伊藤義徳(人間環境大学教授)
仏教を通しての行動変容というとき、仏教瞑想に端を発しながらも現代社会に浸透するマインドフルネスの果たしている役割は大変に気になるところです。マインドフルネスの実践者・研究者である伊藤義徳氏は、長年にわたり少年院/女子少年院におけるマインドフルネスを研究しておられます。「人の行動を本当に変えるためにどうしたらよいのか」を一貫したテーマとし、「腑に落ちる理解」を研究するなかで得られた知見を、マインドフルネス、原始仏教、心理学研究など多角的な視点から論じていただきました。
第1回 少年院におけるマインドフルネス指導の現場から
1.私のマインドフルネスと仏教との出会い
私は普通の臨床心理学者ですので、率直に言って、このような「仏教」が冠された特集号に原稿を上梓することは、何か場違いというか、戸惑いを感じております。とはいえ、せっかく頂いた機会ですので、この分野で私に何かオリジナルな部分があるのかを探求すべく、自身のやっていることと考えている事をまとめてみたいと思います。
私は現在、マインドフルネスを原始仏教における実践の一部と理解し、心理学的研究を行い、その観点から臨床指導も行っております。これから4回の連載の中で、前半は私のマインドフルネスに基づく臨床実践を紹介します。そして、私の考えるマインドフルネスや仏教についての考え方について、この連載の後半に紹介させて頂きます。
今回は、私が少年院で行ってきたマインドフルネス指導の様子を紹介します。
2.少年院におけるマインドフルネス指導
少年院とは、家庭裁判所から保護処分として送致された少年に対し、その健全な育成を図ることを目的として、矯正教育や社会復帰支援等を行う法務省所管の施設です。少年院を出所した少年達の再犯率がなかなか下がらないことへの対策として、また時代の変化に応じた矯正教育の在り方を模索する中で、2015年より「少年の特性に応じた処遇と再犯防止対策・少年非行対策の推進,少年の人権尊重と適切な処遇の実施及び社会に開かれた施設運営の推進」(法務省、2015)が打ち出されました。そうした中で,主に生活指導と職業指導に別れる矯正教育のうち,生活指導の中の「治療的指導」の一環として,マンドフルネスが取り入れられるようになってきました。私は,2014年から2022年まで、沖縄女子学園、沖縄少年院においてそれぞれ2週に1回のペースでマインドフルネスの集団指導を行ってきました。本稿では,そこでの指導の様子を紹介するとともに、マインドフルネスが少年達に及ぼした影響について考察したいと思います。
3.指導全体の流れ
指導体制は時によって若干変化しましたが、基本的には男子は1回70分で10~20名を対象に実施し(それを2クラス分)、女子は1回105分で、人数はほとんど一桁でした。越川房子先生が監修した法務省のマインドフルネス標準テキストもありましたが、こちらでは、私が書き下ろしたオリジナルの冊子を使用して指導を行っておりました。少年達は15分(女子は20分)の瞑想を日課として行っていましたが、同じ瞑想が続くと飽きるため、6つの瞑想を用意して、2週間に一度、私が指導に訪れる度に変更するようにしていました。各回にテーマを設け、日課とする瞑想の他に、私が指導に訪れた際に一緒に行うミニワークも用意しました。それらをまとめたのが以下の表です。
慈悲瞑想まで行ったら、次の回は手動瞑想に戻って繰り返します。少年達の中には被虐待経験を持つ者も多く、最初から身体感覚に鋭い意識を向けることは危険もあるため、まずは動きのある瞑想から始めます。とはいえ、少年達はこちらのスケジュールとは関係なく、それぞれの入院のタイミングでマインドフルネスに参加します。そこで、1周するまでの間の日課は、読み物と書き込みシートからなるセルフモニタリング資料を用意し、セルフモニタリングと瞑想を交互に行うようにしました。また、本人の状態に合わせて、難しいようなら瞑想は無理させないよう教官にお願いしておりました。
ミニワークは、瞑想ではなくレクリエーション活動を通してその回のテーマを深めることを意図して用意しました。これらは一例で、その都度少年達が飽きないよう新たなワークを工夫しておりました。
また、私が訪問した際の1回の時間の使い方は、大凡以下の通りでした。
図 1回の指導の時間配分(男子少年院の例)
挨拶(5分)
↓
これまでやっていた瞑想の実践(15分)
↓
瞑想振り返り(10分)
↓
前回の感想フィードバック(10分)
↓
日課振り返り(5分)
