アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。

[Q]

    テレビである方が「この世は生きるに値する世界なのだと教えたい」と言っていました。私はその言葉を聞いて、「本当にこの世は生きるに値する世界なのか?」と迷いました。今も答えを見出せないでいます。長老はこの世は生きるに値する世界だと思われますか?


[A]

■この世に価値があるなら解脱する必要はなくなる

    仏教では「解脱しなさい」と教えています。もしこの世に価値があるのなら、解脱する必要はなくなってしまいます。生きることは苦(dukkha)なのです。そうすると、生きることに価値はありません。「この世に価値がある」「生きることに意味がある」というのは、間違った見方・考えです。しかし、世界では生きることに価値・意味があると真剣に思っているのです。

■生きること、それは残酷な行為

    今、頑張って生きているのですが、よく見てみると苦しいだけだとわかるはずです。なぜなら現状では、生きることは相手を殺すことで成り立っているからです。生きるとは弱肉強食です。弱い者は奪われて死に、強い者だけが生き残る。誰にも迷惑をかけないで生きていると言ったら、すぐに命は終わってしまいます。海の中でも一番大量に捕食されるのはどんな魚か知っていますか?    イワシやアジなどの小魚でしょう。例えば豚にしても、どんな残飯でも食べて生きている。人間がそれを食べるのです。

■自然法則は弱肉強食

    自然法則というのは、恐ろしい弱肉強食のルールで成り立っています。私たち人間が食物連鎖の頂点にいるということは、人間が一番恐ろしい存在であるということにもなります。例えばライオンなどの猛獣は、自分が食べる獲物以外は殺しません。人間は食べるためだけではなく、それ以外にもたくさんの生命を殺して生きています。人間が怖れるサメでさえ他の生命と共存していきています。サメの体にくっついて生きる魚もいるのです。別にサメは気にもしないのです。
    では人間はサメのように、他の生命を助けて生きる・共存することをしているでしょうか?    そんなことは全くありません。動物園や水族館など人間の勝手で、生命を檻や水槽に入れて楽しんでいるのです。「見て楽しい」「子供たちが喜ぶ」「金が儲かる」からと、そんな理由なのです。それを考えただけでも人間の残酷さがわかります。それは共存・共生とは言えません。
    それから私たちが使うものひとつ取っても、例えば石鹸のラベルに「殺菌」などの表示がないと売れないのです。食器用洗剤も殺菌能力が九十九パーセントと書いておけば、みな安心し喜んで買ってくれるのです。人間の恐ろしさ愚かさというのは限りがありません。それが弱肉強食・食物連鎖のトップなのです。これが事実です。なぜ事実ではなく「生きることに価値がある」「命には意味がある」「命は尊い」と嘘を言うのでしょうか?    ここまでは面白くない話です。聞きたくない話だと思います。強者の理屈で殺す側の立場では、自分たちの行為が間違っている・おかしいと言われたくはないのです。

■生きることに何とか価値を見出したければ、他の生命に優しくすること


    もうひとつ人間には、他にやるべき仕事があるのです。相手に対して優しくする、相手を助けてあげる。その時、初めて生きる価値が現れるのです。ある人は「こっちに来るな」と言う態度で独り占めしてご馳走を食べている。もう一人は同じご馳走を他の人や動物にも「みんな来て一緒に食べよう」という態度で分け与えて自分も食べる。自分だけではなく皆が喜び、慈しみがある。そこで新たに生きる価値が現れてくるのです。そんなストーリーで理解してみてください。

■自分の能力は共有・シェアすることで発揮される

    ですから、自分が持っている能力(技術・体力・才能・財産)を、他の生命に幸せを与えるために使う場合、生きることは美しいと言えます。能力というのはさまざまです。仏教から見れば、ただ容姿が整っていてカッコイイ・カワイイという、瞳の色がキレイで、目が宝石みたいというのもひとつの能力です。生まれ持ったもの、自分が育てたもので無くても能力は能力です。そういう能力さえも他の生命に役に立つように使うのです。
    おしゃべりがとても上手な人がいるとしましょう。どんな些細なことでも面白おかしく冗談としてしゃべることができる。口が達者ということです。それもひとつの能力です。そんな能力を持った人が、誰かがケンカしているところに割り込んで、冗談を言って仲裁・仲直りさせる。ケンカしている人が知らないうちに、冗談によってケンカを忘れさせてしまう。そのように、生まれ持った能力と生まれてから身に付けた能力、あらゆる能力を他の生命を破壊するためではなく、他の生命を応援するために使うならば、生きることが美しくなるのです。そうしない場合、生きることは弱肉強食で途轍もなく残酷で恐ろしいことになります。

■それでも生きることは恐怖そのもの

    質問した方が仰っているのは、「生きることは人間も他の生命と同じように自然であって、生きることはありのままが美しい」という態度です。自然に生きることは決して美しい世界ではありません。見れば見るほど、知れば知るほど残忍なのです。震えるぐらい恐ろしいのです。どうしようもないかもしれませんが、生命・生きるということはこのような残酷なシステムで成り立っているのです。野生の鳥は大事に自分の雛を育てます。木の上に巣を作るのですが、残酷にも蛇が木を登ってくる。鳥の親子も蛇も必死で生きようとしている。どう思いますか?    違う見方をすれば、雛をすくすくと育てるために親鳥はどれぐらいの虫を殺しているでしょうか?    殺される虫の立場になってみればたまったものではありません。とても迷惑です。どうしようもないのです。命・生きることは恐怖に飲み込まれています。恐怖そのものです。
    人間が豊かで贅沢に生きられるようになったということは、地球そのものを破壊し修復できないようにまでしてしまったということでもあります。もう人間はやることをやって頂点に達して、他にやることもなくなったものだから、人間同士で殺し合い・戦争をするための準備をして待っている。世界や他人を破壊したくてウズウズしているのです。メディアや政治もヤラセで煽っているのですが、人は頭が悪いからすぐに乗ってしまう。皆、凶暴な態度です。優しさのひと欠片もありません。儲かるか儲からないかで全てを判断する。アメリカのように友達のフリをして裏切るというやり方に、世界は騙されてやられるのです。日本は幸せ・平和の頂点に立ったのだから、次は戦争でもしたいと思っているかもしれません。ですから、生きるということの根本的な恐ろしさというのは、全く無くなっていないし、消えていないのです。
    どこの世界でも同じです。わざとトラブルを起こして、対立を生み出し、互いに憎しみを掻き立て、隙を見ては付け入って、奪って操る。正義の味方になって相手を殺すという考え方です。単に自然の流れで生きるということはけしからんことです。そのことを知っている人は、新しい生き方を提案しなくてはいけないのです。

■「役に立つ」ということの意味を理解して生きる

    最終的に言えることは、生きることで人間に限らず他の生命の役に立っているならば、そこで初めて生きることに微妙な価値が出てくる、ということです。鹿のお母さんが小鹿におっぱいをあげるために必死になって草を食べる。その時、人が育てている農作物を食べてしまうかもしれませんが、しかし子育てするためには仕方がないのです。野生の動物を見ると、子を守るために必死になって生きているのが見えます。凶暴な相手が現れても逃げないで命がけで立ち向かうのです。そこには他の生命のために頑張って生きる、という価値が見えるのです。
    私たち人間は、他の生命にとって迷惑な存在になるのでは無く、他の生命の役に立つ存在になるということを、あらゆる方向で教育して教えなくてはいけないのです。どんなことでも他の生命に役立つという目的で行なった方が良いと思います。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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