〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
阿純章(東京都圓融寺)
小野常寛(東京都普賢寺)

慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。連載第2回は、天台宗の阿純章(東京都圓融寺)さんと小野常寛(東京都普賢寺)をお迎えしてお送りします。
お二人がお坊さんになるまでの道のりから、天台宗と聖徳太子の関係、修行と悟り、天台宗が目指す世界まで、縦横無尽にお話が展開していきます。前回の真言宗では「空海ロックンローラー説」が提唱されましたが、天台宗の宗祖、最澄さんはいったいどのような方だったのでしょうか?


(1)僕たちはなぜお坊さんになったのか


■「阿(おか)」の由来

前野    皆さん、こんばんは。今日は「お坊さん、教えて!」の第2回です。私は司会を務めます慶應義塾大学の前野隆司です。前回は真言宗の二人をお迎えして、空海はロックンローラーだった説など、いろいろなお話を楽しくお聞きしました。本日は天台宗です。よろしくお願いします。

安藤    多摩美術大学の安藤礼二です。私は近代の思想家を専門にしているのですが、その代表としての南方熊楠にしても鈴木大拙にしても、やはり仏教と深く関わっています。近代思想を読み解くためにも仏教を知らなければいけないと思っておりまして、「お坊さん、教えて!」に参加させていただいております。どうぞよろしくお願いいたします。

前野    本日は天台宗の阿純章(おかじゅんしょう)さんと小野常寛(おのじょうかん)さんにお越しいただいています。阿(おか)さんは「阿」と書いて「おか」と読むのですよね。驚いたのですが、どういう由来があるのですか?

    漢和辞典を引くと、小高い山、丘を意味すると書いてあります。「阿」はこざとへんに可能の可ですけど、こざとへんは横にすると丘のイメージ、「可」のほうはさんずいを付けると河ですので、河のほとりに山があり、河が山をおもねって流れているという意味合いがあります。なので訓読みで「ほとり」や「おもねる」とも読みます。
    皆さんご存知のように、お坊さんは元々は結婚できず、子どももいないので姓をつけるということはなかったのですが、明治になってから日本では結婚して家庭を持ってもいいということになりまして、そこで初めて名字を持つことになりました。それで釈氏(しゃくし)というお釈迦様の氏(うじ)というようなお名前など、仏教的な名字を付けることが多かったようです。おそらくそのときに、当時の私の先祖も阿弥陀の「阿」、阿吽(あうん)の「阿」、阿字観の「阿」というイメージが仏教っぽいということで付けたのではないかと思います。
    同じ「阿」でも北九州には「ほとり」と読む浄土宗のお寺さんがいらっしゃいます。「おか」と読むのは私のところと、叔父さんがやっているお寺だけなので、血筋で言うと日本で1軒の珍しい名前です。

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阿純章さん(写真提供=阿純章)
■お坊さんになった経緯は人それぞれ

前野    ということは、阿さんはお坊さんの家にお生まれになったということなんですね。最初からお坊さんになろうと思われたのですか?

    最初は反発しましたね。どのお寺の子もそうですけど、大体いじめられるんです。坊主丸儲けとか、生臭坊主とか言われますので、自分の父親はなんてひどい仕事をしているんだ、と思っていました。若いときは死の大事さがわからないので、葬儀に携わる仕事は自分には合わないんじゃないかと思っていて、常にどうやってこのお寺から逃げようかと思っていました。自分の敵を知るがごとく仏教を学んで逃げる口実を見つけようと思いましたが、逆に仏教の魅力に取り込まれてしまったというような、感じでしょうか。

前野    学校で仏教を学ばれたのですね。

    いえ、実は小中高はキリスト教の学校に行って、日曜日は教会に通っていました。般若心経よりも主の祈りを先に覚えましたし、お経よりも讃美歌のほうが素敵だなと感じていました(もしかすると今でも……)。愛読書は『聖書』ですし、大学に入るまでは仏教のブの字も知りませんでした(笑)。大学は客観的に仏教研究できるところを選びました。
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キリスト教の学校に通っていた頃(写真提供=阿純章)
前野    僧侶であるお父様が息子をキリスト教の小学校に入れるというのは、どういうことなのでしょうか。

    当時は珍しくて、小学校でもみんなが「なんでお寺の子が?」と驚いていました。父に聞いたところによると、幼い私の目の前に地球儀を置いて、日本やアジアの国を指差して「ここが仏教の国、お釈迦様の国だよ」と。そしてぐるっと回して、「ここがキリスト教、ここがイスラム教。きみはこのちっぽけな日本のここにいるけれども世界は広くて、いろいろな素晴らしい教えがあるんだよ。この狭い中に閉じこもっているかい?    それとももっと広い世界を見てみるかい?」と尋ねたそうです。子どもは絶対広いほうを選びますよね(笑)。
    それでまあ、広く外の世界を見たほうがいいという父親の教えに従って、キリスト教の学校に進みました。そういう生い立ちもあって、未だに天台宗内部に入れずに外から見ている感じもします(笑)。

小野    いやいや、中核にいらっしゃいますから(笑)。

    小野さんもはみだし者ですからね。今日は二人はみ出し者が来ているようなものです(笑)。

前野    常寛さんのほうはどういう生い立ちで。

小野    私も阿さんとまったく一緒で、寺に生まれ育ちました。父も祖父も曽祖父も僧侶です。お坊さんの中では珍しく、小学校の文集にすでに「僧侶になりたい」と書いています。
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お坊さん一家に育った小野常寛さん(写真提供=小野常寛)
    祖父が住職をしていたときに、非常に表情の暗い人がやってきて、祖父と数時間喋って帰っていくときに満面の笑みだったのが印象的で、「ああ、仏教というのは人を幸せにするものだな」と思ったんです。それで僧侶を目指すときに、より「良い」お坊さんになりたい、英語も好きだったので、グローバルなお坊さんになれればと思いまして、一般の大学に行き、留学もし、ベンチャー企業で仕事もし、そして戻ってきたという感じです。

前野    ベンチャー企業で働いていたのですか。何年くらいですか?

