〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)


〔ゲスト〕
早川智雄(福島県長宗寺)

松村妙仁(福島県壽徳寺)


慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載が今月から始まります。
歴史の時間に教わった日本仏教の各宗派がどのように始まって、宗祖はどのような方で、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経はどう違うのか。知っているようで、意外と知らない方も多いのではないでしょうか。
仏教は数千年の歴史がある思想で、私たちのルーツにも深く関わっています。また、仏教を学ぶことは、幸せに生きるための実践哲学を学ぶことであり、人類の大きな流れについて学ぶことでもあります。日本仏教の基本の「キ」から学んでいくことで、人間とは何か、生きるとは何かも見えてくることでしょう。
記念すべき第一回は「真言宗」です。早川智雄さん(福島県長宗寺)、松村妙仁さん(福島県壽徳寺)をゲストにお迎えしてお送りします。どうぞお楽しみください。

(1)お坊さんから学ぶ仏教の基本と未来


■一緒に仏教を学び直してみませんか?

前野    「お坊さん、教えて!」というオンライン講座が今日から始まります。私は司会を務めさせていただきます、慶應義塾大学の前野隆司です。第1回なので気合いが入っています。それから、一緒に司会進行をしてくださる安藤礼二先生です。

安藤    多摩美術大学の安藤礼二です。日本における新しい哲学と仏教の関係をずっと考えています。この講座でいろいろお話をお聞きできればと思っております。よろしくお願いいたします。

前野    「お坊さん、教えて!」は、新進のお坊さんたちから仏教の基本と未来について学ぶオンライン講座です。今日はその第1回で真言宗のお坊さんに来ていただいています。
    第1回ですので、最初に「お坊さん、教えて!」の趣旨をご紹介したいと思います。
    我々は日本に暮らしていますが、私のような普通の素人は、仏教について意外と知りません。真言宗は空海が作ったということくらいは歴史で学びましたが、どの宗派の祖師が誰であるかなど、言えない人も多いと思います。私も残念ながら試験のために丸暗記しただけでした。今思えば非常にもったいないことです。
    日本人にとって重要な「生き方の基本」が仏教の中にはこめられていると思います。仏教は宗教であり、幸せに生きるための実践哲学でもあります。であるにもかかわらず、それがあまり知られていない。じゃああらためて詳しく学んでいこうじゃないか、というわけでこの講座を開講することになりました。
    講座では各宗派について聞くだけではなく、今の若いお坊さんたちが何を考えているかという、お坊さんご自身にフォーカスした質問もしていきたいと思っています。

安藤    まさに我々にとって、一番身近で一番よくわからないのが仏教だと思います。仏教は宗教であると捉えられていますが、この日本列島では、哲学であると同時に、広い意味での芸術論としても重要な役割を果たしているのではないかと考えています。
    私はいま美術大学に勤めていまして、芸術と宗教という問題は、近代以降のヨーロッパでは(と断言してしまっていいのかわからないですけれど)、二つに切り分けられてしまっていますが、極東の日本列島ではおそらく切り分けられずに、かなり強固に結びついているようにも思えます。その結びつき、日本列島に住み着いて生活してきた我々日本人の根っこにあるものが一体何なのかということも、ぜひいろいろな角度からお聞きできればと思っています。

■ゲストのご紹介

前野    ありがとうございます。というわけで、さっそく本日のゲスト早川智雄(はやかわちゆう)さんと松村妙仁(まつむらみょうにん)さんのご登場です。では早川さんから自己紹介をお願いします。

早川    早川智雄と申します。福島県いわき市という中核市で、真言宗智山派の長宗寺(ちょうそうじ)というお寺の副住職をしています。今日私がお話することは、あくまでも現代の地方にあるお寺の僧侶から見た目線での話になりますので、過度な一般化はできないというか、私が言ったことがすべてそうであるとは限らないということを、事前にご承知おきいただけるとありがたいなと思っています。

DSCF2536-s.jpg 122.48 KB
長宗寺副住職、早川智雄さん(写真提供=早川智雄)
松村    同じく福島県の猪苗代町、真言宗豊山派(ぶざんは)壽徳寺(じゅとくじ)の住職を務めております松村妙仁と申します。たまたま福島県の真言宗のお坊さんが二人ということになりますけれども、早川さんとのお寺との距離は100kmくらい離れております。私も早川さんと同じく、仏教や真言宗の教えを、私というフィルターを通った一人称の話として、させていただければと思っております。よろしくお願いいたします。
壽徳寺_s.jpg 93.9 KB
壽徳寺住職、松村妙仁さん(写真提供=松村妙仁)
前野    智山派と豊山派ということですが、どういう違いがあるのでしょうか?    またそれ以外にも他の派が真言宗にはあるのでしょうか?

早川    真言宗は古義派と新義派に分かれていまして、古義派は、高野山真言宗様の系列です。一方、中興の祖覚鑁(かくばん)という方が興したのが新義派です。そこの流れが私たち智山派と豊山派です。ですから、皆さんがイメージする高野山に我々の本山はありません。たとえば、智山派の総本山は智積院(ちしゃくいん)で、京都にあります。

松村    豊山派の総本山は奈良県の長谷寺です。全国各地に長谷寺があるかと思いますけど、その長谷寺の大元です。長谷川さんという名字が始まったところとも言われています。

■本当はお坊さんになりたくなかった!?

安藤    お二人がなぜ僧侶になろうと思われたのか、そして僧侶になられて、ご自身の宗派の中で生活なさって、何を目指されていくようになったのか、そういうところから伺えるといいのかなと考えています。いかがでしょうか。

早川    私は早川家の3人姉弟の末っ子長男として生まれました。長男ですが、最初は継ぐ気がありませんでした。「お坊さんあるある」です(笑)。
    お寺に育つと、知らないおばあちゃんから手を合わされたり、「私が亡くなったら面倒みてね」と言われたり、そういうことがちょこちょことあるんです。ですから、子どもの頃から、悪いことはできないなという感覚はありました。
    しかし職業選択の自由がないということが、若い私には息苦しいところがありました。しかも父は市役所の福祉課に勤める公務員でもあり、悪いこともせず真面目でコツコツやるお坊さんらしいお坊さんだったもので、余計に自分は父のようになれないなと思っていたんです。
    それで海外に逃げようと思って高校卒業後にアメリカに留学したのですが、実際、日本を出てみますと何かやり残したことがあるという感覚がすごくありました。お寺を継いでほしいとずっと言われ続けてきたのに、それに立ち向かったことがなくて逃げている状態というのがなかなか辛いものだったんです。
    それで一度、自分が与えられている道に真摯に向き合ってみるべきではないかと思い、留学の途中で帰ってきて、日本の大学に入り直すことにしました。ただ、戻ってきてやるからには、自分の置かれている状況を、ちゃんと見据えてみたいということで、頼み込んで大学院まで行かせていただきました。
    私のところは、ご檀家さんが100軒くらいのとても小さなお寺です。一説にはご檀家さんが350軒くらいいないとサラリーマンの年収にならないと言われています。こういう小さいお寺がこの現代に存在する意味、小さいお寺というコミュニティの意味とは何なんだろうということが知りたくて、学生時代はコミュニティ研究の第一人者であった慶應義塾大学の金子郁容(かねこいくよう)先生のもとで勉強させていただきました。
    この道を歩み始めて、本当にこれは無理だな、というところまではやってみたいと思って今日もまた一歩一歩進んでいるところです。

前野    もしかして今でも、お坊さんをやめる可能性がゼロではないということですか?