↓
ミニワークor講話(15分)
↓
新しい瞑想方法の指導(10分) (時間配分は男子少年院の場合)
最初にこれまで2週間続けてきた瞑想を一緒に実践し、その後、その瞑想経験についてのシェアリングと質疑応答を行います。また、少年達はマインドフルネス指導があった日の夕方に指導の感想を書いてくれるので、指導の際にはそれを事前に確認しておき、感想フィードバックのところで一部を紹介します。ここでは、ラジオパーソナリティの様に感想を面白おかしく紹介しながら、少年達とコミュニケーションを図り、温かな雰囲気を作ります。ミニワークでも、きっちりワークを進めることよりも、温かで楽しい雰囲気作りに努めました。女子少年院では人数が少なかったため、より個別の関わりを重視して、時には個別カウンセリングのような深い話し合いが行われることもありました。規律とルールに従い、座り方まで一様に決まっている少年院生活の中で、マインドフルネスの時間は少年達にとっては、束の間気を抜ける時間となったのではないかと思います。
4.導入の頃の苦労
私が関わった7年間の間にも、少年達の量、質共に変化がありました。入所者数はこの間に1/3程度に減り、体中入れ墨だらけで強くこちらを睨みつけるような少年も、最後の頃には殆どいなくなりました。これは、少年院の全国的な傾向のようです(西日本新聞、 2021)。しかし、マインドフルネスを導入したての頃にはまだ凄みのある少年がいて、初めてマインドフルネスを紹介した日には、教官の先生に叱咤されても、特別指導を受けることになっても、こちらを睨みつけて一切瞑想をしない少年もいました。怪しいことをさせられる、という不信感や抵抗感が根強かったように思います。それでも、マインドフルネスについての理解を求めるため、まずは私自身が怪しいものではないと思ってもらうため、講話の中で私自身の昔話をしたり、若い男の子が好きそうなバカ話をしながら、気に入ってもらえるよう努めました。また、怪しいと思っているのは教官も同じです。こちらについては、研修会を何度も組んでもらって、また出来るだけマインドフルネス指導の教室に入って監視者としてではなく実践者として参加してもらう事で、マインドフルネスへの理解を求めました。そうするうちに、徐々に先生方の中にも率先してマインドフルネスを行う先生方も現れるようになりました。女子少年院では、毎日朝礼でマインドフルネス瞑想をする日課も出来ていました。
5.思い出深い少年達
(1)最初は怖かった少年A
導入の頃、私に「メンチを切っていた」少年です。彼は結局出院の頃まで、「意味ない」「やりたくない」と感想に記入していました。マインドフルネスに限らず、指導の随所で教官らと衝突し、先生方も手を焼いているとおっしゃっていました。とても時間がかかってやっと出院したと思った1年後、彼が再び少年院に戻ってきました。少年院出院者の2年内再入院率は11%と言われていますが(犯罪白書, 2021)、まさか彼が戻ってきたかと、見たときにはギョッとしました。ただ、再入院後の彼には変化がありました。とても素直で、瞑想にも当初から真面目に取り組んでいました。詳細は省きますが、再入院の経緯においては、彼自身にも後悔があるとのことでした。あるとき講話の中で、「少年院でマインドフルネス指導を始めた頃は大変だったけど、今いる皆さんは熱心に取り組んでくれて私は嬉しい」と、彼を意識したコメントを投げかけてみました。すると、早速その日の感想で彼が応えてくれ、「オレもいつまでもバカはやってられない。前のオレはどうかしていた」と書いてきました。その言葉通り、彼は「改心」したようです。瞑想のやり方や、気づきの意味についても、分からないことがあると指導の場で手を上げて質問をしました。以前はトゲトゲして怖い印象がありましたが、再入院後の彼は笑顔も増えて、年も2才ぐらい若返ったようでした。日課だけでなく、自由時間の中でも自主的にマインドフルネス瞑想を行う姿が見られ、マインドフルネスは一番好きな活動と表現していました。(再)出院間際の感想では、「先生、前はすみませんでした」とお詫びまで添えてくれ、笑顔で出院していき、その後戻ってくることはありませんでした。
仏教で、仏門に入ろうと決意することを「発菩提心」と言いますが、マインドフルネスについても、「マインドフルネスは自分にとって必要だ」「自分のためにマインドフルネスをしよう」という決意がなくては、意味をなさないものだと思います。逆に、マインドフルネスに対する「発菩提心」、つまるところ「自分を変えたい」というモチベーションが生じることで、その人に対してマインドフルネスはよく機能し始めます。マインドフルネスは、あくまで自分自身の苦悩を減らすために、自分を変える(成長させる)ための手段なのだと言うことを、彼には教えてもらいました。
