【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「人格者とは?」です。
[Q]
「人格」とは何でしょうか? 法話で人格や人格向上という言葉が出てきます。以前は全く気にならなかった言葉ですが、最近「人格ってなんだろう?」と、とても疑問に思うようになりました。人格向上を目指さなければいけないと聞くと、走って逃げたくなります。人格向上を目指すと考えただけで、心がカチコチに固まってしまうような感じがします。長老がその言葉にどんな意味を込めているのか教えていただければ、納得し理解できると思いました。お願いします。
[A]
■それぞれの人格者というイメージ
「人格」という言葉のイメージは、人それぞれ文化背景や教育環境、また家族の関係によって異なります。もしかすると人格という言葉に、あなたは良くないものを抱いているのかもしれません。単に気に入らない・好みじゃないとか。知人が誰かを指して「あの人は素晴らしい人格者だ」と褒め、あなたに「あの人と同じようになった方がいい」と言ったとしましょう。特にそう思っていなければ「そうかなぁ? あんな風にはなりたくないけど」と思ってしまう可能性もあります。それで、人格という言葉に暗いイメージがついてしまった可能性もありますね。ただ人格者と聞いて嫌な気持ちになることは全く問題無いと思います。
■「人格向上」とは、「悪人にならない」こと
「人格向上」という言葉を私は気楽に使っています。科学用語のように厳密に定義はせず、ごく一般的な意味として使っているだけです。なので、個人個人で意味が理解できるように言葉を換えて理解しても良いと思います。たとえば人格向上ではなく、「悪人にならない」と言い換えてみたらどうでしょう。人間は本来だらしなくて、怠け者で、悪いことを平気でやってしまう。ですから、そんな人間にはならないで「もう少しマシな人間になる。自分自身で自分を管理できるようになる」と理解すればいいでしょう。そう理解すれば、それほど抵抗は無いと思います。あなたは悪人になりたいと思いますか? そう聞かれたら「やっぱり悪人にはなりたくないな」と思うでしょう。
■肩書と人格は同じではない
人間というのは感情が現れたら、感情の指令のまま振る舞ってしまいます。いくら頭が良くても、いくら知識を持っていても、感情が割り込んで来たら、すぐ反応してしまうのです。持っている知識や理性などは吹っ飛んでしまいます。感情によってすごく恥ずかしいことまでしてしまう可能性もあります。社会が認めないこと・法律に触れることもしてしまう可能性があります。なぜあんな立派な有名人や知識人や先生が変なことをしてしまうのだろう? というケースがよくありますね。心が感情で一色になってしまうと、どんなことをするのかわからないものなのです。たとえ大臣や教授や大企業の社長や寺の住職といった、何だかの肩書を持っているからといって、人格者であるかどうかは別です。大臣イコール人格者ではありません。住職イコール人格者ではありません。大臣であろうが住職であろうが、そこら辺のおじさんであろうが、感情に負けないで生きているなら、最終的にその人が死んだ時に人格者だったと評価することができるのです。
■感情に支配されないことが人格者である
私が言いたいポイントは、人間ですから感情は現れます。ですから、どんな人であろうと自分の人生をどう生きるのか、どんな判断によって行動するのか、常に理性的な行動をしているのかが大事だということです。感情が現れて、その感情のままに判断し行動してしまうことは危険です。煩悩という細菌・ウイルスが活動し始めた時に「あっ、マズいぞ。感情が発病した」と冷静にみて一旦停止する。それから、その症状が消えるまで治療しなくてはいけません。人格向上とは「ウイルスに感染したら治療する」という意味で理解しても構いません。そうすると、世の中はだらしない人間ばかりですね。誰も人格者ではありませんね。ちょっとしたことで怒るし、怒鳴るし、ちょっとしたことで人を非難するし、見下すし、ちょっとしたことで悩むし、落ち込むし。そういう人々の人生は感情が支配している事がわかります。感情の奴隷にならない、あるいは感情が現れたら治まるまで何もしない、そのように感情に対処できることも人格者の条件です。
■自分の失敗を認められる「普通の人間」になる
人間というのは誰でも失敗をします。ごく当たり前のことです。そこで人格者なら「失敗しました」「悪い結果になりました」「ごめんなさい」と素直に失敗を認め、なぜ失敗したのか原因を調べて、次は同じ失敗をしないよう注意深くなって自分を戒める。人格者でない場合は、失敗したら「どうすればバレないよう隠せるか」「私のせいじゃない、私は悪くない」と自分を正当化し皆を騙そうと考える。自分のしたこと、失敗を認めないで隠ぺいするというのは、人格者の反対です。そう考えると、常識的な普通の人間のことなのです。普通がカッコイイのです。人格者であれば自分に過ちがあったなら、「私は間違いを犯しました」ときちんと認めることができるのです。
■人格者なら素直に人に助けてもらう