早川    やめる可能性というか、「やめろ」と言われる可能性はあるかと思います(笑)。小さいお寺といえども法人なので、役員の総代さんから「もっといいお坊さんがいるから代わってくれ」と言われたら私だけではどうにもなりませんので、そのときはやめなきゃいけないかもしれません。自分が本当に倒れるまで、やれる限りはやってみたいなとは思っていますけど。

前野    松村さんはどのような経緯でお坊さんになられたのですか?

松村    私はお寺の一人っ子です。一人娘なので、ゆくゆくは婿養子をお迎えしてお寺を継ぐ、というプレッシャーが昔からありました。しかし父と母からは、お寺のことは考えずに好きなことをやりなさいと言われていたので、好きな音楽関係の大学に行って東京で就職をして、コンサートの企画や運営をする会社に勤めました。
    憧れの東京で自分の好きな仕事ができて充実していた2009年、父が亡くなりまして、2011年に東日本大震災がありました。会社に10年以上勤めて、ある程度好きな仕事をやれてこられたというのと、また新しいことにチャレンジしたいと思っていたタイミングでもありましたので、福島に帰ってお寺に関わることになりました。
191020_JTJ-0023-s.jpg 400.14 KB
会社勤めを経て壽徳寺に戻った松村さん(写真提供=松村妙仁)
    私自身もお檀家さんに育てていただきましたし、震災のときには東京にいて福島に対して何もできないもどかしさがありましたので、少しでもお檀家さんに恩返ししたい、福島に貢献したいという思いから、出家して、お坊さんの資格を取って福島に戻ってきたという経緯です。

前野    お二人とも、最初は反発して海外に行ったり音楽の道に行ったりしたのに、なにか引き寄せられるかのように戻って来られて、そして立派なお坊さんになられた。このストーリーが、やっぱり仏教の持つ魅力みたいなものなのですかね。


(2)僧侶と働き方


■お寺と経済的自立

前野    先ほどお坊さんあるあると仰ってましたけど、長男・長女なのにお坊さんはやらないぞ、と言ってお寺に戻ってこない人もけっこういるのでしょうか? それともけっこうみんな引き寄せられてお二人のようになるのが多くの道なのでしょうか?

早川    たとえば経済的に食べていけないお寺の場合、悩んで、やらないという選択をされる方はいらっしゃると思います。宗教年鑑をご覧になると分かりますが、住職がいるお寺の数は年々減少しているはずです。
    私のうちも妙仁さんのうちも兼業しなければいけない状況にありますけど、兼業も今の世の中では非常に難しいです。一昔前は、学校の先生がお坊さんだということもけっこうあったと思いますが、今は公務員をしながら兼業するということが事実上難しい。たとえばあるプロジェクトを任せたいけど、先生が定期的にお葬式で休むとなると、プロジェクトは任せられない、とかですね。ただでさえ、社会人として仕事することが大変な時代に、さらに別な仕事も乗っかっているのは極めて厳しいんですよね。
    また、お坊さんの場合は場所が固定されます。私であれば福島県いわき市の、この常磐という地域から移動して何かするというのはやはり難しいです。ですから、経済規模の小さいお寺さんは皆さん悩んでいらっしゃると思います。

PXL_20201030_212848733-s.jpg 793.46 KB
福島県いわき市に建つ長宗寺(写真提供=早川智雄)
    檀家さんの可処分所得が下がっていることは我々も重々わかっているので、お布施や会費をたくさんくださいということももう難しい。なので、そのへんも含めて日々悩みながら歩いている部分はあります。

前野    何も知らない素人から見ると、お坊さんは儲かっていて外車に乗っているというイメージがあるんですけど、それはほんの一部なんですね、きっと(笑)。

早川    たぶんそうだと思います。外車に乗った記憶はこれっぽっちもないですね(笑)。町の風景を支えているような小さなお寺さんは、おそらくいま私が申し上げたのと多少なりとも似たようなところがあるんじゃないかなと思いますね。

前野    お寺はまさに町の風景を支えていますよね。父のお墓のあるお寺に行きますと、緑が多くてほっとします。お寺は各町や村の大切なところにあって、コミュニティの核になれるにも関わらず、そういう存続に困ってらっしゃるということを聞くと、我々ももっとお寺を助けるというか、何かみんなで力を合わせてできないかという気がしますね。

安藤    自分のやりたいことと、お金を稼ぐために生活をするというのはやはり大変ですよね。私自身ももともと文章を書いて生活をしたかったのですけども、なかなか書くことだけを専業とするのは難しくて出版社に勤めていました。二人のお話を聞いていて、現代のお坊さんもそうなんだなと、あらためて目から鱗が落ちるように理解することができました。

■女性の僧侶は増えている

前野    もう一つお聞きしたいのは、松村さん、女性じゃないですか。仏教の世界では女性の僧侶が少ないように思うんですけど、どの宗派も男女平等で誰でも僧侶になれるのでしょうか?

松村    そうですね。平等ではないかもしれませんが、昔からなれたと思います。日本で最初に出家したのは女性だというふうに言われています。ちなみに、私が所属する宗派では資格を持っている女性の僧侶は全体の1割くらいだったと思います。住職を拝命いただいている方も、昔よりは多くなってきていると思います。
191020_JTJ-0062-s.jpg 684.63 KB
住職として壽徳寺を守っている(写真提供=松村妙仁)
前野    ほかの社会と同じで、少ないけれども、でも1割はいるということなんですね。私がいた機械工学科は、私の大学だと100人くらいのうち女性は1人でしたが、だんだん女性が増えて、いま慶應ですと3割から4割女性ですから、似たような状況ですね。
    今までお坊さんが仕事であるという感覚を持ってなくて、偉い人だ、拝む人だという感覚でいたんですけど、まさに男女の雇用の問題とか兼業の問題とか、普通に普通の人と同じ問題に直面されていることがわかりました。

■まわりの人々を笑顔にしたい

前野    お二人とも最初はお坊さんになりたくない、そう思ったところから始まっていらっしゃいますが、そういうところおから始められて、いまは何を目指していらっしゃるのでしょうか?

