アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「努力と怠け」です。

[Q]

   
努力は大切だと誰もが言いますが、怠けていてもうまくやっている奴もいます。本当は要領がいいとか、生まれつきの才能がモノを言うのが真実で、努力すれば報われるというのは、人が極端に堕落して自暴自棄にならないための方便、気休めでは?
 

[A]


■「努力しろ」ではなく「怠けてはいけない」

    あまりにもうるさく「努力しなさい!」と言われると、そんな事も言いたくなりますね。だから相談者の気持ちがわからないわけではありません。闇雲に「努力しなさい、頑張りなさい」と言うこと自体良くないのです。
    仏教では一貫して、努力することを要求はしませんが、「怠けてはいけない」とは言っています。「怠ける」とはどういう事かというと「やるべき事をやらない」という事です。例えば、お腹が空いたらご飯を食べるべきなのに「面倒くさいから食べません」なんて言わないでしょう?    天ぷらの鍋が燃え始めたらすぐに火を消さなければいけないのです。そうやって、生きるためにすべき事を怠るのは「怠け」なのです。同様に若い時は勉強をしなくてはいけません。この世では知識が無いと生きていられないのです。犬猫さえも生きるために必要な術を親から教えてもらいます。それをショートカットすることはできません。

■闇雲な努力は能率を下げるだけ

    このように、仏教で「努力しなさい」という場合は、「何に努力すべきか、または努力すべきでないか」をはっきりと選択するのです。だから、人格向上を促すところでは「努力しなさい、頑張りなさい」と強く言っています。善いことに限ってはそんなスムーズにいくわけがないから、しっかりやりなさいと言っているのです。それは俗世間で言うところの「ただ単に闇雲にがんばりなさい」ということではありません。会社で「もっと仕事して、生産数を上げなさい」と怒鳴りつけても、ただ欲で責めたてているだけだから決して上手くはいきませんね。ただ、能率を下げるだけの無茶な行為なので良くないと思います。

■要領の良さと「怠け」とは違う

    中には怠けて上手くやっているように見える人もいます。そういう人たちは要領良くものを知っていて、最小限の労力と時間でやるべきことができるのです。時間も体力も余って効率がいいので、一見、怠けているように見えるだけです。しかし、怠けた人が何かを成し遂げるという事はあり得ません。やるべき事をやらないで上手くいった、商売を全くしないで金持ちになったとか、本を一冊も読まずにトップで合格するとかありえない話でしょう?    一日中遊んでいるように見えても試験に合格したという人はテクニックや要領を知っているのです。そういう鋭い人は、悠々と遊ぶ余裕を作れるのです。上手でない人は同じだけ頑張ってもやり残してしまいますね。つまり能力差の問題なのです。

■能力は柔軟で伸びやすいもの

    これは「生まれつきの才能」とは言わない方がいいです。なぜならそれもまた怠けを正当化する言い訳になってしまうからです。「私が悪いのは生まれつきだから仕方ない」という怠け思考ですね。能力というのはとても柔軟なのですぐに伸びますよ。体はそう簡単には進化しませんが、能力はいとも簡単に身につけられます。
だから、その能力や人格を向上させるためにも努力は必要になるのです。この質問にあるような、極端に堕落して自暴自棄にならないための方便ではありません。能力を向上させるためには努力が不可欠なのです。何もしなければ伸びません。放っておいて伸びるのは雑草だけですね。おいしい作物を食べたければ、ちゃんと種をまいて、田畑の面倒を見なければいけないのです。


■出典      『それならブッダにきいてみよう:こころ編2」

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