小野    3、4年働いて、その後自分の会社を起こしました。お寺のカフェを運営したり、お坊さん向けのアプリを作るような内容で、たいした会社じゃないんですけど。
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お寺カフェにて(写真提供=小野常寛)
前野:    いやいやいや。起業もされて、でもやっぱり、お坊さんになろうと思われたんですね。前回の真言宗お二人も、最初はなろうと思っていなかったと仰っていましたし、阿さんもなろうと思われなかった。最初からなりたかった小野さんは少数派なのですかね。

小野    多分少数派ですね。

前野:反発して広い世界を見るからこそ、その良さがわかるというか、そういうお話はお寺のみならずいろいろな分野でお聞きしますけど、そういうことなのでしょうね。

──阿さんはキリスト教を学ばれましたが、牧師さんになられる道もあったのでしょうか?

    それはたぶんなかったと思います。私は子どものときから自分って何だろうかとか、この世界があるって何だろうとか、そういう不思議さを追求したいと思っていまして、たまたまお寺に生まれたので仏教との縁をもつことができましたが、仏教だけが正しいと信奉しているわけではなく、真理を探求するといったら大袈裟かもしれませんけど、そういう意味で仏教を学ぶのは非常にいい手段だなと思ってお坊さんをやっています。
    これからも仏教に限らず、真理を探求する上で何かいい手立てとか教えがあれば学びたいと思っています。キリスト教か仏教かではなく、どちらでもないという感じです。


(2)最澄はどんな人だったのか


■最澄イノベーター説

前野    ではさっそく天台宗という宗派についてお話を聞いていこうと思います。

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前野隆司先生(撮影=横関一浩)
安藤    歴史ってドラマチックですよね。一方に空海がいれば一方に最澄がいる。二人は完全な同時代人で、最澄は法華経を根本経典にして、比叡山という総合的な佛教大学を作った。空海の真言宗も総合的ですけど、最澄もまた空海とは違った意味で総合的な人だったのではないかと思います。浄土宗、浄土真宗、禅宗、それから日蓮宗、これらすべてが比叡山から生まれてくるんです。鎌倉新仏教の人たちは、みな比叡山で学んで、比叡山から降りて、それぞれの宗派を立てています。比叡山は日本の各宗派の根源みたいなところがありますよね。前回、空海ロックンローラー説を提唱したのですけど、最澄からは空海とはまた違った意味で、強烈な反抗心のようなものを感じます。今までの仏教の秩序を壊して、すべての人間は平等だという強烈なメッセージを発した人なのではないかと思います。お二人は最澄という人についてどういうふうに考えられているのでしょうか?

小野    伝教大師最澄さんと弘法大師空海さんの差は名前を見ると明らかです。大師号というのは高徳な僧が天皇から贈られる尊称でして、最澄さんは伝教大師ですから教えを伝える大師ですね。空海さんは弘法大師ですから、法を広める大師です。名前は空海さんが空と海で、最澄さんは最も澄むと書きます。最澄さんは教えを後の世までいかに伝えていくかというところに特化されていて、教えが伝わったからこそ日本比叡山は仏教の母体、母なる山と言われるようになりました。
    最澄さんが出現するまで、日本の仏教といえば奈良の仏教でしたが、奈良の仏教は基本的には朝鮮と中国から入った輸入仏教だと言われていました。それを日本の仏教に変えたのが最澄さんです。最澄さんは日本の仏教を作らねばという大志のもと、戒律や教えといった日本仏教の基盤を作りました。最澄さんと空海さんはお二人とも山岳修行者であり、かつ唐にも渡っているなど、いろいろな共通点がありますが、空海さんが天才型あるのに対して、最澄さんは今風な言葉で言えば、イノベーターみたいな存在だったのかなと思います。
    最澄さんは密教と顕教(けんぎょう)は一緒であるという大いなる仮説を作りました。その仮説には不足している仏典などもあって、存命中には教義として完成されませんでしたが、慈覚大師や智証大師など後世の高僧がそれを補って完成させていくための基盤を作った、本当にもっとも澄んだ、純粋な方だったのだろうと思っています。
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普賢寺の前にて小野常寛さん(写真提供=小野常寛)
■一乗思想

前野    仮説についてもう少し詳しくご説明いただけますか?

小野    聖徳太子の「和を以て貴しとなす」に表されている和の仏教を作るのが日本仏教の定めだというふうに最澄さんは考えたと思うんです。ですから、法華経も密教も浄土も禅も、それから神道も、法華経の立場から見るとすべて同じ概念であると言い切っていました。
    空海さんは、法華経より密教のほうが優れていると十住心論(じゅうじゅうしんろん)の中で書かれていますが、最澄さんはすべて同じだと言い切っている。そういう和の仏教が、日本においても作れるという大いなる仮説を作った人だと思うんです。仮説と言っても最澄さんご自身は確信に近いと思いますが。

