アルボムッレ・スマナサーラ


新型コロナウイルスの出現による様々な困難に、2600年前から続く仏教は、どのような思考で向き合うのか?   私たちがこれからの時代を幸福に生きるために必要なお釈迦様の智慧をスマナサーラ長老にお尋ねした。  

第8回    他人の気持ちは理解できない。それでも相手を思いやるには?

編集部    たとえば東日本大震災時、被災した人とそうでない人のあいだには「震災を経験した自分の辛さは、経験していない人にはわからない」「震災を経験していない自分は、経験した人の辛さはわからない」といったような、理解しあえない壁があったと思います。そして現在、コロナ禍においても「感染して苦しんでいる人」「感染していないけれど、おびえている人」「あまり気にせず生活している人」など、皆さまざまに想いは違っていて、他人の気持ちを理解するどころではないように感じます。
    しかし、そんな今だからこそ、「理解できない他人であっても、相手を思いやり、慈しみの気持ちをもって接する」ことが大切ではないかと感じますが、いかがでしょうか?    どうしたらそのような姿勢で生きられるでしょうか?

■他人を完璧に理解するのは無理

    人というのは「個人」ですね。自分は「個人」で、自分以外の他の命も「個人」で個性があります。ですから、ある個人がもう一人の個人を「完璧に理解しました」ということは、個人という壁が壊れて個人でなくならない限りは成り立たないのです。
    個人がなくなるということは自分を壊すことになってしまいます。「自分」という 感覚を壊すなどということは、一般社会で生きる上ではとても危険なことで、まずできません。ですから世界は個性、つまり「自分」ということをとても大事にするのです。
    仏典にもこんな対話の言葉があります。ある時、帝釈天がお布施にちなんで「人に与えてはいけないものは何ですか?」と尋ねたのです。その問いに対して、お釈迦様は「自分自身を与えてはいけない」と答えました。これはつまり、「自分を捨ててはならない」ということですね。これは俗世間的に向けた説法で、仏教では「個は成り立たない」という真理の世界が別にあります。しかし、それは措いておいて、俗世間的にはやっぱり「自分を捨ててはならない」と説かれているのです。
    話を戻します。ポイントは、人は個人ですから個性がある。個性があるならば他人を完璧に理解することは成り立たない、ということです。個性というのは、とくに思考に表れるのです。たとえ一卵性双生児であっても、二人とも自分固有の思考パターンを持っています。それぞれに個性があるんですね。それぞれ個性があるのだから、他人の気持ちを理解するためには、具体的かつ客観的に、かなり努力して、いろいろ学んでいかなくてはいけないのです。

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