家接哲次(名古屋経済大学大学院人間生活科学研究科・人間生活科学部教授、名古屋経済大学マインドフルネスセンター所長)
井上ウィマラ(仏教瞑想研究者、マインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰、マインドフルネス・カレッジ学長)
マインドフルネスの指導者育成プログラムを展開する「Teachers」(https://mindfulness-village.com/)の主催による、井上ウィマラ先生の連続対談セミナーを載録していきます。第1弾は、名古屋経済大学マインドフルネスセンター長として、MBCT(マインドフルネス認知療法)【*1】について幅広い研究をする家接哲次先生の講義と井上ウィマラ先生の対談です。お二人の講義とそれに続く対談のセミナーの、対談部分を再構成して全3回でお届けします。マインドフルネスは仏教の専門的な知見からどのようにとらえられるか、MBCTのなかでインクワイアリーと呼ばれるインストラクターと参加者とのやり取りの重要性など、貴重な対話の採録です。
第1回 仏教本来のマインドフルネスを考える
■そもそも、マインドフルネスとは何か
家接 マインドフルネス認知療法というのは仏教の考え方をお借りして作られた心理療法だと思っていますが、そもそもマインドフルネスというのは仏教の中ではどんな位置づけなのか、私が日ごろ感じていることを投げかけてみたいと思います。私なりに仏教を勉強したところ、四諦というものがあり、苦諦・滅諦・集諦・道諦ですが、これがそれぞれ症状・予後・病因・処方に対応していると指摘されています。ブッダは記録に残っている最古の心理療法家ではないかと言われるぐらい、心の問題に対してしっかり取り組んだ人ではないかといわれています。
四諦の道諦に八正道というものがあり、八正道の1つが正念(Right Mindfulness)と言われていると、私は理解しています。そして、なぜマイルフルネスだけが取り出されているのかということを、私はずっと疑問に思っています。
私の中では「仏教の教え=マインドフルネスではないか」という理解があって、そうなるとマインドフルネスだけが取り出されているというわけではなくて、仏教の教え全体を心理療法に取り込んでいるのかなとも思うのです。
そこでまず私が知りたいのは、マインドフルネスが仏教の中でどういう位置付けなのか、とういう点です。私たちは心理学の枠組みの中で、仏教からマインドフルネスを借りて勝手に使っていますが、そもそもマインドフルネスとは何なのかというのがよくわかっていないところがあります。
井上 マインドフルネスは、心の働きとしてのマインドフルネス(sati:サティ)の分析もされていますが、「四念処 (sati-paṭṭhāna:サティパッターナ)」と呼ばれる修行体系として実践されています。
でも、禅宗のようなところでは八正道とか四聖諦はあまり重んじません。そういう伝統の中でマインドフルネスを学んだ人にとっては、初期仏教の定義はどうでもいいんですよ。ですから、そういうニュアンスでマインドフルネスを実践したり、教えたりしている人と、初期仏教の定義を大切にして説明したりしている人のあいだのギャップもあるんじゃないかと思いますね。
家接先生のスライドを出していただいてお話しするとわかりやすいかもしれません。
仏教の場合は、四正諦に「苦諦」とありますが、この苦諦は知り尽くすべきものなのです。ですから、これを患者さんに適用するとしたら、患者さんは自分の症状を知り尽くす必要があるということになります。でも患者さんは、この症状と戦おうとする傾向があるかもしれないですね。そこらへんをどういうふうに対応するかが問われるところになります。
マインドフルネスの中で苦諦をどういうふうに実践するかというと、苦しみ……まあ、よく言われるのは四苦八苦ですね。その苦しみを一つ一つ知り尽くしていく、味わって吟味していくことが修行になります。そこは苦悩と苦痛の違いということを先生がおっしゃっていますが、そことも関係してくるかもしれません。別な表現をすると、「その苦しみに伴う身体的な痛みは何ですか、心の痛みは何ですか……」と見ていく。これはMBCTの中で行われるインクワイアリー(inquiry)と呼ばれるインストラクターと参加者とのやり取りにつながるかもしれませんね。体の痛みによる苦しみなのか、何かを失ったり、何かが変化してしまったことによる苦しみなのか。
