アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。

[Q]

    知人がつい先ごろ殺されてしまいました。一週間以上経つのだけど、悲しい気持ちが続いています。


[A]

■殺されて死ぬのはありふれた出来事

    訃報を知ってまだ間もないですから、悲しくなるのは普通だと思います。でも、悲しい気持ちでいるのは一週間、伸ばしても二週間程度にしてください。
    人は必ず死ぬんです。しかもどんな風に死ぬか分かりません。事故で死ぬ、災害で死ぬ、病気で死ぬ、手術が失敗して死ぬ……いろんなパターンがあるでしょう。手術は成功しても院内感染で死ぬとか、いろいろです。だから、殺されて死ぬというのも充分あり得ることなんですね。戦乱の時代には殺されて死ぬのは普通だったでしょう。しかし私達人間は動物を食べていますね。動物はみんな殺されて死んだものです。魚も、チキンもビーフも、食べる場合は殺されているんです。殺されて死ぬというのは世の中では普通の出来事なんです。
    しかし現代は人間同士では殺し合いません。だから誰かが殺されるとすごくショックを受けるんです。ショックに陥って、すごく怒って、恨みが出て来て、そうなるとそれは失敗です。とにかくコントロールしなければいけない。悲しむのは一週間、二週間程度にして、その後はまた普通に生活するしかないんですね。
    こういうケースを考えましょう。誰か自分の親しい人が殺されたとします。そうなったら、自分自身が怒りを持っていて、憎しみを持って、恨みを持つとすごい悪行為をしてしまうんです。人に対して、恨み憎しみを持ってしまうと、毎日、毎日、瞬間、瞬間…悪行為、悪行為を重ねて、悪に染まってしまうんです。そこで、一か月間たってみると、殺した犯人より、自分が罪を犯しているんです。犯人は一時的な発作でパッと殺してしまったんだけど、被害者の方々が加害者よりも罪を犯すことがあるんです。これは恐ろしい落とし穴なんです。
    だから質問した方への答えは、難しいかも知れませんが、「犯人も、悩み苦しみ無く幸せでいて欲しいと思う」ことなんですね。自分の親しい人が殺されたのは、その人にとっては悲しい出来事ですが、でも、自分もどんな方法で死ぬか誰も分からないしコントロールできません。だからそれは、自然の流れに任せておいて「親しい人が殺されたのは自然の流れ。しかし、加害者に対して私は怒り憎しみは、持ちません」と言って、自分の心を清らかにした方が善いんです。そうすると、この悪い結果・悪い原因から、自分が素晴らしい結果を生み出した事になります。「汚い泥沼で蓮の花を咲かせて、おいしい蓮根まで収穫できたのだ」と。私たちにとっては、そういう悪い状況が生まれたら、そこからどうやって宝物を生み出すのかは、私たちの修行であり、道なんですね。そういう風に頑張った方が良いのではないかと思います。折角だからヴィパッサナー瞑想をやったり、慈悲の瞑想をしてみたり、加害者に対しても「あぁ可哀そうだ、加害者も」と思って、すごく美しい清らかな香りが溢れる心を作ってみてください。結果はゆっくりでいいですからね。一日で全て直るわけではないから、出来るだけ早く、すぐに取り掛かってください。でないと私たちの精神は、毎日潰れて、壊れてしまいます。それで自分が不幸になるんです。そうならないように、頑張ってみてください。

■理不尽・不公平は避けられないけれど

    私たちは、不公平に遭わずに生活することはできません。生きているといろんなことが起こるんです。腹が立つ事やら理不尽な事やら、馬鹿にされることやら、苦労して頑張ったのに手柄を横取りされることやら、理不尽なことがいっぱいあるんです。私の人生にも、そういうことがずっと付きまとっています。でも、それで負けたらいけない。負けるとは、落ち込んじゃって、怒って、攻撃体制をとって自己破壊することで、そこでもう負けなんですね。だから、私たちは「さんざんな目に遭わされるこの世の中で、どうやって立派な人間になるのか?」ということが大切なんです。
    馬鹿にされたらそこで怒るんじゃなくて、怒るのは傲慢ですから、傲慢を抑えて「どうぞどうぞ、言いたいことを言ってください」と謙虚になることを学ぶんです。そうやっていつでも自分を育てるために使ってください。周りが皆、親切で優しいなら成長するチャンスが無いんです。料理はプロ級で家事も完璧、全ての世話をやいてくれる母親だったら子供は何もできないアホになってしまうんです。たまには気が立って、「料理なんか作らないから、お腹が空いたら勝手に喰え」という母親なら子供も料理を作ることを学ぶでしょう。ハッキリ言えば、善い環境よりは、悪環境に置かれたら成長するチャンスがあるんです。アプローチ次第で、ネガティブに受け取るかポジティブに考えるかだけです。
    皆様も今までの人生で、あまりしっくりこない環境に置かれたことがたくさんあったと思います。だから、その気に入らない環境から学んで、学んで、人格向上っていう事にしてみてください。
    それが、お釈迦様のおっしゃっている道なんです。お釈迦様も決して恵まれた環境にはいませんでした。周りはライバルばかりで、お釈迦様を陥れようと、殺人の濡れ衣を着せられたこともあるんです。女の人を殺して、遺体をお釈迦様が住む祇園精舎の敷地に埋めておいたのを掘り出して「ほら、この女を殺したのはブッダの仕業だ」と。その時、お釈迦様は弟子たちに「落ち着いてください。あなた方も私もやった事のない事で世間が、私たちを非難していますが根拠は無いんだから、その内に噂も消えるでしょう」と言って、じっと座っていたんです。確かに一週間で噂は止んだし、世間の人々も、ここまで非難された比丘達が穏やかでいることにビックリしたんですね。「やっぱり、こういう人々は違うんだ」と。
    自分にとっては好ましくない環境に置かれるというのはよくあることです。だから「全て思い通りになって欲しい」とは思わないでください。何でも思い通りになると却ってダメになってしまうんです。
    生命の進化を見てください。過酷な環境に置かれた時こそ進化するんですから。環境に恵まれるとむしろ退化するんです。そういう事で、厳しい環境に置かれてしまいましたが、これをバネにして立ち上がって、立派な人格者になって欲しいと思います。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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