アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「解脱」と「悟り」という言葉の使い方について、スマナサーラ長老が答えます。

[Q]

   「解脱」というと阿羅漢になったということで、「悟り」というと預流果以上の聖者のことだと理解していますが、実際にはどうなのでしょうか?
 
[A]

■厳密には「解脱」と「悟り」には違いがある

    私はそこまで気にして単語を使っているわけでもありません。預流果も解脱の道には入っています。預流果に至れば、それから修行をしないでいても一旦煩悩が薄く・弱くなったのですから、それ以降も薄く・弱くなっていく一方なのです。例え輪廻転生したとしても、多くて七回の転生のうちに解脱に達すると説かれています。確かにきちんと言葉の区別をしておいた方が良いと思います。
    解脱に達した阿羅漢果というのは、完全な悟りです。最終的な悟りで、「無学」とも言います。他の預流果・一来果・不還果の方々は「有学」といってまだ学ぶべきことが残っているのです。学ぶべきことが終われば「無学」になります。一般的には、預流果に達することも悟りと言います。その人は、一来果、不還果、阿羅漢果にならなくてはいけないので、悟りが三回起こるのです。阿羅漢果になったら悟りに達するプログラムが完成します。完全に解脱に達した人になります。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:さとり編2』   

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