アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「気づき」「観察」と心の働きについて、スマナサーラ長老が答えます。


[Q]

    「気づき」「観察」ということは、感覚や概念が起こったということを知っているということだと思います。気づきや観察ということも、認識・知るという心の働きを使ってやっていること、そういう理解でいいでしょうか?

[A]

■汚れていない状態で「知る」ということ

    観察・気づきというのは、一番軽い程度の「知る」機能を使うのです。「知る」という機能が煩悩によって汚れていない状態です。知るという働きを使って、正知につなげていくのです。厳しいことではありません。ただ観察するだけです。例えば身体のどこかが痛くなったら、「痛み」と観察するだけで、それ以上何もしません。「これは嫌だな」「痛みを無くさないと」とはもっていきません。ただ「痛み」と観察する。そこで「知る」機能をストップさせるのです。そうすると汚れていない状態で知ったことになるのです。
    それで何も判断しない・できない状態、次の行動につながる衝動も生まれていない状態を作るのです。例えば知識で痛みを知ったら、「痛い」というのです。そこにはすでに自我として「私」が入っています。痛いのだったら何とかしなくては、という衝動もすでに生まれているのです。観察している場合は、そこまで起こらないようにします。
    ですから、歩く瞑想の場合、これは散歩ではなく、目的地に向かっているわけでもなく、ただ歩いている。歩く瞑想としてやる。ただ「左足、上げる、運ぶ、下ろす」それで終わりです。そうすると、これは何なのかと本人にはわからない。知識では理解できない。観察では誤知が生まれません。そのように気づき・観察するとは、知る機能を使っているのですが、汚れていない知る機能を使っているのです。

《気づき・観察は、心の何かしら別の機能を使っているわけではなく、「知る」ということについて知っているから、汚れないということなのでしょうか?》

■感覚から汚れた知識に変わることを邪魔する「気づき」の訓練

    だいたい瞑想で観察するのは、感覚についてなのです。思考を観察する時は、単に「妄想」と実況中継しますね。妄想という観察も、後で分解することは可能です。瞑想を続けていくと、妄想も現象の束ですから分解して、怒り・欲などに分類することもできます。それをするためには、観察を続けて上達しなくてはいけません。普通は感覚に気づく。痛みや膨らみや縮み、見える・聞こえるなど。感覚を観察していくのです。
    感覚を観察していくと、感覚から汚れた知識に変わることを邪魔してくれると発見します。食事の観察をするとよくわかると思います。食べるときに、(手を)運ぶ、(口に)入れる、噛む、噛む、味わう、飲み込むなどと観察します。そうすると今までご飯を食べた経験とものすごく違っていることが見えてきます。「あぁ、美味しいな」「これは体に良いものだ」「私の好物だ」その自我の錯覚から起こる捏造世界が、ただ感覚を観察することで起こらなくなる。実況中継することで、妄想が起こることを邪魔しているのです。観察能力が元々ないのですから、修行が難しいと感じるのはそういうことなのです。観察能力を育てなくてはいけないのです。
    そのように感覚に気づく、観察すると、口に入れたものに気づく、噛むことに気づく、味わうことに気づく、そこで止める。それ以上はいかない。認識の捏造をしない。存在欲まで持っていかないのです。
    修行者が食べる場合、観察の前にやることがあります。食事の前に「この食事で肉体を維持します」と確認する。肉体は壊れていく、壊れていく肉体には材料(物質)を入れて維持しなくてはいけない。それでもどうせ壊れてしまうものなので、バカバカらしい。やはり解脱に達しなくてはいけないと理解する。ですから、解脱までのために肉体に必要な修復材料を入れているのです。
    気づく・観察するということは、強いて言えば「知る」機能ですが、ただ普段やっている「知る」こととは中身が違います。汚れていない「知る」ということになります。


■出典    『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編2』

瞑想実践編2.jpg 154.22 KB