アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
センス オブ ワンダー(sense of wonder)という言葉があります。これは自然界の不思議を見て感じる、感動する力(感性)のことです。朝日が昇るのを見ると、人の生死が同じように何万年も延々と繰り返されてきたことを思い、日常の些末なことを憂うる気持が消えたりすること。これは無常を知る非常に良い経験なのではないかと思います。
一方、長老の著書に、「世界には不思議は無い。すべて因果法則で成り立ち、それを人がわからないので不思議に感じるだけであり、無知の表明である」という趣旨の記述があります。センス オブ ワンダーについて、どう考えればいいのでしょうか?
[A]
■見える範囲によって問題は変わる
感性と因果法則、この二つの概念は相反すると言っているわけではありません。別な話です。「センス オブ ワンダー(sense of wonder)」とフレーズが英語でカッコイイだけで、普通の言葉で言えば「感動する」。ただそれだけの意味ですね。感動する場合は気をつけた方が良いのです。心が汚れないように清らかな感動にした方が良いのです。清らかな感動であれば、精神がリラックスした状態になり、自分がちっぽけな点ではなく、大きな存在のように感じることもできます。自我意識が強くなればなるほど、いわゆる自我を張る・自己中心的になると、内向きに力が働き、他者との軋轢が生じ、ストレスが増え、悩み苦しみが生れてきます。
仏教的に言えば、心という認識機能の認識範囲はいくらでも拡大することができます。認識範囲は無限大にまで拡大することも可能です。今は狭く小さな視点・角度・範囲で物事を見ている、自分のことだけしか考えて生きていない。その視点・角度・範囲を拡大して物事を見ていくと、小さな視点は問題にならずに消えてしまうのです。
例えば私たちは日本に住んでいて、この小さな部屋の中にいて、それぞれ人を見ると、「この人は好き」「あの人は嫌い」「その人の性格が気に入らない」など自分の小さな視点で、とても窮屈でストレスを感じ、地獄を作っているようなものです。
■大きな視点で物事を捉える
その自分の小さな視点をどんどん空に向けて上げていき、大気圏からその上の宇宙空間まで行けばどうなるでしょうか? 空から見下ろせば日本全体が見えて、宇宙から見下ろせば地球全体が見える。そうすると、この小さな部屋の中にいる数人のことなど気にもなりません。もっと視点を上げれば、地球すら銀河系のどこにあるかもわからないぐらい小さな星屑のひとつに過ぎません。私たちが知っている巨大な太陽ですら、銀河系や銀河団という範囲で見てみれば、あるか無いかわからないぐらい小さな小さな星のひとつに過ぎないのです。
ということで、自分の認識する視点・範囲を拡大させることで、物事を全体的に観られるようになります。物事が全体的に観られるようになると、小さなこと・問題に困る必要は無くなっていくのです。それが理解できれば、たとえまた視点・範囲を小さくしたとしても、すでに経験がありますから問題に対して囚われなくなります。
仏教の瞑想世界では、サマーディ(サマタ)瞑想によって、時空的な視点・過去世を観ることも語られています。時系列・タイムラインに沿って過去を遡ることは可能ですが、未来を観ることは不可能です。その場合は個人で、私というひとつの自我意識をタイムラインに沿って、因果法則から過去に遡っていくと、無限に過去があったことが観えてくるのです。ずっと心が回転し続けてきて今があるとわかり、過去に対してどうということはない・無意味だと理解することになります。ほんの僅かな時間だけ、ある命として回転していただけ。また違う回転になり、別な次元で回転しているだけ。本当にそれだけなのです。もしタイムラインで観るという能力があって、認識範囲が拡がっていけば、ちょっとしたことで喧嘩したり争ったり、そんな小さな問題は消えてしまうのです。
■行為の良し悪しは、心の清らかさがポイント
俗世間の中でも、物事をより大きな視点・広い認識範囲で観ることができれば、センス オブ ワンダーというふうに感じることができます。簡単なのは空を見ることですね。空を見れば大きな空間を感じやすいです。東京では大きな空を見ることができませんが、もし地平線上に百八十度の大きな空を見ることができれば、自分の自我意識があまりにも小さく感じて消えてしまいます。海岸に行って水平線を見る、水平線から見る日の出や日没を見ると、巨大なスケールで認識することができます。そんな広大な自然を見ることで、吸い込まれていきそうに感じることを「感動」と言っています。それで心はリラックスします。その瞬間に「この命は儚い」「認識というのはたいしたことはない」と思えば、無執着になって、個人的な悩み苦しみは消えてしまいます。
■世界にある不思議に騙されてはいけない
私が本に書いた「世界に不思議は無い」というのは仏教の因果法則の話です。自然にある感動的な現象も、たとえば神を信仰する人々が見ると「皆さんよく見てください、これが神の御業です」とか、すぐに信仰という奴隷プログラムに結びつけてしまうのです。宗教というのは人間の自由を奪って、判断能力を壊して、奴隷にしてしまう、絶対良くない無知のシステムです。
