山下良道(鎌倉一法庵)


山下良道師の師であり禅の修行道場である安泰寺の第六代住職の内山興正老師の哲学を紐解きながら、現代日本仏教の変遷をその変革の当事者としての視線から綴る同時代仏教エッセイ。「もうひとつの部屋」をめぐるシーズン5の最終回。


第8話    生滅滅已、寂滅為楽


■意味ある停滞

(前号から続く)

    何ヶ月も停滞していた私の瞑想も、ようやく突破口がみつかりつつありました。それは意外なことに、セヤドーのほうからやってきました。これまで、インタビューの度に、私が何を言っても、ただニヤニヤされるだけで、「はい続けて」と言われるばかりだったセヤドーの雰囲気が、ある日違ったのです。

    その頃の私は、深い絶望感と、焦りの中にいました。この何カ月も続く瞑想の停滞の中に閉じ込められて、もう永遠に抜けられないのでは、と。まさに、出口なしの状態でした。いくら、禅定に入れた、ルーパ・カラーパが見えた、ナーマの生滅も見えた、過去世も見えたといっても、肝心のニッバーナを経験できなかったら、そんなことにいったい何の意味があるだろう。それらはニッバーナへ到達するための、途中の風景に過ぎないのだから。パオ・セヤドーの主著のタイトル”ニッバーナ・ガミニ・パティパダー”が、端的に示すように、「ニッバーナへ到達するための道」こそが、パオ・メソッドの本質なので、その途中の風景がいくらクリアに見えても、最終地点に到達しなかったら意味を失います。このままでは日本に帰っても、自信をもって瞑想を教えることなどできやしない。肝心要のことをリアルに分からないままなのだから。

    ただ、パオ・セヤドーに毎回、毎回、否定されるので、自分の瞑想は停滞したまま、全く深まってないと当時は思い込んでいましたが、実際には、勿論そんなことはありませんでした。セヤドーは、慎重に何かを待たれていたのです。私がインタビューで話すことを、毎回、非常に注意深く聞かれながら。今振り返ると、そのことがよくわかります。セヤドーとは勿論、英語で会話をします。お互いに癖のある英語ですが、すでに数年間ほぼ隔日に、インタビューをしてきたのでコミュニケーションは完璧でした。その上、表面的な言葉以上のところでもコミュニケーションはしっかりとれていました。私の瞑想状態の言葉にはならない領域まで、これまで実に正確に把握されていました。まあ、そうであるからこそ、数ヶ月も否定され続けて、すっかり自信を失っていたわけですが。