【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日テーマは「瞑想」です。
[Q]
瞑想にすっと入れるときと、なかなか入れないときがあります。その違いはなんなのでしょうか? また、なかなか集中できないときの良い方法はありますか?
[A]
調子というものが、身体にも、心にもあります。身体が元気でけっこう美味しくご飯を食べられる日もあるし、まったく食べたくない日もあります。あるいはジョギングしたい日もあるし、なにもやりたくないという日もあります。心も同じです。調子が良かったり、悪かったりします。
はっきり言えば、調子は肉体のものでなく、心のものです。心は、活発に機能したり、しなかったり、波が激しいのです。仏教的にいうと、五二の心所(心の中身)が心を動かしています。心所の組み合わせが、その都度、その都度、変わることによって、エネルギーが出たり、出なかったりするのです。
たとえば、欲とその類の心所が一緒になると、心が重くなって偏ります。怒りとその類の心所が集まってくると、激しくはなりますが、やり過ぎになって「壊す」方向に行ってしまいます。無智の仲間の心所がついてくると、機能不全の方向へ行ってしまうのです。無智の心所には具体的に怠けや眠気がありますが、これらの「もういいや、なにもやりたくない」という心所が組み合わさると、心が動かなくなります。そうすると「ああ、調子が悪い」と思うのです。うつ病というのは、主に無智の心所が機能しています。ですから、動きたくなくて、とても苦しいのです。欲と怒りがあるときは、心も体も動きますけれど、あまりいいことはしてくれないのです。
このように、心には波があります。一般人には、ほとんど貪瞋痴の悪い波しかありません。善い波はめったに生まれないのです。ものすごく大きな神社や仏閣などに入ったら、なんとなく心が清らかな気分になったり、人の悪いところを許してあげたい気持ちになったりします。そのときは善い波なのですが、そこを出たとたんにまた元に戻るというように、善い心所が活動するのは稀なのです。
瞑想は、あえて強引に善い心所を掘り起こして起動させるものです。宝物や石油を掘り出すような感じです。ですから、本来やりたくないものの第一が瞑想なのですね。そして、瞑想を始めても、やはりこの波の問題が出てきます。
身体の調子が上がったり下がったりするのは、結局は、心の調子が上がったり下がったりしたからで、心が先なのです。先に心の気分が上がると、次に身体が動いてくれる。先に心の気分が下がると、次に身体の機能も下がります。これを覚えておけば、対策・方法はその都度、その都度、自分で立てられると思います。
なかなか集中できないときは、ちょっと情報の変化の激しいところで歩く瞑想でもするとうまくいきます。あるいは、すごく速く歩きながら実況中継するのです。早足で歩きながら、「左足、右足、左足、右足……」と肉体を運動させると、心もまたその影響を受けて機能するようになります。瞑想をする気にならないという人は、瞑想というものは座っていることだという、とんでもない誤解をしているものです。瞑想というのは、実況中継することだと、しっかり理解しましょう。
■出典 『ブッダの質問箱』