(2)「サルのように」落ち着きのなかった少女B
沖縄女子学園に入所してきたBさんは、おしゃべりで人なつっこい面はあるのですが、本当に落ち着きがなく、気分の波も激しくて一旦暴れ出すと手がつけられず、先生方も手を焼いていました。外部からの講師に対しては興味があるのか、気さくに話しかけてくれましたが、瞑想実践の時間になると、10秒もじっとしていられません。床にマットを敷いて半跏趺坐で瞑想をしましたが、すぐに足を組み替えたり、ボリボリあちこちを掻いていたかと思うと、次の瞬間にはいびきをかいて寝ていたりします。先生方もこの少女のために、当初はつきっきりで、声がけをしたりつついたりしていました。話を聞くと、発達障害の特性は小さい頃から表れていたようですが、それを適切に管理してくれる養育環境もなく、また周りの大人達からも暴力や搾取を受けてきており、社会に対する不信感も強く持っていました。そうした気持ちを受け止めながら、信頼関係を徐々に築いていくと、少なくともマインドフルネスには興味を示してくれるようになり、ミニワークには熱心に取り組み、講話にも積極的に質問等してくれるようになりました。そういう姿勢を認めつつ、瞑想中に動いたり寝たりすることについては目をつぶりながら、おおらかにマインドフルネスを伝えていきました。
「マイフルは面白いけど、瞑想はムリ」というフレーズが固定化しつつあった頃、いつものスケジュールを大幅に変更して、60分間瞑想の日を設けてみました。60分の間、一切教示も助言もしないしCDも使わない、寝ても動いても誰も何も言わないので、60分という時間を自分のために使ってほしいと伝えました。少年たちからは悲鳴が上がり、先生方も不安そうな表情の中、瞑想に入りました。私自身も瞑想をしながら、ちらっと目を向けると、30分後には多くの人がうなだれたり揺れたりしていましたが、彼女は無表情で微動だにしません。ついに60分、彼女は瞑想をやりきりました。私は感動して、「Bさん、60分全く動かずに瞑想していたね!」と声をかけると、周りが「えー!スゴい!!」と大騒ぎ。本人もやってやったぜという達成感の表情でニヤニヤしています。聞くと、みんなムリという雰囲気だったから、逆にやってやろうと燃えたとのこと。「やれば出来る!」この日を境にみんなの彼女を見る目が変わりました。
こうした、「達成感」を経て瞑想に対する姿勢が変わるケースは、少年院ではよく目にしました。瞑想は、CDや教示に従って「従属的に」行っているうちは、本来の効果を得られないように思います。自らの責任の中で、ありのままの自分に気づいて手放す練習を繰り返すことによって、自分を変えることではなく、自分に興味を持つこと自体の面白さが体験できます。それが、ヴィパッサナー瞑想の目的である「智慧の獲得」につながるのだと思います。その頃から彼女は、生活全般において、とても穏やかになりました。出院の時には、彼女は物静かに笑い、「敬語で」私に挨拶をしてくれました。落ち着きがなかったのは、ありのままの自分に目を向けるのが怖かったのかも知れません。思い通りにならない自分の特性、虐待、暴力・・・そんな環境の中で自身が経験していることに目を向けていたら、傷は益々深まってしまうでしょう。しかし、覚悟を決めて自分を受け入れたことで、彼女は親からも周囲の大人達からも学べなかった、新しい自分との付き合い方を見つけたのではないかと思います。それは、自分にも、他人にも優しく接するという付き合い方でした。
(3)3度の入院を繰り返したイケメン少年C
混み合ったモノレールに乗っている時、背の高いイケメンのお兄さんが駅から乗車してきました。向こうは「先生!」と声をかけてきますが、私はキョトンとしています。名前を聞いて「君か!?」と驚きました。少年院では出院直前まで丸坊主でおしゃれは出来ませんが、こうして社会に出て身だしなみが整うと全くの別人です。彼は場所も憚らず人なつっこく話しかけてきます。今はアルバイトを複数掛け持ちし、毎日働き通しで、これから向かう先ではバイトリーダーとして若い子達を指導する立場にあり、その子らの相談相手にもなっているとのことです。立派な好青年ですが、彼は私がいる間に2度ならず3度も入院してきた経歴を持つ「札付き」です。