それから、もし何かをやろうとして、自分にはそのやり方がわからないとしましょう。人格者であれば、自我が無いのでやり方を知っている人、それが女性であろうが、男性であろうが、子どもであろうが、年寄りであろうが、誰であろうと「すみませんが、どうすればいいか教えていだけませんか?」と訊くことができる、指導を乞うことができるのです。もし「ガキになんか教われるか」「俺は昔、部長をやっていたんだ。バイトに頭を下げられるか」と思ったとしたら、それは人格者とは言えません。単に自我を張っている人です。仕事でもバイトの人の方が内容を知っている場合があります。その時は素直に「これを教えてください。お願いします」と言えるのが人格者なのです。要するに理性に基づいて謙虚であることです。
■仏教では 人格者は正常な人間のこと
人格者という単語のイメージが悪いのであれば、試しに「誠(まこと)の人」などと単語を換えてみましょう。または「人間らしい人間」と言い換えましょう。別に「人格者」という単語に執着する必要はありません。英語「normal person」を人格者という意味で使っても構いません。確かに英語でも「man with a personality」というとちょっと怪しいのです。Personalityというと、自我を張っているように聞こえます。「a person with issues」というフレーズもあります。ここで人格者と言っても、それはjust normalという意味です。Normalとは、正常という意味ですね。ですから、「本当に正常な人」「真に普通な人」とも言い換えられます。人格者というのは「普通の人」なのです。一般的にどこにでもいる人という意味では無く、何も偏りが無く正常な人という、文字通りの意味での「普通」です。具体的には、威張らない・落ち込まない・失敗してもやり直す・間違えて怒鳴られても「すみません」と素直に謝れる、「どこが悪かったでしょうか」と自分の過失、過ちから学ぶことができる。そういうことができる人が人格者なのです。
具体的に人格者という意味を理解すれば、単語のイメージなどは関係なくなるでしょう。だいたい、人間というのは普通・正常・normalではありません。皆、異常なのです。「あの人は何者ですか?」「一体、どんな人なのですか?」と恐れられ、疎まれる人々もいるでしょう。牙剥き出しの獣のような生き方をして、すぐに威張ったり、怒鳴って威圧したり、またとんでもなく落ち込んで立ち直れなくなったりもする。全く普通・正常ではありません。ですから、まず「普通の人」になってくださいと言っているのです。
■皆、自我を張って他を差別する
人間は些細なことで他者を差別します。差別するためにあらゆる項目・テーマを探し出すのです。たとえば医学部に入ったとしたら、その他の理系や文系をバカにしたりする。そんな些細な違いは何の意味もありません。性別にしても「お前は女だから、わからないだろう」「女性は能力が無い」などと平気で言ったりする。そんな差別を当たり前にする人が人格者だと思いますか? 世の中には当然、年寄りがいます。「年寄り」というのは科学的な単語ではなく、人間の年齢層で特定のグループを指して使っている単語です。法律的には「年寄り」は何歳からか決まっていますか? 六十五歳からですか? 法律上は税金を取るため・社会保障をするために、ある年齢で線引きをしていますが、それは差別ではありません。管理するために決めた年齢制限です。私たちが「この年寄りは、本当に!」と言う場合、ものすごく差別的な意味で言葉を使います。相手をバカにする、見下す、怒りが籠っているのです。人間は皆おかしいのです。病気です。どんな些細なことでも自他を区別し、そして相手の上に立って、マウントを取って、「俺の方が偉い」「私は特別だ」と言いたくて差別するのです。もちろん自分と他人は違います。同一ということはあり得ない。だからといって、どちらが偉くてどちらが偉くないとは言えません。
ということで、人間は皆、普通・正常・normalではありません。人間というのは、いかにして他者・隣の人と自分を比べて、自分の方が正しい・偉い・勝っている・優れているかと差別する、相手を打ち負かそうとする、見下してやろうと企んでいるのです。そういう意識で生きているのです。
■自我や感情に気づくことで 普通の人間になれる
私たちは皆、「自分は他より優れている」という感情を持っているのです。しかし、どのように優れているのかわからないので、自分の優れたところを探すのです。隣の人が白髪で、私の髪は黒々としている。たったそれだけでも、「私の方が若い」「私の方が優位」「私の方が上等だ」「私が偉い」とバカげたことを勝手に妄想するのです。人類は皆、そういうことをやっています。よく観てください。
ですから、仏教の世界から「人格者になりなさい」という場合は、単に「ごく普通」「普通の人になりなさい」「正常な状態の人間」「normal」と言っているに過ぎません。大それたことではありません。しかし、人間には難しいかもしれませんね。
「人格者になりなさい」と聞いただけでカチコチになって逃げたくなるということは、理解の問題であって、人格者とは何かと正しい意味を理解したのなら怖がる必要はありません。結論としては「普通の人になる」ということです。普通の人であるということはカッコイイのです。異常者・おかしな人・イカレた人・狂った人より、普通であることは相当にカッコイイと思います。人格者という単語にこだわる必要は全くありませんが、「ごく普通の人」「正常な人間」になってみてください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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