吉水岳彦(浄土宗光照院住職)
1990年代半ばのバブル崩壊後、格差や貧困が社会問題化してきました。2008年には「年越し派遣村」が話題となり、最近では「失われた30年」が「失われた40年」へ向かっているともいわれます。この間、「もやい」や「つくろい東京ファンド」、「反貧困ネットワーク」などの生活困窮者や路上生活者を支援する団体が立ち上がり、活動を継続させています。
そうした団体の一つに、浄土宗の若手僧侶たちによって2009年に立ち上がった「社会慈業委員会 ひとさじの会」があります。その中心で活動を牽引してきたのが、今回お話をうかがった吉水岳彦(よしみず がくげん)師です。
吉水師が生まれ育ったのは、かつて日雇い労働者の街として知られた東京・山谷の光照院。父親である先代住職もまた、地域の子ども会の活動に力を入れるとともに、葬儀の支援などを通じて彼らとも関わりを続け、1960年代から80年代にかけて断続的に発生した山谷騒動(山谷暴動)の際もその渦中にいたとのこと。1978年に生まれた吉水師は、日雇い労働者たちの姿を間近に見ながらも、あえて交わることなく、どこか「景色の一部」として過ごしてきたと言います。しかしある時を境にその眼差しは大きく変わります。以来、長年にわたり月2回の炊き出しと夜回りを継続、身寄りのない人たちの葬送支援や被災地支援などに精力的に取り組まれています。
今回の特集では、その吉水岳彦師に密着取材しました。2部構成でお届けします。第1部では仏教ライターの森竹ひろこ(コマメ)さんによるインタビュー。(シリーズ「今ここにある仏教」)。第2部では「ひとさじの会」(https://www.hitosaji.jp/)の「炊き出し・夜回り支縁」に同行取材しました。編集部が何度かボランティア参加した折に目撃した吉水師の姿は、路上生活者の一人ひとりと全身で向き合う姿でした。その姿勢はどこから来るのか……。
第1部インタビュー編3回にわたってお送りします。お寺の歩み、ご自身の葛藤、ロールモデルとした近代の僧侶からの学び、そして信仰のことなど森竹さんに伺っていただきました。
第1回 親子三代、山谷で僧侶として生きる
■路上生活者が身近にいた子ども時代
──よろしくお願いいたします。吉水さんは路上生活者や日雇い労働者の多い地区にある光照院で生まれ育ち、現在住職をされています。子ども時代は、周囲にいらした方たちのことをどのように感じていましたか。
子どもの頃は、路上生活の方たちが「おい、ボウズ!」と突然声をかけてきたり、ちょっかいを出してきたりするので、正直に言えば「うっとうしいな」と感じることもありました。
また校庭で遊んでいると、大勢の方がフェンスにしがみついて、じっと私たちを見ていることがよくありましたね。今思うと、故郷に残してきたご自身のお子さんの姿を、私たちに重ねて見ていたのかもしれません。
──路上生活の人たちが日常生活の地続きにいたのですね。
そうですね。人が集まれば様々ですから、中には困ったことをする人もいました。子どもの頃、本堂のお供え物を勝手に持って出て行くところに、鉢合わせしたこともあります。
──ええ、その時はどうされたのですか。
驚いて「ワー!」と声を上げたら、向こうも「ワーッ!!」と驚いて逃げて行きました。でも、その小脇には本堂のお供物のお菓子をしっかりと抱えていたんですよ。もう、びっくりして、呆気にとられてしまって……。子ども心に「ろくでもない大人だな」と思いましたよ。
でも、私は彼らに対して、知らず知らずのうちに差別的な意識を募らせていたのだと思います。「ろくでもないことをする人たちだ」という決めつけが、当時の自分にはありましたからね。路上生活の方々に関わるようになってはじめて、自分の中にもそのような差別する気持ちがあったことに気づかされたのです。
──当時は、彼らを支援するという発想はなかったのですね。
一概には言えないですね。子ども心に「一体、この人たちはどこから来たのだろう」といった疑問は漠然とありましたし、本当に困っているのなら必要な物や食べ物を渡したい、とも思っていました。
でも、まわりの大人に話すと「あの人たちは仕事をせずに、自分の好きなように生きたいから、あのようにしているんだ。だから、放っておいてほしいはずだよ」と言われました。さらに「一人だけなら食事をあげられるかもしれない。だけど、実際は大勢の路上生活者がいるのに、全員に同じことができるのか?」と問われたときには、もう何も言えなくなってしまいました。
──お父様にも、そのような話をされたことがありますか。
はい、あります。ただ、父は山谷暴動を実体験として知っている世代です。
1960年代、先々代の祖父が住職だった頃から学生運動が盛んで、その後も多くの活動家がこの地域に流入しました。彼らは路上生活の方たちを巻き込み街中で破壊行為や火炎瓶による放火などを煽動していたといいます。
ですから、父からは「気をつけなさい」と言われました。子どもの私を、危険な場所へ近づけたくなかったのでしょうね。