人間は奴隷になる必要はありません。冗談で言いますが、私たちの遺伝子の一部に、宗教を信じる・信仰する・奴隷になる遺伝子があるのです。心というのは本当に無知で、認識機能の基本的な構造として「奴隷になれ」ということになっているのです。ですから、世の中では新しいことを考え創造する・大胆なことをする人はごく稀で、新しいことを考えたり創造したりする種が芽吹いても、周囲の大人や環境がその能力を摘み取ってしまうのです。
人間たちはどんなことでも「言う通りにしなさい」と教えます。お母さんの言う通りにしなさい、先生の言う通りにやりなさい、先輩の言うことを聞きなさい、上司の指導を受けてやりなさい……。そのように世の中では自由にならないように、無知で蓋をしているのです。それから何も考えないようにするためにマニュアルばかり作るのです。「余計なことをするな」「立ち入り禁止」ということになっています。ある意味、自由を奪っているのです。人間が作るどんなシステムもその無知が基本です。
私たちの認識における基本構造が「奴隷になれ」ということになっているため、人類は子々孫々、この奴隷システムを存続させています。その中で代表的なものとしてあるのが、「信仰」という機能なのです。神や超越的存在など、何か得体の知れないものを信じてしまうという無知の働きがあるのです。
宗教というのは、人間にある恐怖感を育てて、そして脅して、「死後の天国」という無意味な保証・嘘の約束・無効な契約を結ばせて、言うことを聞かせて、奴隷を作っていくのです。日本の場合は家族を人質にとって、「あなたの家族が酷い目にありますよ」「身内に不幸が起こる」「子供が病気になる」と言って脅迫し、「先祖が祟る」と揺さぶって宗教の言いなりにさせます。私から見れば無数にある宗教のフォーマットは、結局みな同じです。
■瞑想・修行は 誰かに脅されてするものではない
瞑想というものは各宗教にあるものですが、仏教で教える瞑想は宗教や信仰とは関係の無いもの、心を育てる方法としてあります。心を育てる方法に、ある特定の宗教だけが権利を持っているのはおかしいのです。
例えば同じ禅宗でも、臨済宗と曹洞宗の瞑想方法は互いに違います。それで諍いがあったとしても意味がありません。どうしても向こうから見ればこちらが間違えて見えるし、こちらから見れば向こうが間違って見えてしまうからです。そこで同じ仏教でも、ブッダの言葉を持ち出してきて、自分のたちを正当化したり、権威づけして相手を貶めたり、そういうことはしない方が良いのです。
どんな宗教にも共通することがあります。それは「恐怖感」を利用すること。特定の神や教祖以外は信じるなと排他的であることです。なぜ世の中で宗教が元気で活動しているのかというと、私たちは本物の自由を感じたことがありませんし、自由を感じようとする探求心のある稀有な人間がいれば、(周りの人々が困るので)その人を強制的に躾けして、完璧な奴隷のような性格に作り替えてしまいます。それで互いに奴隷同士になって仲良く生きているのです。奴隷には主人・管理者・支配者が必要ですが、それは誰でも構わない。社会人になったら会社や上司を主人として奴隷として生きようとしてしまうのです。
■感動で満足するのではなく 自我の錯覚を破る
そういうことで、大自然の中で日の出を見ると「なんて美しいのか」と感動してしまったり、山頂で三百六十度を見渡して「素晴らしい」と神秘的に感動したりすることはあります。音でも同じことが起こります。たまに何かの音を聞いて、驚いて感動してしまうとか。人間の作った音楽では、そこまでの感動を与えることはできません。自然界には音のリズムがあって、それを聞くと心が変化してしまうのです。落ち着くのです。森に入ったら森が持っている音があり、耳を澄ませてみると、自然のリズムや音を耳で感じることができます。それで感動して心は落ち着きます。鳥たちのさえずりや虫たちの音色を聞くとどうなるでしょうか? まず雑音には感じません。うるさくはないのに耳いっぱいに響きます。
そのように人間が感動する景色や音などは、自然界を探せばいくらでもあります。なぜ感動するのかというと、瞬間的に小さい自我の殻を忘れることができるからです。瞬間だけ忘れるのです。それは決して悪いことではありません。とはいえ、自然界のものは神様や創造主が創ったとか、誰か特定の人のために用意されたものだとかいう話ではありません。感動に惹かれて勘違いしてはいけないのです。世界にある宗教の神様とは、ただの人殺しかウソつき、あるいは嫉妬に狂った頭のおかしな概念に過ぎません。
ということで、人間が邪見で躓かないように、この世界や現象には魔訶不思議は無い、人間に理解できないものは無いと、私は注意を促して言っているだけです。決して、そういうものに感動してはいけないと言っているわけではありません。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編6』
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