早川    私は震災以降にお寺に入りましたけど、人々に笑顔がなかったんです。地震の問題もありますし、原発の問題もありますし、笑顔になる要素がない。その中で思ったのは、大きなことを言って全体をどうにかするということよりも、私の働きかけによって、まず半径2メートルから人々を笑顔で朗らかにしていきたいなということでした。そして最終的には半径2万キロメートル、つまり地球全体を朗らかにするということを、その営みの中から目指していけたらいいなというのが今の私の目標です。
    朗らかにする方法はたくさんあって、仏教を伝えるのも一つですけど、現代の方は仏教の教えと距離があって日常生活とリンクしないと感じられている方もいらっしゃいますので、そこをつなぐような内容、たとえばアンガーマネジメントやマインドフルネス瞑想(マインドフルネスSIMT)によって、心の成長を感じていただきながら、段階的に少しずつ仏教の教えもお伝えして、最終的には本人が笑顔になって、周りも元気付けていけたらと思っています。自分も周りと一緒にそういう状況になって育っていけるといいなと思います。
半径2メートルイメージ-s.jpg 452.33 KB
「笑顔の輪をお寺から世界へ」という志を掲げて(写真提供=早川智雄)
松村    私自身も、周りの方がお寺とか仏教のつながりによって安心(あんじん)生活ができるための橋渡しができたらいいなと思っています。私自身が父を見送るという立場になったときに、葬儀というのは亡くなった方のためだけではなく、遺族のためのグリーフケアでもあると感じました。参列された方から故人の生前の様子を聞くことで、さまざまなつながりを知るきっかけにもなりますし、葬儀や法事の時間と共にすることによって私自身が救われたり、心が安らいだり、癒しになったりすることが多かったのです。今度は僧侶という立場で、そういったことを皆さんとご一緒に共有できたらと思っております。

前野    普通の人に「何を目指しますか?」と聞くと、「私は何をしたいです」と、「私」が主語になりますけど、お二人とも「みんなをこうしたいです」というお話でした。目の前の人を大切にして幸せにする、それをさらに大きなところまで広げていくというところに感激しました。
    しかし、もう少し「我欲」みたいなものはないんですか?    「私はこうなりたいです」というような。早川さんいかがですか?

早川    自分がやる活動で経済的に苦労しない状態にはなりたいです(笑)。でも思うんですが、やるべきことをやっているときって、見える形であれ見えない形であれ、助けをいただけたりするんです。ですから、その辺は前に比べて焦らなくなったというか、本当にギブアップしなければならない状況になったときに相談する先も増えていますし、今やれることが、やるべきことなんだなと思ってやっています。なるようにしかならないというか(笑)。

前野    松村さんもそうですか?  「私はこれになりたい」という感じではないのでしょうか?

松村    生きていく中で、大変なことや辛いこと、イライラすることは日常だと思います。それに対して自分がいかに豊かで穏やかになれるかを、仏教の教えや真言宗の教えを通して追求する。自分自身も日々研鑽して発見しながら、いろいろなことを考えていけたらと思っています。

前野    学んで成長していくというイメージですかね。なるほど、なるほど。

(3)密教とは何か(前編)


■空海ロックスター説

前野    真言宗というのは、いつ誰がどうやって作って、どのようにしていろいろな宗派に分かれたのでしょうか?    おそらく壮大な話なんでしょうけど、かいつまんで言うとどういう話なのでしょうか。

安藤    かいつまめないという話もありますが(笑)。

早川    そうですね(笑)、真言宗を作ったのは弘法大師空海です。空海は四国に生まれました。幼い頃から天才肌だったようです。空海は京都のほうの大学に行きます。その時代の大学というのは、官僚になるための学校です。しかし、大学で勉強してものの理(ことわり)を知っていく中で、空海は何か物足りない、もっと何かがあるはずだ、と思ってしまう。そして、謎の数年間かを経て、遣唐使として長安に向かい、師僧となる青龍寺の恵果和尚にお会いして密教を授かりました。
    空海は遣唐使として本来20年間中国にいなければいけなかったのですが、それを2年間に縮めて帰ってきてしまいます。その当時、国のお金で外国に行くということはとてつもなく大変なことでした。2年間に縮めて帰ってくるというのは本当は死罪になるようなレベルの話です。しかし空海は、「いただいた教えを日本に帰って広めなければいけない」と文にしたためて国に伝えます。そのような前例がなく、国もだいぶ困ったようですが、「日本には密教が必要だ、広めてほしい」ということで、そこから真言宗が始まることとなりました。

松村    空海は本当にスーパースターで何をやっても長けていたそうです。「弘法も筆の誤り」という言葉があるように達筆でいらっしゃるし、何をやってもできてしまう人だったと。留学した後も、ダム建設などの公共事業をやったりして、国も支える一方、身近な庶民の方にも寄り添って法を広めたりなどいろいろなことをなさったスーパースターだったのかなと思います。

壽徳寺_002-s.jpg 933.76 KB
福島県猪苗代町に立つ壽徳寺(写真提供=松村妙仁)
安藤    空海マニアとして少しだけ補足させていただきますと、空海は、日本で最も有名な「大学中退者」ですよね(笑)。もう一つは、『三教指帰(さんごうしき)』という強烈なフィクション、日本で最初に戯曲形式の小説を書いた人です。『三教指帰』はならず者の不良少年を、儒教の先生と道教の先生、それから仏教の先生が鍛え直していくという構成をもっています。不良少年のモデルはおそらく空海で、儒教の先生のモデルも空海です。空海は言葉の達人、漢文の達人でもありますので。さらに道教の山の中に入っている仙人、これも空海です。最後の仏教の先生は、仮名乞児(かめいこつじ)という、仮の名前しか持たず、救いをもとめて世界を放浪している、文字通りの乞食です。すべてを捨てて、異様な格好をして、いわばドロップアウトしたハードロッカーみたいな感じの、そういう人なんですね。その仮名乞児が、「お前たちはいま目の前のことしか考えていないけど、すべてはゼロ、「空」へと消滅してしまい、そこからまた新しいものが生まれてくるんだ」と諭す。個別の存在を超えてしまった世界の根源、そこに、あるいはそうした存在にたどり着かなきゃならないんだと宣言するわけです。仮名乞児はまさに空海です。
    空海は社会のあらゆる制度からドロップアウトして、世界を放浪するロックスターみたいな形で生き抜いて、なおかつ、宇宙の根源みたいなところにたどり着こうとした。格好いいんですよ。お二人を前にして私が言うのもなんですけども(笑)。そういう人が、真言宗の祖師なんです。
DSC_6436-s2.jpg 605.81 KB
安藤礼二先生(撮影=横関一浩)
早川    ほとばしる愛が伝わってきて嬉しくなりました(笑)。私も同じような感覚を抱いています。偉大な方なので、皆さんさまざまな見方をしていると思いますし、格調高く論じたものもたくさんありますが、安藤先生のそういう熱量で語っていただいたほうが、実像に近いんじゃないかと私も思います。
    空海は成功が約束されている大学をドロップアウトして、山にこもって修行して、金星が口に飛び込むとか、さまざまな経験をされたそうです。真偽のほどは定かじゃないですけど、そういう伝説が残るくらい愛されていた。今、世の中にある本がすべて100年後にも残っているかと言ったら、そうではないじゃないですか。でも空海に関してはさまざまな情報が残っている。そこまで残るということは、それだけインパクトのある方だったことは間違いない。相当ロックだったんじゃないかなと私も思います。