    最澄さんは当時の固定観念を覆して新しい仏教、新しい仏教というよりも新しい国、新しい世界を作ろうという大きなスケールを持っていた方だと思います。我々天台宗の中からすると宗祖というイメージで捉えてしまいますし、比叡山も南都の仏教から離れて、天台宗という宗派として独立した山というイメージで捉えられがちですが、最澄さんご自身はそんな思いはさらさらなくて、別に天台宗を立てるために教えを説いたわけではなく、みんな一人ひとりが幸せになれる世界を作りたい、そういう大きな理想を抱いて新しい道を切り開いて、今の日本の精神文化の土台を築いてくれた方ではないかと私は思います。
    天台宗という宗派は最澄さんよりも200年前に中国でつくられた宗派で、中国でも日本でもたいへん伝統的な仏教です。なぜその伝統的な仏教で常識を覆せるのか、そこがわかりづらいところかもしれません。
    それを説明するために中国の天台宗の成り立ちについてお話します。
    先ほど安藤先生が仰ったように、天台の特色はありとあらゆる仏教の教えをまとめた綜合仏教であるところです。中国天台宗の開祖は6世紀の半ばくらいに中国で活動した天台智顗(てんだいちぎ)で、天台宗を開いた理由は仏教を綜合的に整理するためでした。
    仏教は一言でいうと仏の教えであり、仏になる教えです。仏の教えはいわば知識で学ぶ教えで、仏になる教えはいわば修行の教えです。この2つがあってはじめて仏教と言えるわけです。
    実践がないまま学問の仏教ばかりやっているのは、ガイドブックばかり見ていて旅行に行かないのと同じですし、実践ばかりで学問をやらないのは、ガイドブックを持たずに旅行にぽーんと出てしまうような無謀なことにもなります。だから実践仏教と学問仏教は両方必要なのです。
    また仏の教えは八万四千の法門(はちまんしせんのほうもん)といわれていて、経典も聖書やクルアーン(コーラン)のように1つだけというわけではなく、時代によって、あるいは地域によって釈尊の教えはこうである、ああであると解釈され、たくさんの仏典が作られました。実践行も、瞑想法があったり念仏が出てきたりと無数にあります。
    当時の中国はインドや西域地方から長い時代をかけて熟成されてきた仏教の教えや実践法が一挙に伝わってきたために、それらをどう矛盾なく理解していいか混乱している有り様でした。また北朝と南朝に分かれていて、北は北方民族が支配していて実践仏教が盛んであり、南は北から逃れてきた漢民族が貴族社会を作って知識的な学問仏教が盛んであるという、アンバランスな状況でもありました。天台智顗は南朝の人ですが、ちょうど北朝との間に位置する湖北省にいて、慧思(えし)という人物から北地の実践仏教を学び、それを土台に実践仏教を綜合し、それから学問仏教を綜合して、さらには学問と実践の仏教を綜合しまとめていくということを行ったわけです
    それが天台智顗の大きな業績です。しかもただ綜合したのではなく、天台智顗の根底には一つの理念がありました。それが先ほどの常寛さんが仰った仮説につながると思うのですけど、一乗思想(いちじょうしそう)という理念です。法華経の中で一仏乗(いちぶつじょう)ともいわれていますけど、一乗というのは一つの乗り物を表しています。あらゆる存在すべてが仏という一つの乗り物に乗っている。だから、誰も取りこぼすことなく、みんなが平等に仏の世界に行くことができる。行くというか、もう仏の世界にいるんですよね。
    それに気づかないでみんなバラバラにいるけれども、実はみんながすでに同じ仏の世界にいるのだから、それぞれがそれぞれの場所にいながら仏として生きればいい、という教えなんです。
    ただ、自分が仏であるということにはなかなか気づかないので、その人その人の立っている場所に応じてそれぞれの教えが必要だということになるわけです。
    天台智顗の有名な言葉に、一目羅不能得鳥(一目の羅、鳥を得ること能わず)という言葉があります。一目は一つの目ですね。羅は網のことですけれども、網目が一つであったならば、鳥を捕まえることはできない。たくさんの網目があるからこそ、多くの鳥を捕まえることができる。それと同じように、仏教もたくさんの教えがあるからこそ、多くの人を救いとることができるのだ。ただ一つの教えだけではだめなんだ。その人その人に合った教え手立てを講じて、一つの乗り物にいるということを気づかせてあげよう、そしてそこで仏の国にみんなで住んでいるということをちゃんと気づかせてあげましょうよ、と。そのために仏教のさまざまな教えと実践行をまとめたわけなんです。
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都区内最古の木造建築・圓融寺釈迦堂(重要文化財)(写真提供=阿純章)
■止観とは何か

    一乗思想というものをこの世界でどうやって体現するかというところで、修行が大切になります。その修行が止観です。最近、ヴィパッサナーやサマタ瞑想などの瞑想法、あるいはマインドフルネスなんかも流行っていますけれども、それらの淵源(えんげん)になる止観というものをもとにして、そこにさまざまな仏教修行を導入して、天台智顗は一つの綜合的な仏道修行の体系を作り上げました。いわば究極の悟りマップみたいなものですね。

──止観について詳しく教えていただけますか。

    止観の「止」は心の動揺を止めること、「観」はありのままにものごとを観察することです。止はサマタ、観はヴィパッサナーとも言いますね。大智度論(だいちどろん)という経論の中には、瞑想には止の修行によって得られる定(禅定)と、観の修行によって得られる智慧の両方が必要であると書かれています。譬えとして衝立(ついたて)と蝋燭の灯(あかり)の関係性でそれを説明しています。つまり衝立がなければ風に揺れて火が消えて観察することができない。衝立があることで火が保たれて、ありのままに見ることができる。だから二つで一つなんですね。
    観察をするときに止が必要なのは、立ち止まって観察してはじめて、ありのままに今あるものを感じることができるからです。我々は頭の中で過去に行ったり未来に行ったりして、目の前の現実に対して様々な解釈を加えますけど、もともと今ここにしかいないわけですから、今ここに戻ってありのままに観察してみることが大切なんです。
    観察というと、通常は自分が何か対象を観察するイメージですけど、今ここの感覚でありのままに観察してみると、自分はいないんですよね。これは言葉で説明してもわかりづらいのですけど。
    頭の中では、自分があってその外側に世界があるというのが前提になっていて、自分と外側を分けてしまいますけど、今ここに戻ってみると、いくら探しても自分はいないじゃないですか。自分というのは記憶や言葉でしかないですし、見たり聞いたりしているのも、脳がそれを受信して頭の中で総合した再現ビデオを見ているだけなのです。
    今ここでただ感じてみると、自分と外側の世界という区分けはない、境界線がないということがわかります。そこに本当の真実があるのだというのがヴィパッサナー瞑想の考え方です。そのためにはサマタ瞑想というものも必要になるんです。
    自分というものはこの世界には存在せず、存在しない自分が感じている世界を観察する。言葉で言うと非常に難しいですけど、実際やるともっと難しいんですよ(笑)。
    これが天台の止観です。禅やヨガやマインドフルネスなど、あらゆる瞑想の中に止観の要素があります。アプローチや説明の仕方が少し違うだけで、境地としては同じではないかと思っています。


