アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「無常=無我=苦に納得できない」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    「無常=無我=苦」ということですが、それぞれ別のものに感じます。どのようにイコールなのでしょうか?

[A]

     知識的に理解しようとすると、「無常」と「無我」と「苦」は別々の意味だと思うでしょう。しかし実践する人は「無常」「苦」「無我」をあまり区別しません。なにかひとつの相だけを智慧で発見すれば、解脱に達します。
    たとえば、一生懸命、修行して「一切の現象は無常である」と智慧で発見した人がいるとしましょう。その人に、「では、なにもかも無常だと発見したあなたは、無常たる現象は楽として評価しますか? それとも苦として評価しますか?」と、その実感を聞いてみます。その人は「無常なので、苦です」と答えるでしょう。「無常なので苦でも楽でもない」という答えもあり得ます。要するに「評価に値しない、価値がない、虚しい」という意味です。それが「苦」の定義です。ですからどう見ても「無常」とは「苦」なのです。次に「無常であり苦であるすべての現象の中で、実体として存在する、本体として変わらない、永遠不滅のなにかを見出せますか?」と訊かれたら、「そんなものはあるはずないでしょう」が答えになります。それが「無我」という意味なのです。ですから「無常=苦=無我」なのです。
    一切の現象の特色として、なぜ「無常」「苦」「無我」という相を三つも説かれたのでしょうか。同義語なので、単語ひとつで十分ではないでしょうか。理論的にはそのとおりですが、お釈迦様は実践中心に語る現実主義者なのです。
    「無常」はほとんどの人々、とくに一般の方々に理解しやすい側面です。知識人にも、教育を受けていない人にも、子どもにも、若者にも、理解しやすいのです。このタイプの人々は修行すると「無常」を発見するでしょう。
    また一部の人々は「生きることは苦なのか、楽なのか、究極的な楽があるのか」など感覚にしがみつく場合があります。その人々は修行をすると、一切の現象は「苦」だと発見するでしょう。
    また一部の人々は「魂とはなんぞや。魂は人間だけか、他の生命にもあるのか。魂の大本はなにか。神が大本の魂か。または神に大本の魂がついているのか」などという問題に興味をもちます。その人々は、「実体」を探しているのです。その人々が修行すると、「一切の現象に実体はない」という、「無我」を発見するのです。「無常」「苦」「無我」の三相は生命の性格に合わせた実践的な用語でしょう。
    三角錐のガラスの立体を想像してください。立てておくと三面があります。見えている面は三つありますが、まったく同じで区別はできません。三角錐の置物を観察する人はどんな面を選んでもかまいません。結果は同じです。現象の姿も、ピラミッドの置物にたとえてみてください。現象の三面に、「無常」「苦」「無我」と名付けるのです。ガラスの三角錐の面にも1、2、3とラベルを貼ることができます。三人の人に「ではこの三角錐を、それぞれの面から調べてください」とお願いすると、三人は「私は1を調べました」、もう一人が「私は2を調べました」、もう一人が「私は3を調べました」とそれぞれ報告します。そのとき、それぞれの報告の仕方は違いますが、調べた内容は同じです。そのように、修行する人は、もろもろの現象を観察すると「無常」「苦」「無我」のどれかを発見するでしょう。
    三角錐の置物を立てておくと三面だと言いましたが、実は三角錐は四面なのです。現象は三相ではなく、四相だとも言えるのです。その場合は、1.無常、2.苦、3.無我、4.空、になります。



■出典    『ブッダの質問箱』