そして次の判断をします。判断をいくら間違えても心はそれを認めません。「今度は正しくやる」とめげない。そこで残念なのは、先ほど例にあげましたが、ネズミが餌を目がけて走ると、上空のトンビに捕まる。そこでネズミが「今度は気をつけるぞ」と考える。しかし、ネズミには気をつける〝今度〟はもうありません。トンビに捕まった時点で終わり。食べられて死んでしまいます。「今度」とか「次は」ということは成り立ちません。手遅れにならないために、お釈迦様は「appamāda/不放逸」という単語を説明されています。意味はon time・今やる。そうでなければ全てが手遅れになってしまうのです。皆さんもネズミの例のように「今度、修行しよう」という気持ちでやっているとしたら、たいへん危ういことだと思います。
■人は自ら正しい選択をしなければならない
だからといって、私があなたに瞑想実践を「やらせる」ことは不可能です。もし無理やり、あるいは強制的に、強引に瞑想をやらせたとしたら、それは悪行為であって罪になります。仏教では他の宗教と違って戒律項目がたくさんあります。道徳(生き方の指針)も膨大に教えています。しかし、一度たりともお釈迦様は「これをやれ/これをするな」という命令・指令はしなかったのです。そこは厳密に気をつけて語っています。皆さんも知っている仏教徒の基本である五戒ですら、頭ごなしに「殺生するな」とは命令していません。仏教では法則を教えているのです。自分が幸せになりたくて、健康でいたくて、長生きしたくて、それで他の生命の命を奪うとどうなるか? 命を奪う・殺生することでは、自分の幸福や健康や長生きは成り立ちません。その事実・法則を知っている人なら殺生はしません、というふうに教えているのです。その法則を理解して、自らが「私は殺生しません」と五戒を守るのです。
■法則を理解する
世の中でも一般的に使われているブッダの教えがあります。「自分がされて嫌なことは、他人にしてはいけない」という言葉・教訓です。これは元々、ブッダが説いた教えです。殴られるのが嫌だったら、先に自分が殴るのをやめること。人に軽視されたくなかったら、他人を軽視することをやめること。仏教で「人を軽視したら汝は地獄に堕ちる」と脅すことは決してありません。ただ、行為には必ず結果があります。それは法則であって避けられません、と教えています。人は結果が出てからあれこれ文句を言うのですが、いくら法則に文句をつけても無意味です。悪行為であるならば当然結果も悪い。善行為であるならば当然結果も良くなる。善因善果悪因悪果という法則は誰にもどうすることもできません。
■心を育てなければ人生はダメになっていく
心に正しく判断する能力はありません。運転免許が無いのに自動車を運転しているようなものです。危険極まりなく、それで幸せになれるわけがありません。しかし、心が判断することを止めるのも不可能です。判断するためのデータも揃っていません。データを揃えることも心にはできません。なぜなら心がありのままにデータを収集する方法を知らないからです。心は自分が思ったようにデータを持って来るのです。捏造するのです。まず自分の判断ありきで、価値をつけて、予断をもってデータを収集しています。それで物事は何も知らない状態(無明)でいるのです。要するに、判断してから見ているのです。一般的には先入観と言いますね。判断して知る、判断して動く、毎日起きている出来事です。
ということで、心は判断に失敗するので、常に「悔しい」という気持ちでいます。これが衝動にもなって、「もう一度、もう一回」と繰り返す。更に悔しくなって、もう一度とグルグル回転するのです。それで終わりが見えなくなります。この悔しい状態で生きることは幸福だとは言えません。
■判断をやめること 正しい情報を収集すること
そこで、仏教では心に向かって教えてあげるのです。ありのままにデータを取集する能力をつけさせ、判断することを止める方法を教えてあげます。まず正しくデータを収集してもらう。そうすれば「判断する必要は無い」ということが理解できるのです。悔しい気持ちになったのは判断をしたからです。判断しなければ悔しさは消えます。「判断しない」というプログラム(智慧)をブッダは教えているのです。正しくデータを収集する方法は、ヴィパッサナー瞑想です。実践すれば幸福になれます。しかし、幸福になるか不幸になるかは各自の自由です。手遅れにならないよう、正しくデータを収集する能力を育ててみてください。
怠けて仕事をサボる人は、仕事をするより怠けのほうが正しいと判断しているのです。「修行したいけど怠けに負けて修行は後回しになる」と悩んでいる人は、修行するより怠ける方が正しいのだと判断しているのです。「自分の判断が世にバレると批判される」と判断して、どうすれば怠けが無くなるのか、と他人に訊いてみるのです。素直に質問すれば、自分はいくらなんでも良い人間であると他人が判断してくれるだろうと、自分で勝手に判断しているのです。全て自分の判断が惹き起こす心の葛藤です。判断した瞬間、自分が正しい判断をしたのだ、という裏付けがあるので、判断どおりに実行するのです。期待外れの結果が出たら、判断は間違っていたのだと終わった出来事を評価するのです。また判断して、次の行動をに移ります。結果が出たら判断が間違ったと評価する。まず怠ける。それが間違いだと評価する。それからまた怠ける。このような循環が現れる。これら全て、主観的に判断したことの結果です。怠けに負けてしまう人を助けるための唯一のアドバイスは「『怠けない』と判断すること」です。人は自由に生きたいので、「怠けない」という判断も自分の自由な意志でくださなくてはいけません。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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