(3)一乗思想


■聖徳太子と一乗思想

    最澄さんの時代、南都仏教は法相宗(ほっそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)が二代双璧でした。南都六宗といってそれ以外の宗派も南都仏教を支えていましたが、そこに鑑真大和上(がんじんだいわじょう)が戒律を伝えにやってきます。
    鑑真大和上がなぜ日本にやってきたのかについては、大きな謎があります。当時の中国仏教界では大御所中の大御所であったのに、そういう方がわざわざ6回も渡航を試みて、命からがら日本に来た。過酷な旅のため最後は失明もしてしまう。中国にとっては人材の流出ですし、政府もみんな止めたといいます。であるにもかかわらずなぜ日本に来たのかというと、ある伝説があったからだと言われています。それは天台智顗の師である慧思の生まれ変わりが聖徳太子であるという伝説です。慧思が聖徳太子に生まれ変わって和の思想を伝えているのだから、自分も慧思の恩に報いるために日本に行って一乗の思想を伝えなければならない、そういう使命感に燃えていたんだと思います。それは文献上にははっきり出てこないのですが、鑑真の弟子である思託がつくった鑑真の伝記や当時中国に伝わる慧思の生まれ変わりの説(慧思後身説)など、いろんな状況証拠からすると、おそらくかなり高い確率で正しいのではないかと私は思っています。
    一乗思想と聖徳太子の和の思想には共通点があります。十七条憲法で「三宝を敬いなさい」といっているように、聖徳太子の思想は仏教に根ざしています。一乗という言葉は使わないにしても、今の言葉で言うと多様性と調和のような思想が聖徳太子の中にはある。聖徳太子は法華経の注釈を書いたりもしていますし、やはりそういった和の思想は法華経の一乗思想から読み取ったものではないかと思います。だからこそ慧思の生まれ変わりだというような伝説も生まれたのでしょう。
    鑑真大和上は天台の書物をたくさん日本にもたらしましたが、法相宗が中心だった南都の仏教は、それよりも200年も前の古臭い天台の教えなんて必要ないと言ってそれを完全に無視します。そんなものよりも法相宗が一番だ、三論宗が一番だといって、ほかの学派もありましたけどそれぞれがそれぞれの学問を追究していました。
    当時のお坊さんは官僧というように官僚で、学問の研鑽を積んで、国の役に立つという明確な目的がありました。しかし一方でサラリーマン化している組織でもあったので、お坊さん同士で出世を競い合ったり、栄達を求めたりということも非常に多かったんです。そういうお坊さん中心の社会というのは、みんなが幸せになるという一乗の思想と矛盾するんですよね。最澄さんとしては、それではみんなが幸せになるという志を実現するのは無理ではないかという頭でいたのだと思います。

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阿純章さん(写真提供=阿純章)
■比叡山独立へ

    最澄さんは13歳のときに行表(ぎょうひょう)さんという人から「心を一乗に帰すべし(一乗を心の拠り所にしなさい)」と言われて以降、一乗を人生のテーマにしようと心に決めていました。鑑真さんが来日したのは最澄さんが生まれる10数年前だったので、当時の日本に天台宗の教えがあったことはあったのですが、おそらく最澄さんは南都の仏教の中で勉強しているうちに、南都の仏教の人たちが無視している天台の教え、しかも一乗思想がここにあるじゃないかと発掘したような感じで発見したのだと思います。
    こんな素晴らしい教えが昔からあるのに、なんでこれを元にしてみんなが幸せになるような国を作らないんだろうかと思った最澄さんは、南都の組織の中に自分も位置してしまうと一乗思想の実現ができそうにないので、ならばそこからちょっと距離を置こうじゃないかということで、比叡山にこもって修行を始めます。
    運命的なことに、比叡山にこもった翌年、ふもとに梵釈寺(ぼんしゃくじ)というお寺が立って、そこに鑑真大和上がもたらした天台の典籍(てんせき)がすべて集まったため、最澄さんは山で修行して、ふもとで天台の教えを学ぶことができました。ただ、鑑真さんのもたらした典籍には間違いもあり、読んでもはっきりわからないことも多かったために、その後中国に渡って学んで、そしてまた戻ってくるということをなさっています。
    ときどき最澄さんは法華経至上主義、あるいは一乗至上主義と誤解されますが、決してそうではなく、一乗思想を基盤に様々な仏教の教えや宗派をまとめて、この日本という国をみんなが幸せになれる国作りをしようと思っていたのです。
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円融寺幼稚園の園長でもある阿純章さん。ある学期の終業式にて(自作のライオンキング)(写真提供=阿純章)
■密教に対する最澄と空海の見解の違い

──最澄さんと空海さんはお二方とも密教を大切にされていたと思いますが、どのようなところが違っていたのでしょうか。

   最澄さんと空海さんには大きな違いが2つあります。一つは密教に関する考え方です。最澄さんはあらゆる教えを全部まとめて一乗である、とそういうふうにしたいと思っていました。密教で救われる人もいるし、法華経で救われる人もいるし、法相宗で救われる人もいる。いろいろな教えで救われる人がいるのだから、みんなまとめましょうと。
    しかし空海さんは、いや、密教だけで事足りるんだ、密教で救われればいいんだ、と密教一乗説を説きます。同じ密教を大切にするのでも、密教一本で行くという空海さんと、密教もたくさんの仏教の中の一つであると説く最澄さんは、その根本的な違いが明確になるにつれてだんだんと相入れなくなっていきます。
    もう一つの違いが密教の伝え方です。空海さんは面授(めんじゅ)といって、密教は知識や文字では伝えられない、人から人へ、体験で伝えるものだという主張でした。しかし最澄さんは、まずいろいろな教えまとめるために密教の経典を書き写しました。体験ももちろん大事ですけど、総合的な仏教大学を比叡山に作りたかったので、経典を写すということを最初にしたんですね。
    そこの方向性も違ってしまったために、最初は年下の空海さんに弟子入りまでして密教を学んだ最澄さんも、だんだんとそれぞれの道を歩むこととなっていきます。
    最澄さんという人は、天台宗という木を立てたというよりも、木が生えるための一乗という土壌を耕した人だと考えたほうがいいと思います。我々はあの木は大きい、あの木は小さいと木ばかり見てしまいがちなので、土壌である天台宗は地味でわかりづらく感じるかもしれませんが、最澄さんが土壌を耕したおかげで、みんなが幸せになるという一乗思想を理念とする様々な新しい木が、後世になって育っていきました。鎌倉時代には法然、親鸞、栄西、道元、日蓮(呼び捨てですみません)など、比叡山で学ばれた優れた僧侶たちが山を下りて、それぞれの教えを広められました。その結果、日本には多くの宗派が誕生しましたが、どの宗派の教えにも一貫して流れているのが一乗思想です。その思想は仏教のみならず日本の精神文化の土台になったといってもいいでしょう。ですから、最澄さんは天台宗の宗祖というよりも一乗思想という日本の精神文化の土壌を耕した方といったほうがいいのです。
    すべての人を救うのが仏教の役目でありお坊さんの役目なのだと高い志を持ったという点では、空海さんと最澄さんは当時の常識を覆した本当に偉大なお二人だと思います。一乗仏教が日本で定着したのはお二人のおかげです。


(4)天台宗という仏教


■聖徳太子の志を引き継ぐ

安藤    空海がロックンローラーだとしたら、最澄はイノベーターで、しかもイノベーションを起こすときに、新しいものを追うのではなく、ひと昔前のものと言われているものから起こしたのだということがよくわかりました。