身体的な痛みを伴うものはドゥッカ・ドゥッカ(duḥkḥa dukkha、苦苦)、それから何かが変化すること、何かを失うことによる苦しみがヴィパリナーマ・ドゥッカ(vipariṇāma dukkha、壊苦)と呼ばれます。それから一番深い苦しみとして、良いことをしようと思って心から頑張っているのに思い通りにならなくて苦しいと思う、これはサンカーラ・ドゥッカ(saṇkhāra duḥkḥa、行苦)、業を作ることによる苦しみです。こういうふうに苦しみを知り尽くすための様々なアプローチが説かれています。それを臨床のなかでは、単に病状(症状)としてしまっているようで、それでどれだけ伝わるのかなという気はします。
家接 それはだいぶ強引に現代医療に当てはめれば、ということなので……。
苦諦についてもう少し教えていただきたいのですが、苦諦には「生まれる苦しみ」という意味もあると思いますが、「ハッピー・バースデー」という発想は仏教にはないのでしょうか?
井上 「ハッピー・バースデー」は、あるけれどないかもしれないですね。ないけれどもあるかもしれない、あってもいいかもしれないですね。
家接 それでは、仏教でも子どもが生まれたことを親は喜ぶという考えがあるのですね。
井上 親が喜んであげることはとても大切ですよ。「おまえが生まれてきてくれて良かった、嬉しい、ありがたいなぁ」と。生まれてくれたと喜んでもらえることは、苦しみに向かい合う自我の強さを養うための土台じゃないですか。だって、生まれたことが心から喜べないと愛着障害になってしまうでしょう。
家接 そうですね。それでは、生まれてきたということは苦しみに向き合うことで、いわゆる輪廻転生を終われるチャンスをもらえたんだよ、だからあなたはハッピーなんだよ、ということなんでしょうか。
井上 それはその人に合わせた解釈になるので、誰かが先回りして準備する必要はないと思います。でも、生まれたことを誰が覚えてます? だからその質問に対してマインドフルネス的に答えるとしたら、たぶん「あなたはいつからあなたになったんですか?」「あなたは生まれたときのことをどれくらい覚えてますか?」、となると思いますね。
たとえば受精した瞬間のこととか、着床した瞬間のこととか、お腹の中にいた時のこととか、覚えてますか?
家接 もちろん覚えてないです。
井上 それでは、それはあなたじゃないのですか? あなたはあなただったはずですが、記憶としてのあなたはいつからあるんでしょう?
家接 いつからでしょうね。もう本当にだいぶ経ってからですよね。
井上 うん、だからそういうインクワイアリー(探求)をしながら「誕生って何かな」と一緒に考えていくことが大切だと思います。誕生の現場ではお母さんも苦しむし、赤ちゃんも命がけ。母子共に出産は命がけの大作業なのです。私たちの頭蓋骨には縫合があって、そこがズレてくれるから産道を通過するときに狭いところを通過できるのです。そういう意味で、赤ちゃんにとってもお母さんにとっても出産はトラウマ的な体験なんだけれど、でもお母さんはうまくそれを通過すると喜びも体験できるし、赤ちゃんは覚えてはいないけれども、苦しい産道通過中の仮死体験を乗り越えて生まれ出てくることの中で、「死と再生」の体験が人生の最初に埋め込まれている。それがバーストラウマ理論の意味だと思うんですよ。
だから「苦諦の生まれる苦しみは誕生の苦しみなんですか」と問われましたけれども、「誕生って何ですか? 自分の人生のことをどこから覚えてますか? あなたはいつから『私』になったんですか?」というところをインクワイアリーするのが、マインドフルネスのアプローチじゃないかなと思うんですよ。
家接 確かに、マインドフルネスを通して自分という存在を深く理解できると思います。
■なぜ、八正道は正念中心に説かれていないのか
家接 先生は「マインドフルネス」と「マインドフルネスの確立」とは違うということをおっしゃっていますね。
井上 はい、心理的な働きだけを見たときのマインドフルネス(念)と、サティパッターナ(念処)の実践としてのマインドフルネスがあって、後者は八正道の全体と言い換えてもいいということですね。後者を「マインドフルネスの確立」というふうに言っています。
家接 私が読む仏教の本は基本的に初心者向けですけど、八正道はすべて「正見」から始まっています。ある本によると、すべては正見にのっとったもので、たとえば正命であるなら正見にのっとった正しい生活だったり、正精進だったら正見にのっとった努力だったり、ということで、正見を中心に説明が進んでいきます。もし、先生がおっしゃるように、マインドフルネスが中心であれば、マインドフルネスが八正道の最初に来て、マインドフルネスを中心とした説明がなされていくべきだと思うのですが、なぜ、そうではないのでしょうか?