彼は最初から、積極的に手を上げて質問をするタイプでしたが、1回目の入院の頃は、「なぜ先生はあのときの説明で噛んだのですか?」など、なぜそれを質問するのが分からないような質問や、揚げ足を取るような質問がほとんどで、若干扱いづらく感じていました。2回目の頃には、私が場を盛り上げようと話すマンガやお笑いの話に乗って膨らませるような質問やコメントをしてくれるので、私も助かっていました。3回目の入院当初、彼は明らかに恥ずかしそうにして、私と目を合わそうとしませんでした。それでも徐々に馴染んでくると、そこはマインドフルネスのベテラン。何度も聞いている話ですので、他の子とはレベルの違う、難しい質問をあえてして来たりします。「瞑想中、身体に気づくことと心の動きに気づくことはどちらの方が大事なのですか?」等。他の少年達にCが何度も入院していることを悟られるような返答は出来ませんので(皆の前で「さすが瞑想をたくさん経験しているだけあって・・・」なんてことは言えません)、「いいところに目をつけたね。」等とはぐらかしながら彼と周囲のバランスを取るのに苦慮しました。
そんな中で、彼が「マインドフルネスを極めるとどうなるの?」と質問をしてきました。マインドフルネスの学びにも段階がある、という話をすると、どんな段階があるのか知りたい、という話になりました。より深い理解を求める彼と、まだあまり深く理解していない他の少年達双方を満足させるために、私は「十牛図」を紹介しました。①尋牛(じんぎゅう)、②見跡(けんせき)、③見牛(けんぎゅう)、④得牛(とくぎゅう)、⑤牧牛(ぼくぎゅう)、⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)、⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)、⑧人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)、⑨返本還源(へんぽんかんげん)、⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)。それぞれの段階をできるだけわかりやすく説明し、全体に「今自分はどの段階にいると思う?」と問いかけると、③~⑨くらいまで、皆それぞれに手を上げてくれました。⑨と答えた少年に理由を尋ねると、「(⑨には桜咲く里山のイラストが添えてあるため)オレの頭の中にも花が咲いているから」とのこと。まあ、多くの少年の反応はそのようなものです。
Cの期待に応えて新たな資料を導入したことで、Cもまた真剣に向き合おうとしました。彼はしばらく考えた末、珍しくその場では回答せず、後日感想で、「自分は②だと思う。自分がダメなのはわかるけど、何がダメなのか、何を変えればよいのかわからない。」と書いてきました。素晴らしい自己認識です。同時に、彼が今抱える苦悩もその回答から伝わってきました。それから時折、彼は十牛図に準えて感想で質問をしてきました。「昨日、他の少年の態度にイラっときたんだけど、その時「あ、オレ今イラッとした」と気づきました。これって見牛ですか?」「まさにその通り。その時の気持ちを相手にぶつけず、今は落ち着いていられるなら、もはや得牛かもね!」のように、こちらも十牛図で応えました。十牛図を通して、彼は自分を対象化して観察することを、徐々に学んでいったようでした。
もちろん、十牛図は原始仏教の時代に作られたものではありません。ですが少なくとも、少年院の教育と十牛図は相性がいいようです。内省教育等を通して、少年たちは自身の中にある衝動性や欲求、怒り等を認識するよう促されます。それを「牛」に見立て、その影響を認識し(②)、その問題性を自覚し(③)、変容に取り組み(④)、自分で落ち着かせる術を見に付け(⑤)、社会に戻っていく(⑥)、というプロセスに当てはめると、イメージがしやすいようでした。
モノレールの中で、「十牛図だと今どのへん?」と尋ねてみました。「もう細かいことは忘れた」とのことですが、お店の後輩を指導するのに忙しくて、自分のわがままなんて言っていられない、と楽しそうに話をする様子から、「⑦忘牛存人くらいには達しているようだな」と持ち上げると、「いや仙人だろ(⑩入鄽垂手)」とのこと。モノレールを降りるとき、「マインドフルネス、今でもやってるよ。結構助かる!」嬉しくて泣けてきました。
6.マインドフルネスは少年達の行動を変える役に立ったのか?