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安藤礼二先生(撮影=横関一浩)
    法相宗は心の奥底を探求する素晴らしい教えですけど、最澄さんが法相宗と相入れなかったのは、前提に絶対に悟れない人がいるということもありますよね。法華経では、悪人も仏になれる、あるいは竜女成仏(りゅうにょじょうぶつ)といって、竜女でも成仏できる。女性ではなくて竜女、畜生の女性が法華経の教えを聞いて、そのまま仏になることができると説いています。実は仏教にはちょっと差別的なところがあって、それまで女性は一回男の人にならないと仏になれないとされていたんですよね。
    聖徳太子の説いたことは三経義疏という形、法華経と勝鬘経(しょうまんぎょう)、そして維摩経(ゆいまきょう)の注釈書ですけど、そういう形で残っていて、実は詳細についてはわからないところも多々あるみたいですけれども、おそらく、人間はすべて平等なんだ、しかも誰でも仏になることができるんだ、そういったような思想を説いていた。それが日本の仏教の一つの根幹になっていったのではないかと思っています。最澄さんも、ありとあらゆる人が仏になれるということをベースにして、聖徳太子の教え、教えといいますか、そういった考えを総合していったという理解でよろしいでしょうか?

    まさにそうだと思います。最澄さんのお言葉に真俗一貫(しんぞくいっかん)というものがあります。インドからの伝統的な仏教では、出家者の戒律と在家者の戒律が分かれていて、出家しないと仏になれないということになっているのですが、一乗思想からするとこれは大きな矛盾になります。みんなが仏になると言ってもお坊さんでなければ仏になれないのか、ということで。
    それに対して最澄さんは真俗一貫という理想を説いて、お坊さんもお坊さんじゃない人も関係なく、共通の戒律を守ろうじゃないか、お坊さんとしての戒律は捨てようじゃないかと唱えます。お坊さんは仏教を学ぶのに最高の環境の中で学んで修行をしているけれども、別にそれと在家との間には何の隔たりもないし、みんなが仏の道を歩いているんだ、そこに上下の差も何もない、それが真俗一貫の一つの意味です。
    もう一つは真というのが仏の世界で、俗というのが我々の迷いの世界、その間に壁はなく同じ世界なのだという意味です。
    そうした真俗一貫の考えはまさに法華経で貫かれている思想ですし、維摩経は在家の人が仏教のエキスパートであるお釈迦様のお弟子さんをバタバタと論破していく内容であって、つまり俗世間の中にも仏教の真理があると唱えているものですし、勝鬘経は如来蔵思想といって、あらゆる人すべての中に仏(如来)となる可能性を秘めていると説いているわけで、やはり天台で唱えていた一乗思想とつながるのです。
    聖徳太子がこの3つの経典を選んで注釈を施したというのは、仏教に対して奥深い理解があったからこそだと思います。
    聖徳太子が実在しなかったとか、三経義疏もよく分析すると聖徳太子が実際に著したものではないという説もありますけど、聖徳太子が亡くなって日本書紀が作られるまでの100年の間に、そうした仏教理解があったのは確かだと思います。その間に作られた聖徳太子の伝説の中身を見ると、仏教に対して日本人がどういう思いでいたか、仏教によって日本はどういう国にしたかったのかがわかるのではないかと思います。
    最澄さんは南都仏教界の激しい反発や空海さんと仲違いをするような苦境に陥った時期に、四天王寺に行って、聖徳太子の御廟に自分が作った詩を捧げます。聖徳太子は私の師である。あなたの和の思想を私が受け継いで、円教(すべての人が丸く溶け合った調和の世界で生きているという一乗思想)を説いて、あなたの志を私が遂げます、というような内容です。最澄さんは聖徳太子の国づくりを私が実現してみせる、そういう思いでいたのでしょう。
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講義中の阿純章さん。テーマは「コロナ禍のいま伝えたい、天台の教えと最澄の志」(写真提供=阿純章)
前野    お聞きしていて一乗思想にすごく心を奪われました。私実は幸せの研究をしておりまして、それは現代のサイエンスですけれども、「利他的な人のほうが利己的な人より幸せです」とか、「誠実な人のほうが幸せです」とか、「人と人が触れ合ったほうが幸せ」とか、「対立するよりは仲良くしたほうが幸せ」だとか、そういうことがわかっているんです。結局、みんながみんなの幸せを目指す世界を作るのがよいのではないかと思っていますが、聖徳太子さんとか最澄さんがそういうことを仰っていたということに、感動を覚えました。

■その後天台宗はどのように発展したか

前野    最澄さんの人物像が概ねわかってきましたが、それと天台宗はイコールではないということなのでしょうか。その後、天台宗はどのように発展したのですか?

小野    山田恵諦猊下(やまだえたいげいか)という、第253世の天台宗のトップの方が、ヨハネ・パウロ2世やローマ教皇を日本に招致されて、世界宗教平和サミットを開催されたような方なのですが、山田恵諦猊下は「比叡山には特段教えはございません」と仰っているんです。それがとても印象的で。天台宗の教えはとても深淵で広大なのに、特段教えはないと。そして「ただ人づくりをする場です」と言われたんです。
    最澄さんも、「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」という表現で、世界を照らす人間が国の宝になるのだと仰いました。つまり、比叡山は人づくりをする場所というふうに捉えることができるんですよね。
    母なる山と言われる比叡山は人材養成機関であり続けて、鎌倉時代には各宗派の祖となる高僧が次々と出現していきます。そしてそれが多様化して、各宗派が世界観を作って、それが広まるように一生懸命取り組んでいる。まるでディズニーランドのように永遠に完成しないけれども取り組み続けている。それが天台宗ではないかなと僕は思っています。
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小野常寛さん(写真提供=小野常寛)
    最澄さんには一乗思想で国を作るという大きな理念がありましたけど、その後は組織が大きくなるにつれ、きれいごとでは済まないようなことも起きてきます。比叡山が僧兵という兵隊を持って戦ったり、焼き討ちにあったりしたこともありますし、お坊さんとしての戒律を捨てることによって堕落が進んでしまったり、もともと私は仏なのだという本覚思想(ほんがくしそう)を曲解して、それなら修行も必要ないんだ、と捉えたりしたようなことも実際あったようです。
    組織が大きくなって、天皇の外護(げご)を受けるようになると、権力を好む人たちの団体にもなってゆき、最澄さんが亡くなられてからけっこうすぐに派閥争いみたいなことにも発展しています。そういう中でも、それは違うだろう、最澄さんの教えはそんなのではないだろうと立ち上がる人、たとえば慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)や慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)などの高僧が現れて最澄さんの志を純粋に引き継ごうとされたがのですが、やはり宗派としては組織体制の中に埋もれてしまって、最澄さんが目指した本当の一乗思想が忘れ去られてしまうという歴史があります。
    最澄さんの教えを我こそは継いでいこうと思った人といえば、日蓮さんもそうですね。日蓮さんは最澄さんの本当の教えを継ぎたいという情熱のあった人だったと私は思っています。


