アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「妄想が現れる理由」です。

[Q]

    瞑想中にいろんな妄想が出てくるのですが、なぜ過去や未来の妄想が出てくるのでしょうか?    妄想が現れる理由・法則というのはあるのでしょうか?

[A]

■自我の錯覚が妄想の土台


    それは観察すれば簡単に理解するでしょう。妄想が出てくる原因は執着・愛着です。私たちは過去の出来事や未来への期待、それから思考すること自体、そのように執着や愛着があるものが繰り返し頭の中、心で回転しているのです。執着・愛着というのは、基本的に「私がいる」という自我の錯覚がベース(土台)になって、その錯覚から妄想が生まれるのです。それには心理学的な理由があるのです。

■感覚に対して執着が生まれる

    私たちは眼耳鼻舌身意で、瞬間瞬間変化する現象しか認識していないのです。恐ろしい勢いで流れる無常のデータ(情報)を認識しているのです。データは色声香味触法です。データは瞬間で現れて、瞬間で消えてしまう。そこに認識する内容は何もないのです。しかし、瞬間瞬間に認識が生まれる時に、同時に感覚(ヴェーダナー)が生まれてしまうのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると感覚が生まれてくる。その感覚に対して執着を作るのです。この肉体に起こる感覚に対して、執着・愛着を作っているのです。データである色声香味触法に執着をしているわけではないのです。眼耳鼻舌身意に触れて現れる感覚に対して執着が生まれるのです。

■勘違いの連鎖が「私」という錯覚に集約される

    そこで勘違いして、例えば感覚から欲という執着が生まれたとして、次にその感覚を保持したいという心が生まれるのです。それは思考よりもはるかに速く起こる現象です。瞬間の心にすべての現象が起こっているのです。眼を例にとってみましょう。眼に何かデータが触れる。触れたデータはすぐに消えてしまったのですが、データが触れた瞬間に楽(心地良い)の感覚が生まれたのです。次の瞬間にその楽の感覚を保持したくなるのです。しかし、保持することはできません。無常なので楽の感覚も消えてしまう。そこで心がカラクリをするのです。「私」という錯覚を作って、すべてをまとめようするのです。私が見た、私が聞いた、私が嗅いだ、私が味わった、私が感じたとする。感覚から起きた執着をすべて、私という概念に集約してしまうのです。
    眼で認識した瞬間のデータから起きた感覚に執着を作ったのです。しかし、無常ですからその瞬間のデータや感覚を変化しないまま取り出すことはできません。そこで、意識の中で「私」という錯覚を作り上げ、同じ感覚を味わっている・保持していると思い込み、勘違いするのです。それから、さらに意識の中にだけある「私」という錯覚を守るために、妄想し続けるのです。ですから、相当おかしなことをしています。

■生きることを二の次にして「私」を守る

    心地良い(楽)感覚が生まれた時の愛着は、瞬間で消えるものだと理解しているならば、問題は起きない。その理解が無いから、同じ感覚を再び感じたいと欲する・求めるのです。感覚がずーっと続いて欲しいと思うのです。その愛着のせいで、すぐに感覚が消え去ることに困ります。すべての現象は無常ですから、個人の気持ちで感覚を止めることはできません。同じ感覚を再び感じたいという愛着(渇愛)が問題を起こします。無常を否定するのです。同じ感覚を再び感じられると誤解するのです。その上、そのひとつの間違いで終わらずに、自我の錯覚を作るのです。色声香味触法という感覚を惹き起こすデータが恐ろしく流れてゆくので、どんな瞬間にも、人に感覚があることになります。その感覚に、「私」というラベルを付けて、「私が」楽・苦・不苦不楽を感じているのだと誤認するのです。それから、「私」という錯覚を守るために必死になるのです。ですから、すべての生命は錯覚・幻覚である「私」を守るために必死になっているのです。その時点で、生きることは二の次になってしまって、一番大事なことは「私を守る」ということに変容してしまっているのです。私を守ることになると、恐怖感や怒り・嫉妬・憎しみなど、あらゆる感情や精神的な落ち込み・混乱などが限りなく現れてくるのです。それらが妄想として流れるのです。

