アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「正しい終活とは?」です。

[Q]

    日本では「終活(人生の幕引きのための準備活動)」があります。終活についてどのようにお考えでしょうか?    亡くなる人が、遺族へいろいろと引き継ぐことを兼ねているようでもありますが。


[A]

■終活に取り組むのは立派なこと

    終活を死ぬ準備としているなら、それは立派なことだと思います。皆、バカバカしいほど生きることばかり考えていますね。生きることを考えるんだったら、死ぬことも考えなくてはいけないでしょう。生きることに計画を立てるのだったら、死ぬことについても計画を立てた方が良いでしょう。それは人間らしい考えです。ただそこに迷信や妄信を入れたり、くだらない信仰を入れたりしてしまうと、どうすればいいのかわからなくなってしまいます。阿弥陀様を信仰するか、観音様を信仰するか、どちらにするかなど、訳がわからなくなってしまうのです。

■「あなたは今、死ねますか?」

    ですから、そこは理性に基づいて「あなたは今、死ねますか?」と、自分自身に問うてみるのです。その時に出てくる感情の中に、現実的に今やるべきことが見つかります。例えば今死ねるか?と自分に問うた時に、いや子供がまだ結婚していないとか、老親の介護をしなくてはいけないとか、俗世間的な執着が出てくるのです。次に、それが完了したなら死ねるのか?    と問うてみる。完了することはできません。生きている間では、次から次へとやるべき義務が現れてくるからです。

■死んだ瞬間にどんな義務も消える

    親が年老いて自分が面倒を看ているとします。この義務が現れたのは自分が生きているからなのですね。子供たちの結婚にもいろいろと協力してあげなくてはいけないというのも、自分が生きているからです。死んでしまったらその義務は全て消えてしまいます。ですから、私たちが「死ねない」と心配して執着している義務のほとんどは大したものではありません。自分が死んだ瞬間に全て消えてしまうものなのです。例えば自分が総理大臣という役職であっても、今の瞬間で死ねるはずです。職種は関係ありません。代わりはいますから国は困りません。
    それで最終的に、俗世間でやらなければならない義務というのは、全て無意味であると理解する。義務というのは、自分が生きているならやらなければいけない、ということです。自分が死ぬ時は穏やかで明るい気持ちで、怒り・嫉妬・憎しみの無い心で死ななくてはいけません。ですから今、慈しみの気持ちでいること。今、慈しみの気持ちでいるならば、今死んでも大丈夫です。

■どうせ死ぬなら清らかな心で

    大胆な例を出します。例えば飛行機に乗ってどこかへ行くとしましょう。飛行機が壊れてしまい墜落する。操縦不可能になる。機体は揺れるし、シートベルトを締めろと言うし、酸素マスクが下りてくるし、もう逃げられません。残された時間はあと数秒しか無いとします。そうなったら、さっさと慈悲の瞑想でもしてください。「どうせこのままだと死ぬのだから、じゃあ清らかな心で死のう」と慈悲の瞑想をするのです。西洋文化の場合だと、神様にお祈りするとかいろいろとします。それは不幸な死に方です。神様に祈ったからといって神様が助けてくれることはありません。あるいは宗教に関係無く、「みなさん、もう後が無いから泣かずに笑って死にましょう」「この世界にさよならと言って死にましょう」とか、もし実行すればその瞬間で心が明るくなります。大胆なことですが、そのように明るい心で死ねたなら執着も減っていることになります。執着が減っていれば死後も問題ありません。

■「いつ死んでも大丈夫」が終活の完成

    そういうことで、終活というのは「いつ死んでも大丈夫」という状態でいることです。いつでも怒り・嫉妬・憎しみ・恨みが無い心で生きていることです。なぜならいつ死ぬかわかりません。次の瞬間に死ぬかもしれませんよ。怒り・嫉妬・憎しみ・恨みという感情をカバーするのは、慈しみという気持ちなのです。答えはこれしかありません。

■誰一人として「義務を果たして」死ねない

    この世で義務を果たして死ぬということはあり得ません。誰でも終わりのない義務を残したままで死んでしまうのです。やるべきことが無いということで、皆が陥るのは認知症になってしまうことです。それは世間のことにあまりにも依存し過ぎていたという証拠ですね。毎日やっていることだけが人生だと勘違いして、徐々に日常生活ができなくなると、例えば料理することもできなくなって、掃除や洗濯することもなくなって、家の管理なども他の人がやることになる。自分は与えられたご飯を食べて座っていればいいだけ、そんな生活になると大抵認知症になってしまうのです。

■心を慈しみで満たすことが認知症対策

    私たちは世の中に執着し過ぎています。みんな世の中の義務を果たして、別に悪いことをした訳では無いのですが、家族を支え子育てもして、仕事や家事や近所付き合いも一生懸命やってきたのです。そうかもしれませんが、俗世間の義務がどんどん減っていくと認知症になるのです。認知症の対策としても、今の瞬間から常に慈しみの心でいた方が良いのです。そうすると脳が仕事をして活性化します。慈悲の瞑想でもすると脳が忙しくなります。そのように「いつ死んでも大丈夫」というような心構えで生きるようにしてください。そんなに難しい問題ではありませんね。元気な時から人を助けてあげたり、自分にできる善行為をしたり、いつでも今日一日は良かったと言える気持ちで生きてみるのです。

■「これを捨てることができるか」とチェックする

    「今日一日は良かった」「がんばって生きた」という気持ちで生きる。そのように生きていれば突然死んだとしても明るい心で逝けます。ブッダの言葉で「執着を捨てなさい」と言うことです。それで究極に幸福な死に方ができるのです。それも心に留めておいてください。私たちはいろいろな執着があります。いつでも「これを捨てることができるか」とチェックする。それも死の準備になります。

■死ぬ準備をすることで現れる智慧

    そのように死ぬ準備をすることで、相当な智慧が現れます。解脱に達しなかったとしても、梵天ぐらいに生まれる力になります。感情があれば具体的に捨てた方がいいのです。家にある何かの品物に愛着・執着がある。捨てようと思っても捨てられない。だったら、そういう品物ほど捨てた方がいいのです。物理的に捨てられなかったら精神的に捨てたことにする。つまり「私のものではない」と思うこと。そのように自分の身体についても、「これは私のものじゃない」と思うのです。
    この身体は壊れやすいし、痛みを起こすし、酷い奴です。身体から起こる痛みについても、「この痛みは私のものじゃない」と捨てる。自分が考えることについても、条件によって考えが起こるのであって、「考えも私のものじゃない」と全部捨ててみるのです。そういうふうに持っているものを何もかも捨てることができれば、悟りに達する可能性が九十パーセントぐらいあります。

■まとめ:真理は助けになる

「心を清らかにする」「執着を捨てる」というふうに終活を行うのが正しいのです。逆に信仰するということは、何かに頼る・依存する・掴まることになります。例えば仏教を勉強していても、「お釈迦様助けてください」と思ってしまうと執着したことになってしまいます。お釈迦様は助けに来てくれませんよ。お釈迦様は「法(教え)を頼りにしなさい」と言われているのです。教えを頼りにすると助けになります。教えでは「全て捨てなさい」と言っていますからね。終活として、ブッダの説かれた真理の教えは助けになります。 



■出典    『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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