(5)修行について    


■修行と悟り

安藤    最初のほうに、最澄さんは学問仏教を一つに統合し、実践仏教を一つに統合し、さらに学問と実践の仏教を矛盾なくまとめていったというお話がありました。私は書物の知識しかありませんが、最澄さんは、山に入ったら12年間降りてくるなと言ったそうですね。かなり過酷だと思いますけど、そういった天台宗の実践面で何かお話をお聞きできたら嬉しいのですが、いかがでしょうか。

小野    私が体験させていただいたのは百日回峰行(かいほうぎょう)という100日間の修行です。千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名ですが、その100日のみさせて頂く修行です。「身体を賭して歩く過酷な荒行(あらぎょう)でしょ」、とたまに勘違いされるんですけど、そうではありません。「あなたを尊敬します、なぜなら仏さんになる人ですから」と誰に対しても軽んじない、常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)という法華経に出てくる菩薩がいらっしゃいます。お釈迦様の前世とも言われていますけど、その常不軽の想いをもって、平安時代末期に相応和尚(そうおうかしょう)という慈覚大師円仁さんの弟子が、それこそ草木に対しても礼拝(らいはい)していたというところを起源とした修行です。
    常不軽菩薩になる、不動明王になりきる、そうなることで本当の幸せに近づける。その再現性を上げていくのが修行だと思います。修行に関してはやらないとわからないという面が多分にありますので、客観的にご覧になると辛いもののように見えたり、中道に反しているのではと言われたりするのですけど、安楽の世界が垣間見える経験は私自身ありましたので、修行というのは幸せをつかむための工程と捉え直したほうがよいのではないかと思います。

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百日回峰行に取り組まれる小野常寛さん(写真提供=小野常寛)


前野    悟りに興味があるので、小野さんが100日間やって、苦しくなくて、幸せに近づいたというのをもうちょっと具体的に教えていただくことはできますか?    やらないとわからないのというのは承知しているのですが。

小野    修行は基本的に辛くて、辛いほうが90%くらいなんですけど、その最中に、幸せの沸点が極端にバンと下がるタイミングがあるんですよね。それこそ、そこに存在しているだけで、目に入るものがあるだけで、あるいは歩いているだけで、本当に世界一幸せなんじゃないかと思える、山に溶け込むような、そんな境地を回峰行の中で私は体験させていただきました。それが天台宗の考えるところでいう円融(えんゆう)だと思います。僕自身の稚拙な経験でしかありませんけど、その境地を一瞬感じることができたように思えたのです。それを悟りというかはわからないですけど、こういう経験ができるからこそ、このような修行法が今も残っているんだろうと思いますね。

──比叡山延暦寺の十二年籠山行や、小野常寛さんが経験された百日回峰行といった特別な感じの修行というのはどういう方がどういうきっかけでされているのでしょうか。また、滝行なども経験される方は多いのでしょうか。

小野    統計を取ったわけではないですけど、十二年籠山行や千日回峰行をされる方の多くは寺の子どもではなく、普通の一般の家庭で生まれて、志を持って修行に入られる方であると思います。やはり修行に命を預けるというか、本当に信用してすべてを捧げるという思いのある方がやられていると感じます。
    十二年籠山行に関しては最澄さんの「12年間山に籠りなさい」という言葉を本当に心のよりどころとしてやられるわけで、在家の方が、すべてを捨てて取り組まれるという感じだと思います。私のように執着まみれのお寺の子には難しいです。
    滝行については、密教イコール滝行というイメージがあるかもしれませんが、天台宗では特に滝行は行いません。千日回峰行を満行された酒井阿闍梨さんという方がよく滝行をなさっているので、そこがクローズアップされて見られているのかなと思います。

■本覚思想

安藤    私は能をはじめとする日本の芸能に大きな関心を持っています。能の演目で、人間のみならず草も木も土も石もすべて成仏できるという、あらゆるものは本覚を持っているという本覚思想(ほんがくしそう)を扱ったものがあります。人間を特別視しないとう思想だと思いますけれども、それがいわゆるアニミズムの概念とも非常に近しく、なおかつ現代社会を生きる私たち自身の問題としてあらためて浮上してくるのではないかと考えています。比叡山だからこそ本覚思想が生まれたというか、一つの帰結としてそういう考えが生まれてきたのかなと考えたりするのですが、いかがでしょうか?

    山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)は日本で初めて生まれたとよく言われますが、実は中国でも唐代の頃に説かれているんです。ただ、日本ほどは着目されなかった思想で、特に最澄さんによってそれがクローズアップされたという経緯があります。
    最澄さんご自身が山で修行をされて、小野常寛さんが感じられたのと同じように、「ああ、これすべて仏だなあ、自然すべてが仏じゃないか」みたいな体感があったのではないかと思います。
    ただ、天台宗だけが本覚思想を説いていたわけではなく、空海さんにも同じような思想がありましたので、山川草木すべてが仏だというのはもともと日本人の感性と触れ合うところがあったのではないかと思います。

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子どもたちを指導する阿純章さん(写真提供=阿純章)


小野    意外に思われるかもしれないんですけど、回峰行では比叡山の麓にある日吉神社(ひよしじんじゃ)で神々に対して一所懸命拝みます。最澄さんも比叡山に入る前に、神様に向かって「比叡山に入るのでどうかお護りください」と仰っていますし、山林修行をする人間として神道がベースにあるのは当然ことだと思っております。
    草も木も仏であると考えるのは、神道がそういったものを神だと考えているから、私たちもそれらを仏さんだと捉えて敬うわけです。神道と日本仏教が融和するときに当たり前のように考えられたものだと思いますね。
    それが常不軽菩薩という何に対しても軽んじないという思想と相まって、安然(あんねん)さんの時代にそこがさらにクローズアップされていきました。