松村    そうですよね、たぶん相当な変わり者であったのは確かだろうなと思います。でもただ変わり者であるというだけではなく、本当に愛されるキャラというか、キャラと言ったら失礼ですけれども(笑)、ぶっ飛び過ぎているけれども、とても優しくて包容力があって、天皇からも、集落の農民の方からも、誰からも愛される方だったのだろうと思います。

安藤    『阿・吽』(小学館)という漫画がありますね。空海と最澄を主人公にして描いている漫画です。本当にスーパースター同士の戦い、戦いと言ったら失礼なんですけども、宿命のライバルというような感じの二人です。同時代に生まれて、同じ方向を目指しながらも、途中からまったく異なった道を歩んでいく。しかも最澄と空海の両方とも、日常生活をいったんスパッと断ち切って、自分の身一つになって険しい山をはじめとして、さまざまな場所に大胆に這い入り(二人とも同じ船団に乗り組み唐に向かいます)、真実を探求しようとするのです。私は芸術が専門なのですが、日本の芸能といったものも、おそらく最澄と空海の二人の生き方、二人がもたらしてきてくれたものが一つの大きな基盤になっているように思います。
aun_IMG_2878-s.jpg 153.28 KB

『阿・吽』(小学館)最澄と空海の生涯を描いた名作だ
    スターというのはやはり、自分を無にすることで多くの人々と共振ですることがきる、そういう資質が必要なのかなということも感じています。僧侶というと何か堅苦しくなってしまいますけど、空海の生涯や思想にはロックスター的な、芸能的な表現や哲学、そういった可能性が秘められていて、それらを全面的に解放した人と、私は素人なりに考えています。

(4)密教とは何か(中編)


■真言は日常語とは違う

前野    空海が中国で密教を授かったというお話がありましたが、密教とはどのような教えなのでしょうか?

YOK_6033-s.jpg 584.31 KB
前野隆司先生(撮影=横関一浩)
早川    「真言宗」という名前に現れているように、真言宗では言葉をとても大事にします。しかし真言というのは我々が普段喋っている言葉とはちょっと違うんです。仏の発している言葉であるマントラ、それを含んでの真言なんですね。
    仏教というと、一般的にはお釈迦様が伝えた教えというふうに考えますが、密教では、お釈迦様というのは実は大日如来という宇宙全体を体現するエネルギーの根源、それの一つの形であると考えます。大日如来を人間の言葉を使って人間に説いた一つの形であるというふうに考えるんですね。お釈迦様は当然尊いのですが、そこが一番というよりは、そのさらに根源があって、その根源自体が教えを発しているというわけです。
    その教えを、真言という独特の呪文のようなもの、陀羅尼(だらに)などで受け取るんです。音のみならず、ビジュアライズされた形(曼荼羅)などもあります。我々人間が、なんとか宇宙全体の根源に触れようと試みているのが真言宗のやっていることだと私自身は理解しています。
    だから、真言宗の場合、理路整然とした言葉で理解できる部分というのは全体の中の何割かであって100%ではありません。真言というのは、言葉だけれども、我々が喋っている日常語とは本質的に違う言語です。その詳しい中身は、実はお師匠様から直接伝えてもらうというスタイル(口伝)をとっているので、知りたかったら、密教の僧侶になってもらうしかないんですね。

■即身成仏

早川    もう一つのキーワードは即身成仏です。「この身このままで、この肉体をもって成仏できる」ということで、その心は、我々自身も大日如来とまったく同じものだという発想です。修行を積み重ねた結果、何かになるのではなく、すでに私たちがイコール大日如来だという考え方をします。ただ私たちは日常それに気づいていないので、それに気づくためのさまざまな方法があります。基本的には加持(かじ)をして、気づく瞬間を作っていきます。
    しかし大切なのは、何かをしなければなれないのではなく、「あなたはすでに仏なんだよ」という考え方です。すでにそうであると。そういう存在として、我々は世界を生きなくてはいけないんですね。
    仏の目線をもって日々を過ごしてみたらいろいろなことが変わります。仏として、どうやって生きるかが試されているんです。

前野    これは真言宗だけがそうなんですか?    真言宗だけが「あなたはすでに如来である」という言い方をするんですか?

早川    他宗派のことは詳しく分かりませんが、おそらくそうだと思います。即身成仏というのは、真言宗がお伝えしていることだと思います。

松村    仏様と同じようなものを我々も心の中にも持っているけれども、それが煩悩でちょっと曇ってしまっている。だから、煩悩の中にあるキラキラ輝いた仏様の光を磨いていくということが修行で大切である。まずは仏様の光を持っているのを自覚するということが大切なんですね。それが真言宗の教えです。
2019.9.29_0044-s.jpg 427.18 KB
仏教コンサートにてお経についてお話する松村さん(写真提供=松村妙仁)
早川    真言宗は否定の宗派というよりは肯定の宗派なんですよね。『理趣経(りしゅきょう)』の中にもありますが、基本的にはオッケーなんです。オッケーという肯定の立場で、オッケーなんだけど、だからこそみんなでもっと世の中をよくしていこうという、意志を乗せていく大人の対応が求められる宗派です。何がダメだから我慢しよう、じゃなくて、皆さん仏だしそれはオッケーなんだけど、だったらなおさら慈悲と智慧をもってよくしていこうということを説いていく。オッケーだからこそみんなでよくしていこうね、というところが私はとっても好きです。

前野    ブッダは大日如来の現れであるというのが、キリストと神と精霊の三位一体の思想と似ていると思ったんですが、歴史的に何か関係があるのでしょうか?

