アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「義足での歩く瞑想」です。
[Q]
交通事故に遭って左脚に義足を付けるようになりました。リハビリに励み、事故前と感覚は違うものの歩く瞑想ができるようになりました。それからは毎朝一時間取り組んでいます。ただ、左の義足と右の健足では全く感覚が違うのです。義足でバランスを崩しそうになると速くに足を下ろしたり、調整や筋トレが不十分かもしれないのかも? と思ったりして、健常者とはかなり違うような気がしていました。以前長老が、片足の無い人が瞑想会に参加した時に「左右の感覚が違うから、歩く瞑想はやらなくて良い」とおっしゃったのに、その方は歩く瞑想を続けられたと聞きました。私のように片足が義足の場合は、歩く瞑想は正しい瞑想法になるのでしょうか? 他のやり方が良いのでしょうか?
[A]
■「それが何?」という気持ちで精進すること
気楽にやれば良いのですよ。義足なのが今の自分なのです。もう足は生えてこないんだから。受け入れなくてはいけません。悩んだりする必要も、他人と比べる必要も無いのです。自分は自分。事実だからどうにもならない。リンゴはキャベツみたいになろうと頑張る必要は無いでしょう? キャベツだってリンゴのようになろうと考える必要は無い。なったら気持ち悪いです。ありのままというのはそういうことなのですね。
歩く瞑想をする時でも当然、感覚が変わっていきます。それも自然なこと、当たり前のことですから比較しないで、「ああ嫌だな。右足と同じ感覚があった方がやりやすいな」とか「左足の方は実況中継がうまく行かないな」などと悩む必要は無いのです。その通りであると。左足だとうまく運ばなかったり、速く動かしてしまったりとか感じてもそのまま冷静に続ければ良いと思います。決して無理はしないで欲しいのです。無理をするということは、妄想に支配されているということです。妄想ではなくて、現実に管理されて生きて欲しいのです。
メッセージの追記を読むと「右足の動きがちょっと速くなってしまう」とありますが、それは現実の状態がそうさせているのですね。それなのに、「生身の右足と同じリズム・同じパターンで動かしてやろう」と思うのは妄想から来る考えですから、当然、トラブルが起きたりするでしょう。妄想をやめて冷静に、現実に即して実践すれば成長すると思います。
質問に出てきた片足の無い方へのアドバイスは、大変だろうなと気遣っての言葉でした。その人には、「歩く瞑想はやらなくても構いません。その代わりに別の何かをやって下さい」と言ったのですが、当人は「自分の足で歩いてこそ人間ですから」と考えていたのです。普通のプログラムでやらなくてはいけないのだと。私は、そこまで精進する人間というのは珍しいとびっくりしました。当然、その人は自分の瞑想をしっかりと成功させました。たまに義足を外してみるなどの工夫もしていたようです。「障碍は嫌だ」とか、自分を惨めに感じていなかったのですね。その精神があれば、成功するのですよ。
だから、私は「障碍があるから……」と弱音をはく人には、「それが何か?」と答えるのです。「目が見えないのだ」「だから、何?」とかね。大変失礼なことを言っているように聞こえるけど、本当の意味は、「他人は他人であって、あなたはあなたですよ」ということです。「あなたと比較するものは存在しないんだよ」と。その精神が心に入ればすごくかっこ良いでしょう? そういうことで頑張って欲しいのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
https://amzn.asia/d/7uWPWrQ