安藤    アニミズムのアニマというのは魂ですので、森羅万象さまざまなものに魂が宿るという、そういった思想ですよね。ヨーロッパの人類学では、未開とか野蛮とか、そういった社会を総称するような形でアミニズムと言われていましたが、いまはその考えが完全に逆転して、そういう考えを持たないと駄目なのではないかという時代になっています。神道と仏教というのが、別々のものではないというのは、これからの一つの指針になるのではないかと思います。


(6)比叡山で一乗の理想を目指す


■一乗思想とキリスト教

安藤    すべては清浄なる「一」なのだと説く一乗思想は、若干方向性は違いますけれども、キリスト教などに代表される一神教とも対話が可能なのかなとも思いました。それについてはいかがでしょうか。

    キリスト教でも、グノーシス派などではまさに一乗思想と同じように、アニミズム的に、あらゆるものに霊性が備わっていると考えられていました。また父と子と精霊、イエスキリストと神様というのが別のものなのか、それとも一体なのかという議論をして、そこで三位一体(さんみいったい)をキリスト教でも認めるという形にもなりました。
    キリスト教では神様と人間は完全に遮断するという考えが非常に強く言われていますが、あらゆるものすべてが神の働きであれば、我々の人間も神の一部であるというような、神と人間の間の壁を乗り越えるような躍動的な思想の流れもありうるのではないかなと思います。
    ごく一部の話かもしれませんが、宣教師の方が坐禅をして、そこで初めてイエスキリストの本質がわかった、と仰っていたり、ドイツの修道士の方が修道院の下に禅道場を作ったという話もありますので、キリスト教と仏教が、融和していくという可能性はこれからも十分あるというふうに思います。
    私自身も子どものころから聖書を読むのが好きでしたが、あまり違和感なく読むことができますので、キリスト教と仏教の教えを対立的に捉えるほうが不思議に思います。

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唯識を体感するセミナー「唯識ライブ」にて。唯識研究の第一人者である横山紘一先生方と(写真提供=阿純章)
■論争と比叡山独立

前野    最澄があらゆるものを統合しようと思って、神道や修験道なども含む大きな仏教としての天台というのを作られたというお話と、阿さんのお父さんが、「広い世界を見たいかい?」と言ってキリスト教の学校に行かせたのが通底していると思って、感激して聞いておりました。
    仏教って、浄土宗だと念仏、禅宗だと坐禅、それから密教というように分かれていると思っていたのですが、全部を認める一乗思想、おおもとの思想があるからこそ、それぞれの仏教が成り立っていることもわかりました。
    これ意地悪な質問ですけど、分かれちゃった宗派のほうが「うちの宗派だけが素晴らしいんだ」と言ったときに、天台宗の側は「そういう考えでもオッケー」という感じなんですか?    それとも「きみたちせっかく比叡山で学んだのに、なんでそんなこと言うんだ、けしからん」と思われるのでしょうか。

    それぞれ心も違うし考えも違うので、私とまったく違う意見があったとしても、「ああ、そういうふうな考えもあるんだ」と思うだけですね。そういう対立した意見も含めての一乗だと思うので、一乗とそれ以外の教えがあると捉えてしまっては一乗にならないのではないかなと思います。

前野    なるほど。

──全部を融合させると元々の特色が薄まってしまうように思うのですが。

    宗教混淆主義(シンクレティズム syncretism)といって、たくさんある日本の宗派を全部一緒にしてもいいのではないかという考えもありますが、一乗思想というのはそれとは違います。「一」というと統一という観念で捉えがちですが、仏教の一というのは華厳教にもありますように、多即一、一即多(たそくいち、いちそくた)といって多様性であることが一つであり、一つであるということは多様性でなければいけないという考え方です。たとえば森であれば、さまざまな植物や生き物、昆虫がいて一つの森をなします。同じ木だけでは成立しませんよね。この宇宙も様々な働きがあって、お互いに支え合って一つの世界を織りなしている。それが縁起という考え方です。一であるためには多様でなければいけない。多様性だからこそ調和がある、そういう考え方なのです。
    みんながバラバラだからそれを押さえ込もうという価値観とは違います。多と一が対立するのではなく、調和する。同調ではなく協調です。それが聖徳太子の和の思想でもあります。聖徳太子の十七条憲法の中でも同じようなことが説かれています。
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協調の世界を目指して。インド・タワンにて 。 マンジュシュリ孤児院の創設者ラマサー・トプテン師と(写真提供=阿純章)
安藤    天台宗というのは最澄の時代からするとやや古い教えだけれども、その古いものに帰ることによって、新しいイノベーションを起こすことができた。現代においても、そうした天台や真言、つまりは新しい総合性を日本にもたらそうとした教えに帰ってみると何か見えてくるのかなとお話を伺って思っておりました。しかしその生涯を振り返ってみると最澄さんってかなり激しい方ですよね。イノベーターだからこれまでの既成概念を根底から覆していかなくてはいけなくて、闘うことが自分の新しい理念の実現と表裏一体の関係にあったと思います。論争も含めて対話だったのかなと。

    そこが最澄さんの生涯を複雑にしてわかりづらいところなんですけど、最澄さんが本当にしたかったことは融和なんです。あらゆるものを融和させたかった。しかしそれを実現しようと思えば思うほど対立が起きて、自分の思惑とどんどん裏腹になってしまっていったのですよね。
    法相宗の徳一(とくいつ)さんとの論争なんて、今でも文献が残っていますけど、罵り合いなんですよ。学のある知的な罵り合いですけど、最澄さんも結構口が汚い。「もっとも澄んだ男」と言っていいのかどうか、と思うくらいで(笑)。
    816年というのは最澄さんにとって象徴的な転換の年でして、先ほどお話した聖徳太子の御廟に詩を捧げた年でもあるのですが、その年に融和路線から方向転換して、空海さんとも決別します。また法相宗との関係も激しくなってきます。法相宗は「一乗というのは方便の教えであって、きれいごとの理念なんだ。本来は仏になれない人もいるしなれる人もいる、それぞれ別々バラバラなんだ」と三乗(さんじょう)の教えを説いて、論争をふっかけてくるんですね。
    無視するという選択もあったと思います。実際空海さんは同じように論難を受けますけれどそれを無視しています。でも最澄さんの場合は、もし何もせずに放っておいたら一乗思想の土壌をつくることができないので、そのまま見過ごすわけにはいかなかったのだと思います。そして、最終的な判断として、せめて比叡山だけは一乗の教えを守るところにしようとして独立したんです。自分の人生が終わった後でも一乗の思想をしっかり学べる場所をここに作っておこう、そうすればまたいつか一乗の教えの芽が出てくるのではないかと考えたのだと思います。
    ですから別に法相宗と対立したかったわけでも、排他的だったわけでもないんですよね。最澄さんのイメージとしてそこはちょっと誤解されている部分があって残念に思います。

