【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「生かされて生きている?」です。
[Q]
長老の法話で「今日一日の計画で生きてみる」とお聞きしたのですが、そこには生かされて生きるという前提がありますか? 命には限りがあり、明日生きているという保証はありません。死と共に生きていると思います。一日を大切に生きるというふうに仏教では教えているのでしょうか?
[A]
■俗世間のフレーズに引っ張られないこと
法話の中で「今日一日の計画で生きてみる」と言いました。その理解で少し混乱があるようです。世の中では、命に対して様々な下らないことを言っています。私たちは世間(他人)が発する言葉に洗脳されているのです。鵜呑みにしているのです。仏教では世間の言葉をそんなに気にするなと言っています。なぜなら、世間は真理を知っているわけでは無い、世間は一切智者では無いからです。世間という中には、私たちも含まれています。私たちも大したことは知らないし、当然、他人様も物事をしっかり知っているという保証はありません。
ですから、質問者も命とは何なのか、生かされているということはどういうことか、知っているわけではないのです。それでも自分の家族や知人に同じようなことを教えたりするのです。生かされている命だから大事にしなさいと教える。皆でそのように思考停止させ、洗脳しているのです。生かされている命、生かされて生きると教えた人々も、きちんと命を理解して教えたわけではありません。
そういうわけで、仏教を学ぶ方は世間で言われている言葉は全然気にしません。真理はお釈迦様によって説かれているからです。「生かされて生きている」というフレーズには、自然と疑問が出てきます。「誰に?」という疑問です。あるいは「誰があなたを生かしているのか?」という疑問です。単純に日本語で「生かされている」と言ったとしても、主語が必要な英語にしてみれば明確に「誰が(命・あなたを)生かしているのか?」という疑問が起こるのです。その答えは「そんな誰かはいない」ということになります。
■命とは一時的に成り立つ現象の流れ
日本語のフレーズで「生かされている」と使っても私は別に気にしません。ただそのフレーズは正しくはないのです。命というのはその瞬間の原因(因縁)によって一時的に成り立つ現象なのです。例えばここに音がある。耳に音が聞こえる。その音を理解する。それが命なのです。一時的に成り立ったのです。物が置いてある。目を開けたら見える。見て理解した。そのように常に何かを認識し続けているのです。生きるというのは、認識し続けることです。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考える、この六つの認識の流れを命と言っているに過ぎないのです。別々な六つの流れです。一本ではありません。その場その場で認識が起こるのです。今座っている時の命は、外へ出るともう別の命になっています。別の認識の流れに変わっているのです。今ある環境が少しでも壊れたら命は成り立ちません。認識が変わるということです。ですから命は儚いのです。儚いのですが、認識は止まることなく続きます。
無常なので、因縁によってひとつの認識が消えると、それが原因になって新たな認識が起こるのです。それが消えると、消えたことが原因になって新たな認識が起こる。新たな認識が起こるためには、必ず消えるという原因が必要なのです。恐ろしいことにこの認識は普通は止められません。ですから、生かされているでは無く、「命(認識)とは因縁によって一時的に成り立っている現象の流れ」というのが正しい理解なのです。
■作られた幻覚にいちいち悩まず生きる
ということで、これが命だと単独で取り出してみることはできません。鏡に映る鏡像と同じです。あるかないかよくわからないのです。実際には、鏡の中には何もありません。鏡に何かが映っているように見えるのは、脳の中に幻覚を作ってそれを見ているからです。ということは、命も鏡に映っている鏡像と同じと言えるかもしれません。余計なことを考える必要はありませんね。
今日一日、その時、その場所で正しく生きる、明るく過ごす、やるべきことをこなせばいいのです。プラスアルファで言うのは、「瞬間の命なのだから命(認識)に執着してはいけません」ということです。終わったことは終わったことです。将来はどうなるかわかりません。ですから、今の瞬間に集中して正しく生きなさいと教えているのです。そうするとものすごく楽になります。「今日一日の計画で生きてみる」とは、そのような意味です。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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