安藤    私は出版社で働いていたときも、自分で文章を書くようになってからも、神道や仏教といった伝統的な教えをもとに近代日本思想を刷新してしまったような表現者たちが好きで、近代仏教の分野では、これまでに南方熊楠や鈴木大拙について自分の書物をまとめてきました。南方熊楠は真言密教、大拙は臨済宗の教えから大きな影響を受けています。この二人が、二人とも、いま話題に出てきました法身、つまり大日如来(宇宙の根源)という存在を重視し、それが東方仏教(Eastern Buddhism)の基盤になるんだと言っています。サンスクリット語で書かれたインドの仏教、釈尊の仏教を研究したヨーロッパの文献学者たちは、日本の仏教、東方大乗仏教は人間ブッダじゃなくて、人間ブッダを生み出す宇宙の根源、法身のほうを重視しており、それは正統的な、オーソドックスな仏教理解からすると異端に近いと批判していますが、南方熊楠や鈴木大拙、彼らの師匠たちや友人たちは、逆にそこにこそ可能性を見いだしていきます。心の中に秘められた法身と一体化することこそ、大乗仏教を土台に、その上で、心理学や生物学など近代の科学を一つに総合することを可能にする、と。
    キリスト教と関係あるかどうかは、ここで断言するには問題が大きすぎますが、真言宗は何かこう、いわゆる人間中心ではなくて、自然そのもの、宇宙の根源みたいなものを中心とした教えである。そういうふうに理解してよろしいでしょうか。

早川    そうですね。生きとし生けるものだけでなく自然、無機物も含めて仏性があると言っているのは、日本に渡ってきた大乗仏教だけです。上座部仏教は自然を想定していないと言われます。日本まで渡ってきて初めて、そういうようなものが胎蔵界(たいぞうかい)の中の曼荼羅にも入ってきます。
    そういうダイナミックさは、SDGs が重視されるような現代の環境の中でもとても大事な考え方になり得るんじゃないかなというふうに思っております。

(5)密教とは何か(後編)


■自然・無機物も成仏できる

前野    チベットにも大乗仏教がありますよね。タイなどは上座部仏教ですが、仏性があるというのはチベットの大乗仏教にも上座部仏教にもなくて、日本の大乗仏教だけにあるものなのでしょうか?

早川    自然に仏性がないという話です。

前野    自然にはですね。あ、そっかそっか。

早川    基本的に感情があるものは学ぶことで悟れる。感情がないものは悟るチャンスがない。ですから、上座部仏教や胎蔵界がない宗派ではあまりそういう話は出てきません。昔の高僧が自然に思いを馳せて、仏性の範囲を広げていったというのは、とてもダイナミックな展開なんじゃないかなと思います。もし釈尊の言ったこと以外はまったく意味がない、と言ってしまったら、その瞬間から、そういうような発展は見込めなかったと思いますね。

前野    チベット仏教やブータンの仏教で、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というときの「生きとし生けるもの」に植物までは入っていそうなイメージがあったのですが、じゃあウィルスはどうなんだ、という話もありますし、「生きとし生けるもの」と言っている限りは、やっぱり鉱物とか土とか空気は入ってないということになるんですかね。

早川    私が本を読んだ限りでは、チベット仏教の場合、胎蔵界はあまり重視していないので、おそらく感情を起こすようなある程度高等な生き物を前提にされているんじゃないかと思います。

前野    じゃあ植物は入らないということですかね。

早川    大分、そこにこだわりますね、前野先生(笑)。

前野    私、植物とか森が好きなんで(笑)。米粒にも神が宿るみたいな、神道的な考え方と日本の仏教は、もともと融合していた時期もあったわけですから関係しているのですかね。

早川    関係は何かしらあると思いますけどね、はい。

安藤    空海が生まれたのは774年、『古事記』が編纂されたのは712年、『日本書紀』は720年と、ほぼ同時代なんですよね(いずれも定説でもちろん異論もあります)。『日本書紀』の中には、神道的な「神がかり」や、さらには、聖徳太子が『法華経』と『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の講話をしたというエピソードが載っています。『法華経』はまさに天台宗の基盤となった教えです。『勝鬘経』というのは勝鬘夫人(しょうまんぶにん)という女性が、まさに今日お話いただいたような「すべてに如来が宿っている」という如来蔵の思想を説いたものです。空海が生まれる前に、神仏習合はすでに形を整えていたと考えることも可能です。「神がかり」に代表される神道的、つまりはアミニズム的な感覚と、空海や最澄が確立することを目指した日本的な仏教、東方大乗仏教はきわめて近しいというか、そのように考えていくとわかりやすいように思います。すみません、また勝手なことを申しまして(笑)。

前野    世界を旅すると、砂漠やアメリカの西海岸は乾燥しているんですよね。それに対して日本は湿潤な気候ですから、1平方メートルの中にいる動植物や菌類の数がすごく多い。そういう点でも、動植物とかあらゆるものと共にいるという感覚を、神道でも仏教でも抱きやすかったんだろうなと思います。自分もそういうものの一部なんだというふうに感じますね。

安藤    空海は四国の険しい山々を経巡(へめぐ)っていきます。石鎚山、大滝岳、そして室戸岬に出ます。室戸岬は、いくつかのプレートがその先で衝突している場所なのです。つまり大海から大陸が生成してくる痕跡が残されているんですよ。あそこに立つと、目の前には海と空しかなくて、しかもその海と空の間から大地が隆起してきている。まさに自然の運動そのものを目にすることができます。無機物ですよね。地球の運動そのものが、大地をはじめ、あらゆる「もの」を生み出している。そうした世界の持つ運動性とそのまま一体化できる特権的な場所です。私、室戸岬が好きでこれまで2回数日にわたって滞在したことがあります。好きで2回というのは少ないんですけれど(笑)。無機物さえも、大地の運動さえも生命を持っていて、それと一体化できる。そういった感覚、体験がありました。空海がもたらした即身成仏の教えも、そういった感覚に近いのではないかと素人考えではありますが、思いました。

早川    三密(さんみつ)もそうですけど、真言宗は自分が仏と一心になって同化していく学び(まねび)の仏教だと思います。日本にはもともと自然からさまざまな力を得ているという考え方が昔からありました。空海も、唐に渡る前の修行期間に山伏と同じようなことをしたりして、自然に触れる自分の楽しさのようなものを『性霊集(しょうりょうしゅう)』という歌集にまとめています。自然との豊かな交流みたいなものはすでに素地としてあって、そこから深めていく中で、そういうものの重要性が確信に変わったのではないか、日本に生まれた人間が学びを深めていく中で、当然通らざるを得なかった結果なんじゃないかなと思いますね。
それは日本人とはなんぞや、という問題とも直結しているのではないかと私は思います。日本人から自然を抜いてしまうと日本人ではない感性になってしまうというか。そのあたりが安藤先生が仰っていることと重なっているのではないかと感じております。

■三密の修行

前野    先ほど仰った三密というのは何ですか?