■妄想のからくりは自己観察でわかる

    妄想が流れるのは、そのような仕組みから起こっていることなのです。このことは仏教心理学的・アビダンマ的に説明してしまうと、ややこしくて難しいのです。しかし、ヴィパッサナー瞑想をして真剣に観察をすれば、ものすごく簡単に妄想の起こり・流れの原因がわかります。自分自身で発見することができます。
    例えば「死にたくない」と皆が思っている。一般的にはその生存欲は良いことだと愚か者たちは思っています。「生きたい」「死にたくない」ということは、誰が死にたくないのですか?    答えは、私が死にたくないのです。例えば視力が衰えていくことには、そんなに恐怖感を持っていません。体力が衰えていくことも、全然気にしていません。当たり前だと思っているのです。たまに病気になったとしても平気です。そんなこともあると受け入れる。しかし、病気でも「この病気は治りません。進行が速いのでさらに悪化し、あと三カ月持つかどうか」と言われると、その時ものすごい恐怖感が現れてくるのです。ただ「ガンです」と言われても大した恐怖感は起こりません。次に「もしかしたら私は死ぬかもしれない」と考えた時、計り知れない恐怖感が生まれてくるのです。

■「私」を前提に考える限り「輪廻」は理解できない


    「私」という錯覚を作って、ずっとその錯覚を守りたくなっている。錯覚が壊れる・死ぬことに怖がっているのです。それは意味がないのです。錯覚ですから、最初からそんな「私」はないのです。存在すらしないものに、死や生まれ変わりなどあり得ないのです。ブッダが説く輪廻を皆、「私が死後、生まれ変わるのだ」と誤解しています。現実的に、「私」が錯覚であるならば、そこに生まれ変わりの概念も成り立たないのです。輪廻とは、現象が生滅変化して流れることです。私たちは、いまの瞬間でも生死を繰り返して輪廻しているのです。何かが消えると、何かが現れる。消えたものと現れたものは決して、同一で変わらないものではありません。大雑把に言うならば、花が消えると実が現れる。同一ではありません。しかし、生まれたものが消えたものとまったく関係ない、と言うこともできません。花が消えたら石が現れるはずはないのです。カボチャの花が消えたらリンゴの実が現れることもないのです。ここで、仏教の因果法則の理解が必要です。因果法則を無視して、輪廻を理解することは無理です。仏教は、「変わらない魂はあり得ない」「自我は錯覚である」「すべては無常である」と力説しながら、輪廻転生のことを語るのです。
    「私」という錯覚がある人に、輪廻の法則を理解することは難しいと思います。瞬間瞬間変化して消える六種類の感覚の流れに、「私」というレッテルを貼っているだけです。「私は死んだら生まれ変わるのか?」と訊かれても、いますでに「私」がいないならば、どう答えれば良いのでしょうか?「あなたが飼っているキメラは元気ですか?」と訊くような質問です。「元気です」と答えても、「元気ではない、調子が悪い」と答えても、答えは間違っているのです。ですから、「あなたは生まれ変わります」「あなたは生まれ変わりません」という二つのパターンも正しくないのです。正しい答えは、「因縁によって現象は生じては滅して絶えず流れるのだ」ということです。物質にも、こころにも、その切れない流れがあるのです。心の流れが物質の流れと一緒になったところに、生命と言うのです。

■渇愛とは複雑なカラクリの総称

    眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れると感覚が起きて、そこからプログラムがおかしくなっていくのです。因果法則として十二因縁にある「phassa(パッサ) paccayā(パッチャヤー) vedanā(ヴェーダナー), vedanā(ヴェーダナー) paccayā(パッチャヤー) taṇhā(タンハー),」(触に縁って受が生じる。受に縁って渇愛が生じる)という部分、この複雑なカラクリを「タンハー(渇愛)」というひとつの単語にまとめているのです。