井上 たぶん伝統的に、ブッダも「正見」からはじまるその順番に説いたと思います。中核になってるのは「念」なんだけれども……。先生は「結果としての気づき」という話をしておられますよね。「ありのままに見つめることで、結果としての気づきが得られる」と。その結果としての気づきが正見ですよね。
家接 なるほど。
井上 なぜ「正見」が最初に出てくるかというと、この正見があるから苦しみを苦しみとして理解できるんですよ。この正見がないと私たちは、本当は苦しみなのにそれを楽しみと勘違いして人生を棒に振ってしまうことも少なくありません。棒に振っているかどうかはわからなくても、夢を見て過ごしてしまって、それで病気になったり、事業に失敗したりしてショックを受けて、事実に向かい合ってまた道が開けるということはよくあるものです。それが人生じゃないですか。
だからMBSR(マインドフルネス・ストレス低減法)などに来る人たちは、必ず病気になったり倒産したり、なんかショッキングな出来事にあって、一回死んだ思いをして、蘇りに来るわけじゃないですか。それまで「これが正しい」「これが幸せだ」と思っていたものが本当は苦しみだった、苦しみの種を蒔いていたんだという気づきがなければ始まらない人生の再出発があるのです。
だから最初に智慧の働きとして、気づきの働きとしての正見と正思(惟)を持ってくるということだと思います。
家接 そして、それは正念とつながっていると。
井上 そう、正念とつながっている。だから正見と正思(惟)を養うためにはまずは生業の習慣を整えましょう(正命)、しゃべる言葉の習慣を整えましょう(正語)、自分がやってる行為の習慣を整えましょう(正業)、というようにライフスタイルを整えていく。でも、そういうふうに具体的な日常を整えていくためにはやっぱり心を整えていかなければいけない、という形で精進(正精進)、それから正しいマインドフルネス(正念)、正しい集中力(正定)とくるわけですよね。
家接 そういう点で8つの中に位置しながらも、どれも大事なんですけれども、正念というかマインドフルネスは違う位置づけなんですかね。ちょっと別格という感じだったり……。
井上 では逆に質問しますが、マインドフルネスの定義は「あるがままの状況に対して、意図的に、今この瞬間に、評価をせずに、注意を向けることで得られる気づき」とされていますが、その中では何が一番重要なんですか? 結果としての気づきが一番重要なんですか? それとも判断しないというところが一番中心なんですか? それとも……
家接 私は気づきが大事なんだろうなあと思っています。
井上 うん、でもね、あの定義の中で僕、一番矛盾すると思うのは、実際に実践してみると、「善い悪いは判断しない」と言うけれども、善い悪いを判断しまくっている自分に気づくということだから、「判断を手放して」ではなくて、「判断しまくって自分を責めまくっていることに気づいて受け止めましょう」というとこから始まるわけですよね。そのへんがやはり、定義をそのまま鵜呑みにすると、判断してしまっている自分が怖すぎて、そこに向かい合うことからちょっと眼を背けて、建前に逃げてしまうところがあるかもしれないと思います。そこは難しいところだと思うんですよね。
家接 確かに、そこは矛盾しておりますね。
井上 実際に僕は、瞑想中にさまよう心に気づいたときに、どういうふうに気づいて、感じて、整えて呼吸に戻るかについて、「気づきの作法」という3つのステップで指導しています。そのときに、先ほどの定義みたいに「気づくときには、建前上は善い悪いは裁かない」と言うけれども、現実としては「あー、またやっちゃった、だめだ」と自分を責めるのが普通なので、「責めてしまっている自分に気づくところがスタート地点でいいんだよ」という説明をするようにしています。そこらへんが「八正道の念だけが別格なんですか?」という質問と重なる難しいところです。