早川    身口意(体・口・心)の3つのことです。「身密(しんみつ)」は身体活動、「口密(くみつ)」は言葉、「意密(いみつ)」は心、信心の部分です。いずれも日常活動の中で使っているものですが、自分が仏だとしたら、仏として自分はどのような態度を取るべきかと考える。たとえば身体活動であれば、なるべく笑顔を取り入れて、和顔施(わがんせ)で接する。仏であったならば、きっと優しい温かい笑顔をもって皆さんに接しますよね。言葉であれば、愛語、優しい言葉を使うようにする。意密に関しては、ありがたいという感謝の心であったり、相手に共感して慈悲を向けるというような心持ちを実践する。そういったことができると思います。どのような状況でも常に自分が仏とイコールなんだという心持ちを持って行動に活かしていく。それが無相の三密です。

松村    今は違う3密(密閉、密集、密接)のほうが聞き馴染みがありますけれども(笑)、もともとも三密の最終的な目標は即身成仏です。即身成仏というと亡くなった後のことのように思われがちですけど、そうではなく、この世でも仏様のように穏やかに過ごすことができる。自分の行動や言葉、心の動き次第で仏様にもなれるし、そうでもなくなってしまう。だから、三密のその修行を重ねていくことが大切である、そういう教えです。
    お坊さんが行う修行だけが三密ではなくて、普段の暮らしの中でも身口意の修行を重ねていくことで、仏様のように穏やかな生活、豊かな実りある毎日、well-beingな毎日を過ごすことができます。特に今のようなコロナの状況下で、三密はもっとも大切なことではないかと思いますので、ぜひ取り入れていただきたいなと思っています。

200602DME-0083-s.jpg 560.7 KB
本堂でおつとめをされる松村さん(写真提供=松村妙仁)
早川    三密を一般の方の日常に活かすとするならば、無相の三密ですね。三密には有相の三密と無相の三密があります。有相というのは宗教的な実践ですね、我々僧侶が実際お寺の中にこもって印を組んで陀羅尼を唱える、そういった実践です。そうではないのが無相の三密で、日常生活の中でも意識して取り入れることができると思います。

(6)真言宗の修行とその後の生き方


■悟っているからこそ生き方が問われる

前野    真言宗では悟りという言葉は使わないのでしょうか?    自分の中にある仏に気づくという状態と悟りは同じなのかなと思ったんですけど。

早川    だと思いますね。悟るために修行をするのではなく、すでに悟った状態である。すでにその状態だから、そこから何をするかが問われているということです。

前野    性善説とニュアンスが似ていていますね。人間というのは素晴らしい、大日如来のようなものなのであるという究極の性善説からスタートする。であれば当然、立派な人にもなりたいし、親切な人にもなりたい、そのメカニズムなのだなと思いました。
    実は私、ある本の中で、「人間万能仮説」という仮説を書いたんです。これはサイエンスとしては単なる仮説なんですけど、人間って我々が思っている以上にもっと万能なんじゃないか、と。みんななんかこう、自分を小さくして現代社会に生きるために殻をかぶっていますけど、それを外せば万能なんじゃないか、みんなすごいポテンシャルがあるんじゃないかと。その極限が真言宗ということなのですかね。

早川    そうですね。真言宗ではあまり否定はしないんです。どうあってもそれが人間である、世の中の理の一つであると認める。だけど、大日如来の状態に戻ってあらためて見つめて、自分はどうしていきたいのかということが問われる。大人の判断が求められるんです。常にどうありたいのか、どのような仏でありたいのかと自分自身に問い続けることを常に求められている、そういうものだと私は考えています。

■曼荼羅と阿字観瞑想

安藤    今の三密のお話、とても印象的でした。もう一つ空海が確立した真言宗の持つ大きな特色に曼荼羅があると思います。三密は曼荼羅のような芸術表現に密接に関係しているのではないかと私は思っているんですけれど、そのことについて、何かお聞かせいただけますでしょうか。

早川    真言宗は、実は言葉を尽くすよりも、体験が重要な宗派であると思います。我々は陀羅尼を唱えたり、それこそ仏になりきるためにさまざまな印を組んだりしていますが、さらに曼荼羅をじっくり眺めて、自分がそこで何を感じるかということと向き合ってみる。曼荼羅(阿字曼荼羅)の前で瞑想することを阿字観瞑想(あじかんめいそう)というのですけれども、そういった実際の行動によって何が自分の中で生まれるかという体験を通して成長していく。そいう過程を経ないと素晴らしさが伝わりずらい宗派であると私は思っています。

早川智雄@阿字観瞑想(横)-s.jpg 483.81 KB
曼荼羅の前で阿字観瞑想をする早川さん(写真提供=早川智雄)
    言葉を用いてお話すると、実は本質的なものとどんどんずれていってしまうんです。言葉でいくら語っても、実際やらないと意味がない。ですから皆さんももし機会があれば曼荼羅の前に行ってみて、見て何を感じるのか、なぜ自分はそう感じるのか、そういうことと向き合う時間を持っていただけたら、私が語るよりも何十倍、何百倍も実りの多いものがそこに生まれるんじゃないかと思います。

松村    曼荼羅にはたくさんの仏様が描いてあります。すべてでひとつの仏様でもあり、一尊一尊も仏様です。私たちも大きな曼荼羅という宇宙の中にいます。互いに無限のつながりがあって、その中にいる。それは言葉ではわからないというか、言いようがない。それを曼荼羅で表現しています。だから早川さんが仰ったように体感していただくのが一番だと思います。
    曼荼羅には仏様だけではなく、神様なども描かれています。京都の東寺などには、立体的な曼荼羅もあります。曼荼羅を見ていただくことで、真言宗の仏様の世界を体感していただくとよいのかなと思っております。

安藤    東寺には光り輝く如来たちがいる一方で、他方には真っ黒い明王たちがおりますよね。あのように強烈な不動明王のような存在も、曼荼羅を構成する重要な一つというふうに考えてよろいしいのでしょうか? 明王たちを見ると恐怖と同時に、強烈なパワーを感じます。曼荼羅の前に立つと、宇宙と一体化するという幸福と同時に、ある種の破壊に満ちた強烈な力を感じます。そのあたりについてお話を聞かせていただけるようなことがあれば、ぜひ。

早川    パワー自体には良いも悪いもない。だから、大日如来の現れの形がご不動様の形をとることもあれば、阿弥陀様の形をとることもある。すべての世界の形の現れなんです。どれも等しく仏なんだというところが、密教的な面白い部分です。自分が寄り添いたい仏は、状況によっても違っていたりするんですよね。さまざまな仏を観ることで、自分が仏であるということに対する親近感もわいてきます。
    曼荼羅には本当にいろいろな仏様がいろいろな形でいらっしゃいます。でも誰一人として欠けることがあってはならない、すべてはそこにある必要があるというのが大前提です。見ていただくと、なぜこの人はこういう形でいるんだろうか、という疑問も含めて、世界の理、世界の不思議さを感じて楽しむことができるのではないかと思います。

前野    曼荼羅が出てくるのは真言宗だけなんですか?    それともほかの宗派にも出てくるんですか?

