シュプナル・法純(僧侶)


第6回    不殺生と慈悲


■単なる「今に成りきる」の問題

    数年前からマインドフルネスが流行っていますが、日本人も仏教再発見のように、すぐはまっていきました。仏教僧の中にもマインドフルネスを中心にして、それしかやらない方も少なくないでしょう。しかし、単なる「今ここに成りきる」と定義されているマインドフルネスのやり方は、非常に危ないところも潜んでいます。なぜなら「今ここに成りきる」のなら、一分前は関係ないし一分後も関係ないし、今ここだけが切り取られているからです。一部しかないというのは、大変狭いでしょう。一所懸命に成りきろうとすると、集中力が爆発する場合もあると聞いたことがあります。
    もし、そのような狭い意味で「今ここに成りきる」ことになったら、何に基づいて行為をすればいいのでしょう。例えば、誰かが私を殺そうとナイフで襲ってきたら、殺してはいけないこと(不殺生)を知らなければ、自分を守るために相手を殺すかもしれません。でも、先ほど話したように仏法者としては殺してはいけないんですよ。殺そうとされても、絶対に殺さない。
『ノコギリ経(鋸喩経)』という有名なお経では、ノコギリであなたの手足を切り落として殺そうとする盗賊に対しても、心に怒りが出たら仏法者ではないとはっきり説かれています。「そこまで厳しいと、仏法者はどこにもいない」と言われてしまうかもしれませんが、確かにそうなんです。だから戦争においてこの国を応援しようとか、あの国を成敗しようとか、あるいは歴史のなかでは聖戦と呼ばれた戦争もありましたが、それらは仏法としては成り立たちません。