たとえば「戒定慧という生活習慣・集中力・洞察力のどれが大切ですか?」という質問に関しても、生活習慣の中にだって集中力と智慧があるわけだし、「3つに分けたとしてもこの3つが、スパイラルにうまく絡み合いながら一体になって働いているんだよ」という説明をしたいので、八正道=実践の道と言った方が分かりやすい人もいるだろうし、八正道=中道という受け止め方をする人もいるので、「どちらの極端にも偏らない」という説明に落ち着くかもしれない、ということですね。
■「気づき」の重要性とファシリテーターの役割
家接 たとえばなぜ、ティック・ナット・ハンは「マインドフルネス」を強調するんでしょう? 「八正道」と言うべきだと思うのですが、なぜマインドフルネスという言葉を彼はしきりに使ったのでしょう。
井上 日常のいろいろな場面で、どこからでも気づけるし、気づくということがとても大切になるからじゃないでしょうか。この気づきが起これば八正道は自然に絡まり合って成長してゆくという、そこが家接先生の言う「別格」かもしれないですね。気づくというところがね。
家接 それでは「マインドフルネス」と言った瞬間に八正道は全部入っているということですかね。
井上 うん、たぶんね。「マインドフルネス」と言った瞬間に、サティパッターナ (satipaṭṭhāna、念処)、マインドフルネスの総合的実践というニュアンスが入ってきて、その中には八正道・中道が入ってきて、たぶんそれは仏教を実践しているとしみじみと感じることだと思うんですね。
仏教を説明する専門用語は「八正道」とか「中道」「四聖諦」「縁起」とか、いろいろあるけれども、実際の日常生活の中では、いろいろなことをやりながら、ハッと気がついて、「あー、そうだったんだ」みたいな「気づき」から入っていくわけじゃないですか。宗教的な体験にしても変容体験にしても。そこの入り口と深まりの始まりがマインドフルネス(気づき)になるんじゃないのかなという気がしますね。
家接 なるほど。私もMBCTを指導させていただく中で、患者さんが気づくということが2カ月のプログラムの途中にたくさん起きてきて、それが心の健康にすごくいい影響を与えているなと実感しています。患者さん自身もご理解されていて、「こういうことに今まで気づかなかった。気づいたがゆえに自分が抱えている問題や心の問題に関して解決の糸口がつかめました」とおっしゃる方にたくさん出会ってきています。そういう点で本当に今、先生がおっしゃったように「気づき」が、プログラムを通して深まっていくんだなというのを感じています。
井上 それでそのときに、その人の気づきが、「僕は人に話すときにこういうふうな癖がありました」という場合は「正語」に入ってくる。あるいは「僕は何かを見るときにいつもこういうふうにものを見てることに気がつきました」、あるいは「心を向ける、考える習慣があったことに気づいたんですよ」という場合には「正見」や「正思惟」に入ってくる。「なんで僕はやる気を失うのかなということに気がつきました。そして、気がついたからやる気が出ました」というと「正精進」でしょう。
「僕は何か頑張ろうと思って集中しようと思っても、すぐストンと落ちてしまうんだけど、でも頑張ろうと思ったのは、本当は見るのが嫌だと思っていたことから逃げるために何かに集中しようと思っていたことに気がつきました」と言うことであれば、「正定」の話につながる。本当にバランスよく正しく集中するというのは、見たくないものから逃げることではないということです。
そういうように、気づきはその人の生き方のどこに連れていってくれるかわからないところがあって、「あなたは今、ここに気づいたんですね」と、インクワイアリーをして誘う(インビテーションする)ことによって八正道の必要なところが動き出すのだと思います。そういうふうに寄り添うのがファシリテーター、インストラクターじゃないですかね。
家接 そうですね。まったくその通りだと思います。
井上 先生は、マインドフルネスを指向する心理療法のアプローチを分類して、治療者自身がマインドフルネスを実践しているPracticing Therapistについて説明してくださったスライドのところで、逆台形の図をお示しになられましたよね。もう一度ご説明いただけますか?