早川    たぶん天台宗さんも密教なので出てくると思います。

前野    密教には出てくるのですね。

早川    我々が普段イメージしている曼荼羅は、実は日本でさらにダイナミックに変化しています。「これも曼荼羅と定義されるのか」みたいなものまで含まれるんですよね。普通の掛け軸みたいな、そういうような曼荼羅もあったりですね、日本のダイナミックさというのがそういうところにも見てとれると思います。

安藤    先ほど阿字観瞑想と仰いましたが、阿字観の「阿」というのは、サンスクリット語を構成する最初の言葉です。ですからいわゆる言葉の母であり(すべての子音の基本形はすべて「阿」とともに発音され、表記されます)、最も重要な語ですね。と同時に、アトピー皮膚炎の「ア」と同じで、否定の言葉でもあるわけです。ア・トポスはどこにもない場所、ユートピアの語源です。肯定と否定、始まりと終わりがそこに集約されています。阿字観瞑想というのは、そういった特別な言葉を観想する、つまり瞑想するというふうに考えてよろしいのでしょうか?

早川    阿字観瞑想はイメージを膨らませるタイプの瞑想です。掛け軸に「ア」という梵字があって、それから蝋燭の火があったりして、自分の中で大日如来と一体になっていく作業をしながら、宇宙の広がりを感じてまた戻ってくる。大日如来と私が同じ存在なんだ、ということを体感して戻ってくるという瞑想ですね。
    真言宗ではさまざまなシンボルを見立てていくんですよね。仏様の形もそうですし、それを表すような梵字もそうですし、曼荼羅もそうです。自分が一番イメージしやすいもので入っていく。バラエティーが豊かすぎるので、逆にわかりづらいところがあるのですけども、何もないところでただただ座って自分と向き合うという座り方のスタイルではなく、感覚的にこれが仏様と同じなんだということがイメージできるアイテムを使いながら、イメージを膨らませて一体化していきます。
阿字-s.jpg 898.3 KB
阿字(写真提供=早川智雄)
松村    「ア」というのは大日如来を表した梵字ですので、それを観想するということは自分の中にいる大日如来を感じたり、大きな大日如来の中の自分を感じたりするということになります。
200602DME-0145-s.jpg 557.97 KB
護摩修行する松村さん(写真提供=松村妙仁)
安藤    字の中にも仏様がいるし、ものの中にも仏様がいる。同時に自分たちの中にも仏様がいて、そういったようなものがすべて通じ合っている。そう言ってしまうとやや単純化が過ぎてしまうかもしれませんが、字を一つイメージするだけでも、そういう世界に入れるというふうに理解してもよろしいのでしょうか?

早川    重々帝網(じゅうじゅうたいもう)という言葉があります。何一つ関係しないものはない、お互いさまざまに関連し合ってそれぞれを映し出しあっているという意味の言葉です。大日如来というのはすべての宇宙の根源ではありますけども、その現れがさまざまなところに現れている。それに気づくための修行が三密の修行であり、阿字観瞑想です。ただ、日常の中のさまざまなところで、大日如来の現れは常にありますので、そういう修行をしなくてもふと気づく人はいるのかもしれないなと私は思っています。

(7)修行は続くよどこまでも


■修行から始まるお坊さんへの道

前野    真言宗のお坊さんになるには、どんな修行をどれくらいすればなれるのでしょうか?

早川    どのようなバックグラウンドか、あるいは仏教大学に行っているのか一般の大学に行っているのかでも違いますが、私の場合は一般の大学に行きながら研修所に通って、御山で修行して本山でも研修を受けました。山にこもる56日間の修行もあります。私は春休み、夏休み、冬休みなどの長期休みを全部それに当てて2年間でなんとか終わったという感じでした。
    修行は、いきなり受けさせてくださいと言って受けられるものではなく、まずはお師匠さんを見つけて、段取りを踏む必要があります。そこのハードルが少し高いかもしれないですね。

前野    56日というのはきついんですか?    それとも楽なんですか?

早川    私にはきつかったですね。私は修行道場で56日間加行(けぎょう)しましたが、2日以上連続で休むと、また一からやり直しなんですよ。

前野    ええっ!

早川    たとえ54日目まで進んでいても、そこで2日休んだらまた1日目からやり直しです。基本的に外と交流もできなくて、たとえ親族が亡くなっても基本的には出られない。そういうところで指定の行を56日間、段階を踏みながらやっていくわけです。

CA24001T-s.jpg 59.39 KB
56日間加行の様子(撮影=早川智雄)
前野    なるほど。妙仁さんも一緒ですか?

松村    だいたい一緒です。まずはお師匠さんについて出家得度して仏門に入ります。そこからさらに住職になるための教師という資格を取るために、本山に2年間寮生活で入って修行をします。社会人の方でしたら夏休みと冬休みなどを使って2週間ずつ2年間勉強をします。それ以外に修行道場に入って実践の修行も行います。宗派で指定している大学に入って学問の勉強と修行を重ねて資格を取るという方法もあります。いくつかの方法がありますが、だいたい2年くらいは修行の期間が必要かなと思いますね。
壽徳寺_s.jpg 93.9 KB
教師の資格を取り、壽徳寺住職をつとめる松村さん(写真提供=松村妙仁)
■「悟ったら終わり」ではない

前野    超素人質問で答えにくいかもしれないのですが、「俺は完全に大日如来だ!」というのを100点だとして、2年間の修行の最後に何点くらいとると合格なのでしょうか?    すみません、大学で教えていると合格、失格みたいなところが気になってしまって(笑)。また、お二人は今、悟りの100点満点でいうとどのへんなのでしょうか?    そんなこと答えるものじゃないんですよ、という答えなのかもしれませんけど。