■あくまで自己観察で知るべきこと

    自分で観察してみてください。自分は妄想をやめたいと思っている。妄想をやめたいのですが、妄想が起きてしまう。「なぜやめたいと思うのに妄想が起こるのか?」そのような見方で考察してみるとすぐに渇愛を発見できます。妄想は自分が好きでやっているということに気づくはずです。本当は妄想をやめたくないと気づくはずです。それは人によって様々な方法で観えてきます。発見するためのデータは皆、同じではありません。妄想をやめたくないと気づく人もあれば、過去の出来事に引っかかっているということを発見する人もいます。あるいは、自分がストーリー(物語)を作っていると気づく人もいます。自分で楽しくてストーリーを作っているのです。そのストーリーが妄想なのです。誰も正しく心を使うことはしません。観察をすればそのように様々な形で発見をしますので、「やってみてください」と言うしかないのです。一応、質問に合わせて説明しましたが、実践しない限り、理解するのは難しいと思います。

《では、執着が無くなれば妄想は消えるのですか?》

■妄想が消えてもストーリーを作る能力は消えない

    その通りです。執着がなければ妄想は止まります。ただし思考は残ります。妄想はなくなるのですが、ストーリーを作る能力は残っているのです。執着があって煩悩まみれの人が作るストーリーはすごく危険で、他人を破壊するストーリーや自分を持ち上げて褒め称えるストーリー・悲観的なストーリーなどあらゆる煩悩を引き起こさせる。執着がなくなった人が作るストーリーは、心を成長させるために教育上必要だから作るのです。人々にわからない・理解するのが難しいことを教えるために、何かストーリーを作って教えてあげるのです。仏典にもかなりのストーリーがあります。難しいポイントについて、ストーリーを作って教えるということは一般人には難しいのです。文学能力のある達人たちもいますが、何もメッセージがありません。ただ社会的なデータを集め材料にし、何かストーリーやキャラクターを作って語る。微妙にでも心の流れについて考察しているものはありません。まったくないわけではありませんが、文学賞をとるような作品でも、かなり研究はしていても大したメッセージはないのです。人類共通の問題について何かアイデア・メッセージがあるような作品は国際的にも認められますが、他の作品はすぐに忘れられて消えてしまいます。

■お釈迦様もストーリーを作る能力を最大限に活用した

    文学作品のようにストーリーを作ることも妄想ではないのかと思うかもしれませんが、それは何か目的があって意図的に作るストーリーなのです。とりとめもなく勝手に流れる妄想ではありません。いわゆるデータを組み立てる能力です。執着がなくなれば、その能力は人類に役立てるために使うのです。お釈迦様も説法の途中で突然「Bhūta(ブータ) pubbaṃ(プッバン) bhikkhave(ビッカヴェー)」(比丘たちよ、昔々あるところに……)と語られたのです。皆が昔の出来事だということでストーリーを聞いていたら、知らないうちに、とても難しい真理のポイントを学ぶことになったのです。
    仏教徒たちは、ジャータカ物語や仏典にあるストーリーを実際にあった話だと信じていますが、私は別に固く信じてはいません。私にとってはストーリーが教えるメッセージが大事だから、たとえ猿がしゃべろうが牛がしゃべろうがそういうことは気にしません。実際、「菩薩が牛として生まれてこのような偉大なことをしました」と言ったら、何か辻褄・整合性が取れないのです。
    そういうことで、人間は妄想して心が持っている能力を悪用し無駄に使っているのです。執着がなくなれば、妄想はなくなっても思考は残る。ストーリーを作る能力も壊れません。必要に応じてストーリーを作るのです。


■出典     それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編3 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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