アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「瞑想したくない気持ちへの対処法」です。

[Q]

    ヴィパッサナー瞑想について、正直やりたくないという気持ちや、面倒くさいという気持ちがあります。そのような時、どのように対処したらいいでしょうか?

 
[A]


■やりたくない気持ちは誰にでもある

    やりたくない、面倒くさい、という気持ちは誰にでもあります。喜んでヴィパッサナー瞑想をする人は一人もいないと思います。私たちがやりたくて仕方がないというものは、自我を強化するものであって、刺激を得るものなのです。もっと厳しい言い方をすれば、自分を不幸に陥れることだったら、やりたくてたまらないのです。本を読むより音楽を聴きたい。本を読むとしても、勉強になる仕事の役に立つ知識的な本を読むよりは、面白くて刺激的な小説やマンガを読みたいのです。これはハッキリしていますね。体の健康を維持する食べ物よりは、味が濃くて美味しいものを食べたいのです。
    人生は、そういうカラクリなのです。不幸になることは喜んでやりたい、幸福になることは脅して無理やりにでもやらせないとやらないのです。ですから、いつでも幸福を教える人は鬼や悪魔として見えるものです。学校の先生は生徒から見れば、とんでもない鬼なのです。行儀作法を厳しく躾しようとしている先生たちは、生徒たちからすれば一番悪い、とんでもない悪魔のように見えるのです。できることなら、消えて欲しい、やり返したいとさえ思っているほどです。世界はそうなっています。ですから、ヴィパッサナー瞑想をするにしても、自分にはやりたくないという気持ちが生まれてくるのです。

■「このままでいいの?」と自問してみる

    そこで、「では私は苦しみたいのか?」と自問してみるのです。「無知のままでいいと思っているのか?」「感情の奴隷でいいのか?」と、そうやって自分のプライドを刺激してみるのです。瞑想したくないということは、例えば遊びたいとか、テレビを見たいという気持ちでしょう。どちらを選択してやることが賢いことでしょうかね?    

■あえて本能に逆らうのが成長の道

    誘蛾灯の明かりに寄ってくる虫みたいに、なぜ進んで自己破壊に赴くのでしょうか?    私たちもそんな生き方でいいのでしょうか?    虫たちには明かりの方向に行くように本能があるのですから、それに逆らうこと、抗うことは大変なのです。しかし、感情や気持ちを堪えて、あえて本能に逆らってやることが、素晴らしい能力を生み出すことにつながるのです。
    例えば、美味しそうなものを見たら闇雲に食べてしまう人と、美味しそうなものを見ても冷静に考えて食べるべきか否か判断する人、そうやって自分を戒める人とどちらが賢いでしょうか?    やはり、いくらかでも感情を制御した人の方が賢いのです。
    怒ったらすぐに相手を殴る人と、怒っても「もういいや」とすぐに落ち着く人、どちらが賢いでしょうか?    怒ったら怒り返すのが法則で、それが普通です。この普通のことに少し逆らってみることで、本物の力が生まれてくるのです。
    ということで、ヴィパッサナー瞑想をしたくないという気持ちに対して、まず正直に「やりたくない」という気持ちを自覚すること。次に、ではこの感情と闘ってやるぞと挑戦する気持ちになること。修行とは、煩悩との戦いなのです。そのようにして頑張るのです。

■自分の「宿題」として取り組む

    もうひとつ、よく皆様は「ご褒美をあげる」ということをしますね。子供に対して宿題をやったらマンガを買ってあげるとか、それで子供はマンガが欲しくて宿題をやるわけです。動物を捕まえたければ、罠を仕掛けてエサを置いておく、それと同じような感じです。お腹が空いていても、エサを見てちょっと雰囲気がおかしいと察知して、これはヤバイと素通りする。そういう動物は賢いでしょう。エサを見たら何の躊躇もなく飛びついてしまったらバカです。ですからご褒美を見せる・チラつかせるのは愚か者のすることです。いい結果にはつながりません。
    だから私はヴィパッサナー瞑想の指導をする場合、敢えて人参をぶら下げてあげることはしないのです。決しておだてることはしません。人参をぶら下げてやっても、そういう人は二、三歩進んで「よし、やめた」という結果になるからです。ですから、マンガが欲しくて、褒美が欲しくて宿題をやるのではなく「自分のやるべき課題」としてヴィパッサナー瞑想をすることが一番有り難いことなのです。そういう人は信頼できます。
    例えば、マンガというご褒美が欲しくて宿題をする。マンガ程度ならいいのですが、さらに宿題をさせるために、どんどんご褒美がエスカレートしていくととても危険です。また、そんなことをやる必要があるのでしょうか?    例えば子供にご褒美を与えて何とか必死に苦労して中学・高校を卒業させたとする。だんだんご褒美の要求がエスカレートしていくと、いずれ親は子供の要求に応じられなくなってしまいます。こんなやり方は成り立ちません。始めから、何の見返りも期待させること無く、自分でやらせた方がいいのです。

■幸福になる道は誰も歩みたがらない

    「やりたくない」というのはわかっています。幸福になる道は誰も歩みたくない。堕落の道だったら、誰もが喜んで進んでいくというのが普通なのです。どんな生命も同じです。でも、そんな精神でいいのでしょうか?
    ですから、敢えて険しい道を歩んでみる。この世の中で幸福になる道は厳しいのです。しっかり仕事をしたい、しっかり勉強をしたいと思ったら結構大変です。それが自然なのです。決して特別なことではありません。
    自分の気持ちに逆らって挑戦してみる。本能のまま、今のままの精神でいいわけがないとプライドを持って頑張ってみるのです。頑張れば上手くいったということも経験できますから、そこで少しだけ「やる気」が出てくる。それでもまだまだ「やりたくない」という気持ちもあるのです。

■ヴィパッサナーはいつでも精進で成り立つ

    ですから、仏教用語には「精進する」ということがあって、解脱に達するまでは「やりたくない」という気持ちと闘わなければいけないのです。心が解脱に達するところまで近づいてくると、本当に大変なことになります。現象の姿がありのままに観えてくると、ものすごく怖くなるのです。精神状態が刻々と変わっていく。そこで精進が無くなってしまったら、すべてストップすることになります。心は解脱に達しません。
    ヴィパッサナー瞑想は、いつでも「精進する」ということで成り立っています。楽々と自動的に、他力で悟るということはあり得ないのです。他力によって何かに達すると考えることが、どれほど無知なことか。何一つとして他力では成し遂げられません。頑張ってください。


■出典    『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3」

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