早川    悟りの定義にもよると思うんですけど、悟ったらもう終わり、ではないんです。「あ、悟れた」と思っても次の瞬間には凡夫に戻っている場合もある。悟ったからもうやることがない、ではなくて、その状態をキープしつつ何ができるか、というのが大事です。
     悟ったかどうかというところだけをずっと見ていたら慈悲も発揮できずに人生が終わってしまうんじゃないかなと思います。特に大乗仏教の場合、己の悟りばかりに目を向けるよりは、周りの衆生と一緒にやっていくことがメインですので、悟りばかりに目を向けないという傾向が強いと思いますね。

松村    2年間の修行はスタート地点に立つための修行です。その後、実際に自分がお葬式で御導師様という立場をいただいて亡くなった方を仏弟子として自分が送り出す立場になって、本当の修行が始まるといえると思います。いろいろ悩みながらご縁を広げながら、次の世代にも教えをつなげられるように、法灯をつなぐなんていうふうにも言いますけれど、していく。そのように日々修行がずっと続いているという感じです。
2019.9.29_0090-s.jpg 570.01 KB
お寺とのご縁のきっかけづくりの様子(写真提供=松村妙仁)
前野    高野山に行ったときに、空海は今も修行しているんだ、というふうに聞いたんですけど、空海さんも我々と同じように学びを続けているという考え方でいいのでしょうか?

松村    瞑想して学びを続けていらっしゃるのと同時に、私たちの安寧を祈ってくださっている。ずっと瞑想してお祈りして、お守りいただいているという存在ですね。

安藤    一人で孤独に悟りに入る人を縁覚(えんがく)、釈尊の教えを聞いて悟る人を声聞(しょうもん)といいますが、そうではなくて菩薩として、要するに自分も仏になる途中なのだけれど、利他の精神で他者と共に生き、他者と共に悟りを目指すという、菩薩の仏教が日本仏教の大きな特色として抽出することができると聞いたことがあるのですが、そのような理解で間違いではないでしょうか?

早川    まさしくそうだと思います。

■日本人には仏の素地がある

前野    私、実は無神論者でして、科学で説明できない何か不思議なものというのはないんじゃないか、もしあるとしても科学で説明できるのではないかという立場に立つサイエンティストなので、すべてサイエンスで心の働きとして説明がつくんじゃないかと思っているんですよ。別に信じる人を否定するわけではないですけども。
    私は今日、お話を伺って、大日如来が自分の中にある、慈悲に溢れた素敵なものが人間の中にはあると考えると、それだけ人々が共に信じ合って生きていける世界が作れるというふうに思いました。
    幸福学という学問で、感謝すると幸せになることがわかっています。それから世の中がいい世の中でありますように、と祈ることによってセロトニンやオキシトシンが分泌されて、その人の幸福度が上がることも研究でわかっています。ですから、無神論者の立場から見ても、今日のお話にあった真言を唱えることは祈りとして効果があると言えると思うんです。
    私の解釈が合っているか間違っているかは別にして、私自身は、今日のお二人のお話を無神論者として聞いて、日本の伝統というのは素晴らしいなと思っていました。これについてどう思いますか?

早川    日本人の宗教観というのは非常に難しいですよね。でも日本人が本当の無神論者と会ってみたら違うなと感じられると思うんですよ。無神論者ってもっとさばさばしてると思うんです。日本人は普通に「ありがたいな」とか「お天道様が見てる」という感覚がありますよね。その感覚が少しでもある時点で、すでに仏の中にいるというか、その種は十二分にあって、本人がそれをどう解釈するか、科学的なもので解釈するのか、仏の文脈の中で解釈するのかというのはあるとは思うんですけど、すでに素地はあると思うんです。前野先生は科学的に説明がつくというお立場ですが、解釈の仕方が違うだけで先生も十分大日如来ではないかと思います(笑)。

前野    なるほど。ありがとうございます。

■おわりに

安藤    前野先生、仏像に似てらっしゃいますよね(笑)。前野仏みたいな感じですよね。

前野    ははは(笑)。信じないと言っていて一番似ていたりして。
    最後に早川さんと松村さんから皆さんへのメッセージをいただけますでしょうか。

早川    今日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。足りない部分やもっと伝えるべきこともあったのかもしれないのですけど、田舎の小さなお寺のいち僧侶端くれとして今日は拙いお話をさせていただきました。今はさまざまな情報がさまざまな形で手に入る時代ですので、興味を持たれた方は、自分なりの学びを深めていただきたいと思います。それこそが自分が大日如来であるということに気づき一歩にもなります。ぜひそういうようなことを続けていただけたらなと思っております。

松村    会社勤めのときは毎日終電で帰るような忙しい状況でしたので、常にイライラしていました。そんな私がいま穏やかでいられるのも、仏の教えを通じて自分の心が豊かになってきたからだと思っています。仏教や真言宗のフィルターを通った今の私が、またもし普通に会社勤めをしたら、智慧を活かして過ごせるものなのか、どうなるんだろうなというふうなことも考えます。
    今日のこの時間が皆さんにとって真言宗に対する興味のきっかけになったり、ちょっとお寺に行ってみようかなと思うきっかけになったらありがたいなと思います。本日はご縁をいただきましてありがとうございました。

安藤    今日はお二人の生のお話をお聞きして、同時代に生きる者として、私自身お二人の経験と重なり合うようなところが多々ありました。大きな時代の中で、我々も皆、共に生きているんだということを深く感じ取ることができました。本当に貴重な時間をありがとうございました。今後はもう少し、一般的に話を回せるように研鑽を積みたいと思います。

前野    私も拙い司会で失礼いたしました。「空海が100点だったらあなたは何点ですか?」とそんなことを聞くものではないとは思いつつ、ちょっと場を盛り上げようと思って聞いてしまいました。
「真言宗は大日如来だ、大日如来が大事なんだ」というのは言葉としては知っていましたけど、今日のお二人の言葉から「大日如来が宇宙エネルギーの源であって、我々もそれなんですよ。そこを目指し続けるんですよ。それが生きるってことなんですよ」というメッセージが浮かび上がってきて、本当に理解が進みました。私の中にも大日如来があるみたいですので、頑張ってやっていこうと思います。空海というのがすごいロックスターで非常に素晴らしい人だったこともわかりやすかったですし、第1回としては大成功ですね。
    前野と安藤、こんな二人ですけど、日本の本当に素晴らしい仏教というものを世界のみんなに伝えていきたい、日本人にも伝えていきたいという思いは一緒ですので、ごこれからもこのような感じで進めていきたいと思っています。それでは皆さんどうもありがとうございました。
    次回は天台宗から阿純章(東京都圓融寺)さんと、小野常寛(東京都普賢寺)さんをお迎えしてお送りします。どうぞお楽しみに。

(了)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年4月26日    オンラインで開催
構成:中田亜希

記事一覧〕へ戻る