アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「子供を管理したい」という感情についての相談にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    子供の幸せを願うゆえに「子供を管理したい」という感情が起こります。私が管理できないと子供は良くない状態になる、それは嫌だと思って怒りが出てきてしまいます。「どうして、あなたは~しないの?」「どうして、~してしまったの?」「あれほど言ったのに!」と、そのような感情はどうしたらいいでしょうか?

[A]

■自我が割り込んだら危険信号


    まだまだ修行が足りませんね。「どうして、あなたは~」と言ったところでもう怒っているのです。
    そうではなくて、慈しみで対応してみましょう。「あぁ、こんなことやっちゃうと不幸になってしまうのに」とか、「あなたが不幸になったら私が困りますけどね」などと諭せば、それは慈しみの言葉になります。
    例えば、お母(父)さんが子供に「あなたがこんな酷い点数を取っちゃうとお母(父)さんも本当に悲しいな」とか、「あなたが勉強すればお母(父)さんも嬉しくて楽しいのに」とだけ言えば、子供は「お母(父)さんが喜ぶんだったら、ちょっと頑張っちゃおうかな」と思うのです。
    「どうして、あなたは~」というのは、自分の我を出していることに他なりません。〝私があなたの幸福を希望している。それがその通りになって欲しい〟。これはあまりにも恐ろしい自我の押しつけです。世の中では自我は通じません。自我というものは存在しないのです。ただ、様々な現象が変化しているだけです。様々な現象が組み合わさって、新たな現象が生まれるのです。〝決して変わらない自我〟という代物はありません。
    心が変わっていく過程で様々な変化を一束にまとめたくなるのです。それが「私」という概念です。それから、その「私」という概念が、私たちを支配するのです。それが自我という錯覚です。自我の問題は修行すると発見するものです。しかし修行が完成するまで、人が不幸になっていいわけではありません。無理にでも自我が存在しないと仮定して生きた方が物事はスムーズに運びます。納得いかなくても結構です。自我を張る気持ちが起こるたびに抑えることです。

■愛着が親子を敵同士に変える

    「あの人はこうした方が幸せになる」と思って、その人にその方法を教えるならば気持ちよく受け入れてくれるはずです。しかし私たちが知っている世界では、他人のアドバイスを気持ちよく受け入れる人間は見当たりません。親子関係を見れば明確です。親ほど子供の幸せを願うものは存在しませんし、それは子供たちも知っているのです。しかし、子供たちがやることと言えば、いかにして親に逆らおうかと様々な対策を考えることです。それで危険な道に走る子供たちも現れます。
    なぜ、このような残念な結果になるのでしょうか?    子供の幸福を願う気持ちが強い愛着と合体しているからなのです。愛着は自我の錯覚から起こる現象です。言葉を変えれば、愛着とは「私のもの」という意味です。子供に対して愛着が現れると、子供が「私のもの」になってしまいます。子供は自立するために頑張っているのですが、自分の命が親の所有物にされているとわかった途端、強烈に反発します。相手が敵だと思ってしまうのです。愛着が強い親子関係は敵関係になってしまいます。慈しみはそうではありません。心配する気持ちも美しいものです。「他者とは自由に生きる人間である」という前提を受け入れるならば、本当の慈しみが現れてきます。親として子供に対する愛着を捨てて、慈しみのみを抱くことは難しいです。慈しみと愛着が癒着していますから。ですから、どんな親もしつけには失敗してしまいます。
    子供は「親は、私がやるべきことを言っているのだ」と知っています。言われなくてもやらなくてはいけないことだと知っています。なのに反発するのです。本当は親に反対しているのではないのです。親のことは大好きですが、自分は誰の所有物でもありません。それに反撃する気持ちが自然の流れで起きてしまうのです。子供の反発する気持ちを引き起こすのは親の愛着の感情です。その感情を戒めなくてはいけません。

■子供が落ち込んだら、思い切り愛情を注いであげる

    まだ、考えるべきポイントがあります。子供は自立しようと頑張っても、不安の多い社会に生きていて、自分の希望どおりに物事は行かないという嫌な経験を味わっています。しょっちゅう自信が無くなるのです。やる気を失うのです。その時、味方を探すのです。無条件で味方になってくれるのは親です。反発する割に、時々とても甘えたい気持ちで寄ってくるのです。その時は何の躊躇も無く「私の宝物だ。お姫様だ。王子様だ。世界一大好きだ」などなど、どんな戯けたことでも言って甘えさせてあげてください。そういう時に限って、愛着はそれほど悪さをしません。ですから、結論はこのようになります。「子供が落ち込んだら、愛情。普通にいる場合は、慈しみ」。
    親にとって、子供に対する愛着を慈しみから切り離すことは難しいので、自分の精神修行だと思って、自分の人格向上のためだと思って、慈悲の実践をしましょう。子供のために慈悲の実践をしてはいけません。自分自身の人格向上のために慈悲の実践を行なうのです。精神的に徐々に成長していくと、わが子のことも慈しみで観ることができるようになります。わが子も他人の子もそれほど変わりがないように感じてきます。
    毎日、子供にアドバイスをする場合は、自我の錯覚が割り込まないように、愛着が割り込まないように、気をつけなくてはいけません。それでも人間だから失敗します。怒りたくないのに、怒ってしまうこともあります。でもそんなに気にする必要はありません。気楽に頑張ればよいのです。むしろ、自分が怒ったこと、失敗したことに気づいて、何かを学び取った方が良いと思います。


■出典     それならブッダにきいてみよう: 教育編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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