アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
ゴータミー精舎近くのバス停のベンチでホームレスの女性が殺されました(2020年11月)。犯人はボランティアでゴミ拾いをしていた人で、女性がベンチに居るのがじゃまだと考え、追い払おうとして殴って殺したそうです。
私も毎朝、ゴミ拾いをしているのでこの事件は衝撃的でした。ゴミ拾いをしていると世間の矛盾に直面します。慈悲の思いと戒が無くゴミ拾いを続けるのは厳しいと思います。
ゴミは除去しなければいけない、気に入らないものは除去・排除すべきとなり殺人に至ってしまったようです。ゴミ拾いの実践の中で慈悲と戒が育ってゆけば理想的なのですが、なかなかそうはいきません。自分一人のゴミ拾いに満足していれば良いのでしょうか?
[A]
■ボランティアには慈しみが欠かせない
みんなが考えるべきポイントですね。簡単にできて良さそうに見えるものには安直に飛びつきますからね。そこに問題があるのです。表面的に良さそうに見えるだけで、道徳がない人もやってくるので気を付けなくてはいけません。
ボランティアという言葉はキリスト教の伝道師が広めたもので、実は純粋な奉仕ではないのです。困っている未開地の人々を助けてあげて、さらに神の教えを授けてやろうという、いわば押し付けみたいなものですから。神を信じることが第一であって、人を助けることはその次なんです。厳密にはボランティアの精神では無いのですね。
ボランティアという素晴らしく道徳的な概念のポーズをしただけではカッコ良くならないのです。そのことは気を付けなくてはいけません。
ではどうすればカッコいいか? 答えはいたって簡単、やはり「慈しみでやりましょう」ということに尽きます。自分の心を清らかにするためだと思わなくてはいけません。ボランティアは慈しみの実践です。自分自身の、慈悲の行為として行うのです。そうすれば怒りが出てきません。
例えば公園のゴミ拾いをすると、拾っても拾っても、またみんなが遊びに来てごみを捨てたままで出ていく。「何だこれは!」とか「みんな行儀が悪いなぁ」と腹が立つ可能性がありますが他人の過ちを探してはいけません。人がゴミを捨てないと、ゴミ拾いという立派な行為は成立しないでしょう? キリスト教の伝道師も未開地の貧しい人たちがいなかったら布教できないわけです。どちらが偉いのですかね?
■トラブルに遭遇することで自分を知る
ボランティアは逆境じゃないと成り立ちません。自分に忍耐力があるのか知りたければ、自分を非難侮辱する人々に出会った方が良いのです。
仏教では善行為は二種類あります。自分自身の善行為と、社会に対して行う行為です。怒らないということは、本当は自分自身の善行為で、人と付き合う時に怒らないことは、社会に対する善行為で、そういうことで、社会的な道徳が成立するという面もあります。だから、社会に文句を言ってはいけません。例えば、路上で酒を飲んで空き缶を放置していく人がいたとします。その時に「では、私はどう考えるべきか」ということです。酒を飲んだ人は行儀が悪い、だらしないと怒るべきか、あるいは、もしかするとその人はゴミ箱を探したけれど見つけられなかったのかもしれない。家がある人は持ち帰って捨てればいいですが、そういう環境ではない可能性もあります。その人にもそれなりの訳があって、そこに捨てているのです。また「ここへ置いておいておけば誰かが処分するだろう」と深く考えずに置いたかもしれない。それもその人の言い訳なのです。
ですから、やはり心を清らかにするためにボランティアはやった方が良いのです。いろんなトラブルに遭遇しますが、そのたびにシミュレーションをしてみましょう。ゴミ拾いのボランティアだったら「あ、ゴミだ、拾おう」だけでいいんですけどね。
無理の無い範囲でやればすごく気分が良いと思います。「良いことをしちゃった」という心の喜びを感じて欲しいのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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