小野    小説などでは最澄さんは徳一さんとの論争に時間を費やしてしまって、大意を果たせなかった、みたいな書き方もされるのですけど、最澄さんの中には意地でも一乗という理想論だけは絶対に死守するんだという思いがあったのだと、論争の中身を見ても思います。
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小野常寛さん(写真提供=小野常寛)
安藤    お二人のお話を聞いていると、最澄さんには厳しい面と柔らかい面の双方があったことを深く実感でき、人間としてとても魅力的だなと感じました。


(7)円融の世界を目指すために


■未来は懐かしさでできている

前野    誰もが平等に成仏できるという考え方や一乗思想は、現代社会においてとても必要である気がします。現代社会は「自分が富を得るために勝つんだ」「発展して豊かになるんだ」というトレンドでずっと来ていましたけど、その限界が来ています。環境問題がありますし、日本は少子化ですし、貧困問題もある。そういう課題があるときに、すべての人、すべての考え方を平等に受け入れる思想というのは、すごく大事だと思います。天台のお話というのはそういうお話で、最澄さんというのはそういう人だったということがわかりました。
    これからみんなで力を合わせて、みんなが幸せな、みんなが悟れる世界を目指すという方向になれば本当にいいなと思います。いいと思うのですけど、世界の中ではそういう一乗思想のようなものはマイノリティーではないでしょうかね。
    今後はどうすればいいのでしょうか。「よりよい世界を作るために最澄のように頑張るべきだ!」とつい力んだりもしたくもなるのですけど、そのへんはどうお考えですか。未来はどうなるべきでしょうか。

    未来は自分の思惑通りにはいかないものです。自分の人生すら思い通りにいきません。こうしようと思っても、大きな流れの中で然るべくして流れていくものですから、そこで別にあたふたしたり、不安に思ったり、恐れたりする必要はないと思います。なるようになっていく、それが仏教の大きな教えだと思いますね。
    今という時代は、20世紀の価値観が崩壊して、どんどん生きづらくなって、再び新しい幸福なものを見出そうと模索している精神的な大変革期だと思います。20世紀は矢印型の社会といいますか、自我というエンジンを積んで、この先には幸せがあるのだ、と前へ前へと進んできた社会です。でも結局ただ進むだけで何も見つからなかった。自分の居場所はなく、馬の鼻先のニンジンのように、幸せは追っても追っても得られない。そんな誰も幸せになれない社会だったんですよね。それがどうもおかしいとみんな気づき始めています。
    おそらくこれからは、矢印ではなく円の社会へと価値観がシフトしていくのではないでしょか。円の上だったらどこを歩いていても、誰が先でもなく、誰が遅れているわけでもなく、いま立っている場所がすべてゴールなんですよ。みんなそれぞれ違った場所にいながらも、でも一つの円の上にいるよね、一乗という大きな乗り物にいるよね、というような価値観になっていって、期せずして最澄さんが思い描いていた一乗の世界というものがだんだん実現しつつあるのではないかと思います。
「ああ、そうだ、自分の人生って、自分ってこれでいいんだ。いま歩いているこの道がすべてだったんだ」と、それぞれがだんだん気づいていく時代になってきているのかなと思いますし、仏教ではそういう精神でずっと来ていますので、私たちはいわば後ろから支えていくようなことができればと思っています。
    先ほど安藤先生が、昔に遡ることが実は未来につながると仰っていましたけれど、私も未来というのは懐かしさが支えていくのではないかと思っています。懐かしいものをどんどん掘り下げていくと、明るく懐かしい未来が見えてくると共に、我々の持っている命というものに原点回帰していく。命という懐かしさを見出すという幸せの方向に我々は向かっていっているのではないかと思います。
    ですから、お坊さんどうこうとか、あるいは将来どうなっちゃうとか、あんまり心配はしていないですし、流れていくままに任せればいいのではないかと思っています。

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中国厦門・南普陀済寺にて。済群法師(戒幢仏学研究所所長)と(写真提供=阿純章)
前野    ありがとうございます。さすがお坊さんはお坊さんらしい答えをなさいますね。

■円融の世界を作る

前野    常寛さんは未来についてどのように思われますか?

小野    2年前、インドに行ってダライ・ラマ法王に謁見させていただいてお話を伺う機会がありました。ダライ・ラマ法皇は「21世紀、22世紀にもっとも重要なのは慈悲と調和(compassion and harmony)である」と仰っていました。まさにこれは日本が、日本の仏教がやろうとしてきたことであり、仏教のみならず、日本人が持っている精神性だなということをインドのダラムサラで感じました。
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インドのダラムサラにて(写真提供=小野常寛)
    私は和会通釈(わえつうしゃく)という言葉が好きなんです。和して一緒に通じるものを作っていきましょうよという意味ですけど、それは日本仏教が歴史上ずっとやってきたことだと思います。浄土教と禅はどうやって通じるのか、法華経と密教はどうやって通じるのか、そういうことをずっと考えてやってきたと思うんですよね。神道と仏教もそうですし、スリランカでいえばヒンドゥー教と仏教もそうです。それが習合の文化でです。それを日本はずっとやってきました。
    だから、先ほど阿さんが仰ったように、自分たちがやってきたことを見返せば、そこに答えはあるのかなと思います。和するためには相手をリスペクトし、自分自身、慈悲を持っていなければいけませんので、和するというのは実はけっこうハードルが高いのですけれども、それができるという可能性は持っていると思います。
    その結果、円融の世界が目の前に出てくることになる。そういう円融の世界をいかに自分の周りに作っていけるかが、私が考える今後の生き方かなと思います。
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円融の世界を目指して(写真提供=小野常寛)
前野    ありがとうございます。本当に素晴らしい内容のお話をありがとうございました。全体として、とてもよく理解することができました。法華経や最澄について、これからいろいろ学んでみたいという気持ちになりました。
    次回は日蓮宗から大場唯央(静岡県大慶寺)さんと、佐々木教道(千葉県妙海寺)をお迎えしてお送りします。どうぞお楽しみに。

(了)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年5月24日    オンラインで開催
構成:中田亜希


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