私がマインドフルネス指導を行う前と、指導を開始してからの時期で、再入院率を統計的に比較してみたのですが、有意な差はありませんでした。残念ながら、少なくとも私が指導する範囲では、少年院におけるマインドフルネス指導が再入院を予防する、とは言えなさそうです。再入院の背景には、個人の知的・発達特性の影響もありますし、戻った先の環境の要因もあります。そうした要因の前で、私のマインドフルネス指導は無力でした。マインドフルネスは、万人に有効なわけでもありません。入院に際して、「周囲の人間に陥れられた」「被害者のせいで自分がこうなった」「今回は盗み方が下手だったので次はもっと上手く盗めばバレないはず」など、他責的であったり、自己への問題意識が乏しい少年に、マインドフルネスの意義の理解はまず見込めません。
それでも、何人かの少年には届いている手応えはありました。Aに限らず、そうした子には共通して、自分自身に絶望し、自分を変えることを欲する姿勢がありました。15分から時には60分もの間ただじっと座っているだけなんて、多くのティーンにとってはただの苦行でしかないと思います。なのにマインドフルネスは、少年院ではかなりの人気プログラムということでした。人を傷つけたり自分自身を傷つけたりして、少年院に入所せざるを得ない「苦悩」を抱えているということは、マインドフルネス実践に向き合う上で不可欠な素養なのだと思います。そして、泥の中からきれいな蓮の花が咲くように、苦悩の中から彼ららしく生きるための大切な智慧を見いだせるよう、指導者は諦めずに、粘り強く関わる必要があることを学びました。焦って行動のみを矯正するのではなく、Bの変化をじっくりと待てたことで機が熟し、Bもまたそれに応えてくれたのだろうと思います。そして、そうした少年らと指導者の心のコミュニケーションがあってこそ、マインドフルネス指導は上手くいくと思います。結局いつでもCは、かまってほしかったのだと思います。それに対してこちらが正面から応えたことで、彼もまた自分に向き合うモチベーションを得ることが出来だのだろうと感じる次第です。
マインドフルネス瞑想さえやっていれば、人の行動が変化するわけではないと思います。気づくというその「ツール」を、どうやってその人の中で活かせるよう仕向けていくか。そのために指導者は、一人一人をよく知らなくてはなりません。お釈迦様の仏教指導は「対機説法」と言われます。お釈迦様もまた、指導には相当苦労したのだろうな、と勝手に親近感を感じております。
7.引用文献
法務省(2021)令和2年版犯罪白書
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/67/nfm/n67_2_5_2_5_3.html (2023年10月28日現在)
西日本新聞(2021)「減る非行、消える少年院 岐路を迎えた集団での育て直し」Online記事 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/723938/(2023年10月28日現在)
Segal, Z. V., Williams, J. M. G., & Teasdale, J. D. (2002). “Mindfulness-based cognitive therapy for depression: A new approach to preventing relapse.” New York: Guilford Press.(越川房子[監訳]2007『マインドフルネス認知療法:うつを予防する新しいアプローチ』北大路書房)
写真:Simon Wilkes
第2回 マインドフルネスによるアスリート支援の経験から