──「子どもを守らなくては」という親心が働いたのですね。
そうですね。でもその一方で、父はドヤ街の簡易宿泊施設でどなたかが亡くなると、お経をあげに足を運んでいました。施設の狭い部屋でお経を唱えていると、仲間の方たちも集まって一緒にお念仏をし、なけなしの小銭を出し合ってお布施として手渡してくださったそうです。
ですから父の中には、路上生活の方々を支援する思いと、私たち子どもを守らなければという思いを、あわせ持っていたのだと思います。
──お父様も、彼らに対して心を寄せていらした。
はい。おかげで、暴動の際に過激な学生が「(寺を)やれ!」と扇動しても、「ここは仲間のお経をあげてくれるお寺だから、やってはいけない」と庇ってくださったそうです。そのおかげで、お寺には被害がありませんでした。
■先々代住職としての祖父
──お父様もお祖父様も光照院の住職だったそうですが、その前から代々世襲で継がれてきたのですか。
祖父である先々代住職から私までは血が繋がっていますが、それ以前は世襲ではありませんでした。
──お祖父様は、一般の家庭からお寺に入られたのでしょうか。
はい、祖父は山梨出身の在家でした。大正期のことですが、早くに母親を亡くしたことで、光照院に引き取られることになったそうです。
──当時は、そのようなことがよくあったのですか。
ええ、聞いている限りではよくあったことだと思います。当時の住職には大勢の弟子がいたようですが、後継にするために、まだ子どもだった祖父を引き取ったようです。
──将来の住職として、子どもの頃から厳しく躾けられた。
それが、祖父には相当甘かったみたいで、ずいぶん自由にしていたようです。祖父は馬術に非常に長けていて、光照院から大正大学まで馬で通っていたという逸話があります。拳闘(ボクシング)もしていましたが、お坊さんが拳闘というのはさすがに問題があるので、当時の住職には秘密にしていたそうです。ところが、大会で優勝して新聞に載ってしまい、バレたようですね。
大学卒業後、当時の文部省に入りました。しかし、すぐに第二次世界大戦がはじまり、陸軍に配属され満州にも赴きました。昭和22年に復員すると「子どもの教育に関わりたい」という思いから、地域の子ども会の取りまとめ役になったり、子どもたちと人形劇団を作って公演もして歩いたそうです。
また、寡婦の方たちの支援や、当時は「パンパン」と呼ばれた、身を売らざるを得なかった女性たちの相談も受けていました。お寺も貧しい時代でしたが、私財を投じて彼女たちが安心して住める場所を確保し、まっとうな仕事に就けるように援助していたそうです。
──お祖父様の社会活動家としての姿を間近で見ていたことが、現在の活動に何らかの影響を与えているのでしょうか。
実はここまでお話したことは、後になって知ったことです。この山谷地域は昔からキリスト教関係者の支援活動は多いですが、お寺の活動をほとんど耳にしませんでした。それを疑問に思い、昭和30年代の台東区の議事録を調べたら、議員も務めていた祖父が、山谷の労働者と地域の子どもたちの両方が幸せに暮らせるようにさまざまな活動していたことを知り、非常に驚きました。
結局、祖父も父も「困っている人がいれば、できる限りのことをする」という姿勢を言葉ではなく、背中で見せる人たちだったのだと思います。
■「お父さんのお手伝いをしたい」
──子どもの頃から、将来は僧侶になるという思いはありましたか。
はい、自分では記憶にないほど幼い頃から、お坊さんになるつもりでいたようです。幼稚園の卒業アルバムには「お父さんのお手伝いをしたい」と書いていました。
──僧侶として活動する姿にひかれたのでしょうか。
父はお寺を守りながらドヤ街の人たちとも関わっていましたが、特に地域の子ども会の活動に力を入れていました。子ども向けの様々な行事を開催していて、私も幼稚園の頃からついて回っていましたので、幼心に「お坊さんは子どもと遊ぶのが仕事なんだ」と思っていたのです。
──子どもから見ると、とても楽しそうな仕事に見えますね。光照院は浄土宗のお寺ですが、その頃からお念仏や阿弥陀様への信仰といった、宗教的な教えに触れていたのですか。
子どもがお風呂から早く出たいとき、よく数を数えさせられたりしますよね。私はその代わりに、お経やお念仏を唱えることをやらされました。
父はその頃を振り返って、「一緒に温泉に行くと恥ずかしかった」と言います。私がいつもの癖で、大浴場でもお経をあげてしまうものですから。「ここではやらなくていい!」と、父は随分慌てたようです(笑)。
宗教的な面では、「お念仏をすれば、阿弥陀様がいつも見ていてくださる」ということは、ずっと教わっていました。それだけは変わることなく、幼い頃から教育されていましたね。
2024年10月7日 台東区・光照院にてインタビュー
取材:編集部/森竹ひろこ(コマメ)
構成:森竹ひろこ(コマメ)
撮影:横関一浩
第2回 支援活動をはじめる

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