家接 はい。今、マインドフルネスを活用した心理療法は増えていて、それらをまとめて「マインドフルネス・オリエンティッド・サイコセラピー(Mindfulness Oriented Psychotherapy)」と言われています。日本語では「マインドフルネス指向の心理療法」と訳されたりします。大きく分けて3つあります。
1つが「プラクティシング・セラピスト(Practicing Therapist)」というものです。これは、マインドフルネスを個人的に実践する治療者が行う心理療法です。実際に患者さんやクライアントさんに対してマインドフルネスを教えるわけではありません。カウンセラーなり治療者が個人的にご自宅などで瞑想をしている、マインドフルネスを実践している、ということで、その人たちが行う心理療法をプラクティシング・セラピストといいます。
次が、「マインドフルネス・インフォームド・サイコセラピー(Mindfulness-Informed Psychotherapy:マインドフルネスを教示する心理療法)」です。これは、マインドフルネスの基本的な考え方などを臨床の現場でお伝えする心理療法です。
最後が「マインドフルネス・ベイスド・サイコセラピー(Mindfulness-Based Psychotherapy:マインドフルネスに基づいた心理療法)」といって、これはマインドフルネスをしっかりとお伝えしていくアプローチです。
このスライドでは、プラクティシング・セラピストを下に、マインドフルネス・ベイスド・サイコセラピーを上に表記し、横に逆台形を記しました。これは、それぞれの心理療法におけるマインドフルネスが占める割合で、プラクティシング・セラピストは、マインドフルネスの要素が心理療法の中に比較的少なく、マインドフルネス・ベイスド・サイコセラピーが心理療法の中でマインドフルネスの要素が、3分類の中ではもっとも大きいことを表現しています。
井上 ここで僕が思うのは、セラピストとクライアントの間で湧き起こっているマインドフルネスの総量というのは、実はPracticing Therapistと患者のあいだが一番多い可能性もありえると思うんですよ。だから、その現場にあるマインドフルネスの量というのはもしかしたら正方形かもしれないし、逆でない台形になるかもしれないので、ここはやっぱり難しいところだと思います。
家接 確かに。本当ですね。
*1──MBCT
マインドフルネス認知療法(MBCT:Mindfulness-Based CognitiveTherapy)は、当初、うつ病の再発予防のためのプログラムとして、マーク・ウィリアムズ博士たちによって開発されました。しかし現在では、うつ病の再発予防を超えて様々な領域での効果が実証され、その応用範囲が拡大しています。例えば、より一般的な効果として、MBCTはポジティブな感情を増す、ネガティブな感情を減らす、人生のゴールの明確化を助ける、恐怖や不安を適応的に調整するという効果が示されています。またより専門的には、不眠症、社会恐怖症、全般的不安障害、パニック障害、一次診療での鬱のためのMBCT、および癌患者のためのMBCTが有望なものとして挙げられています。すなわち応用に関して非常に開かれた、展開可能性に富むプログラムといえます。(日本マインドフルネス学会HPより)
2023年2月18日オンライン対談をもとに大幅に加筆修正
主催:Teachers(https://mindfulness-village.com/)
構成:川松佳緒里