アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「嫉妬」です。

[Q]

   自分で気づかずに嫉妬してしまっているような気がします。それってよくあることなのでしょうか?

[A]

■自分の煩悩には気づけないもの

    心の働きは複雑です。人は自分の煩悩に気づかないんですね。だからこそ煩悩から脱出できないのです。誰もが心の汚れの衝動で生きているのですが自覚がありません。だから悪いことを改めるのは難しいのです。

《しかし、「欲・怒り・嫉妬・憎しみ・恨み・妬み・偏見などは良くない、罪だ」という考えが世の中にあるのは、煩悩=悪いと気づいているからではないですか?》

    違います。結果が悪い、期待はずれになる、不幸になる…その原因は何だろう?と考えた時に発見するのです。例えば「先日の商談がだめになったのは、欲をむき出しにしたからだ」というように。
    しかしそれは過去の話だから、今さらどうすることも出来ません。問題は、私たちには今の瞬間、今の場所で行う行為に対して自覚が無いことです。「今、こうするしかない。これは正しい行為だ。正しい反応だ」と思って行っても悪い結果になると、また「この前は……」という過去の話になってしまうのです。    
    心の法則は「悪果になる、期待がはずれる」と知っているならば、自然にその行為を退けるということです。それは危険を避ける心理と同じです。
    悪いのは「“今”行っている行為は正しいし、幸福になる。それしかやることはない」と思ってしまうからです。それで想定と違う結果を見て悩むのです。
    だから、嫉妬に限らず他の煩悩にも気づかない、というのがご質問の答えです。
    頭で学ぶ煩悩は観念的です。煩悩のことをいくら学んで解っていても、清らかな人間になるのは難しいです。実際にある具体的な煩悩は、今の瞬間の心にあるのです。罪を犯さず生きたい人は、煩悩理論を学ぶより、今の瞬間の心の状態に気をつけるのです。
    自分の心に気づくことしか方法はありません。

《気づいてもなかなか上手くいかないというか、心が直らないのです。》

■自己正当化は成長の妨げ

    それは「自分が正しい」という前提から来るのです。私たちの心は瞬時に反応し、その反応を「正しい」と思ってしまう。確かに感情と妄想が無いならその瞬間の反応は正しいですが、感情と妄想がある限り「正しい」と決めつけることは出来ないのです。
    私たちの行為・行動には、いつでも別の選択もあるでしょう?例えば、他人に指摘されるとします。瞬時に怒りが沸いてくる。しかし、怒らないで話を聞くこともできる。その話を冗談として受けることもできる。心配してくれているのだとありがたく思うこともできる。そういう他の選択がある場合は瞬時の反応は正しくありません。
    心の煩悩に気づいても「だってしょうがないでしょう」と開き直ってしまうと心は治らないのです。自分を正当化することは心を清らかにする妨げになります。先程の、人に言われて怒りがこみあげてくる例に戻りましょう。その時は「相手が何を言おうが、私の心に起きた怒りは良くない。正しくない。悪です。結果は良くない」と思わないといけないのです。自分の心を育てる意欲・誓願と、それに伴う気づきで心の汚れは減っていきます。



■出典     『それならブッダにきいてみよう:こころ編1』   

こころ編1.jpg 155.09 KB