「エンゲージドブッディズム」とは、社会問題に仏教的視点から積極的に関わる運動を指し、「社会参画仏教」「行動する仏教」とも称されます。
本企画では、ポーランド出身の曹洞宗僧侶・シュプナル法純師と、長年エンゲージドブッディズムを研究してきた浄土真宗本願寺派超勝寺住職・大來尚順師をお迎えし、仏教は社会活動とどのように関わるべきなのかを掘り下げます。エンゲージドブッディズムの未来を考える対話、全6回連載の第4回をお届けします。
第4回 仏道に精進することは社会へのアプローチに通じる
●病める人に薬を与えるために
大來 今日、法純さんの話を聞いていて改めて思ったのですが、結局、仏教は応病与薬ですよね。医療現場においても、むやみやたらに薬を与えるのではなくて病に応じた薬が必要になります。ここで重要になるのが与える側の医療従事者の資質です。与える側がちゃんと病に応じた薬を与えられるかどうか。これを私たち置き換えると、それは僧侶として普段いかに勉強し、いかに仏道を歩んでいるかにかかっているわけですね。ここなんです。ここが薄れているから、エンゲージドブッディズムという言葉も作らざるを得なかったのではないでしょうか。私は、ティク・ナット・ハンの意図をこのように汲んでいるんです。
法純 彼が挙げたひとつのたとえですが、道のそばに一本の木が立っているんです。その木は、別に「社会のために生きている!」と意気込んでいるわけではまったくなくて、ただきれいな葉をつけたり、良い香りを放ったり、あるいは風がささささーっと吹けば、葉がそよぐ素敵な音を奏でたりします。道行く人に影を与えているかもしれませんし、根元は犬のトイレになっているかもしれません。
それでも、その木が自分のありのままの役割を保っていることで、みんなが生きている。動物も生きているし、人々も「ああ、疲れたな、ちょっとあの木に触れて休もう」と思うかもしれない。すべてが、生きているんですね。
ですから、つまるところ、問題は私たち自身なんです。自分が使っている言葉、抱いている思い、他者に対する行為を清めていかなくてはならないのです。
大來 身口意の三業ですね。
法純 それが厄介なもので、その奥には「おれ」が残っているんですね。
大來 そうですね。どうしてもぬぐいきれない。
法純 そういう「おれ」という意識が残っている限り、やはり本当に病める人に対して、きちんと薬を与えることはできないんですね。
大來 一理はありますね。しかし、だからと言って諦めることは違うと思うのです。そこで大事になるのが、ものごとを自分のことのように考えることです。さっきの電車の話ではないんですが、おそらく皆、それぞれ悩みをもっていると思うんです。表情を見ると、「この人は今、何かに追われているのかな」「この人は、今、きついんだろうな」というようなことは、何となく読み取れます。
法純 ストレスからくる体の不調もそうですね。
大來 はい。ただそれは今日この対談を見ている皆さんもそうだと思いますし、私自身も法純さんも同じだと思うんですけど、人に言えない悩み苦しみってあるじゃないですか。自分に秘めたる思いというものは、そう簡単には人になかなか言えないですよね。ただ、ぽろっと他言するときってあるんですよ。条件がそろったときにぽろっと出てしまう。そのときに、大丈夫なんだという安心感をもてる場所を、私たちが守っていくことも大事なのかなと思います。だから私たちは常に勉強し、見識を広げ、また発信していく必要があるのではないかなと思っています。
法純 そうですね。