アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「悟りは自己判断できますか?」です。

[Q]

    有身見を無くしたいのですが、自分の有身見が無くなったと思えるのはいつなのでしょうか?    妄想ではなく、自分で「悟った」ということを判断できるものなのでしょうか?

[A]

■判断できます

    判断できます。自己観察によって、「『自分、自分』と言い張って執着してはいたが、自分という概念も一つの衣装に過ぎない」と発見するのです。自分とは一時的に被せられた衣装であると発見すると、実体としての自分は存在しないとわかるでしょう。それが、有身見が消えたということです。自分とは俗世間的に使う単語に過ぎない、真の自分は存在しない、という経験が起きたら、その人は自分の心の状況をよく知っているのです。他人が「あなたは自我が無い」と免許皆伝する必要はありません。

■自我の錯覚が消えればすごく気楽

    自我の錯覚が消えたら、有身見が消えたら、すごく気楽になっているはずです。預流果になったらその人を操ることはできません。しかし、預流果は世間にいる人ですから、世間がかぶせる衣装を着て演技をやっているのです。ですが、はっきりと「これは演技」と自覚しているのです。その差があります。

■確かめたい気持ちがあれば「まだまだ」判定が安全

    ブッダの教えをたくさん聴いて自分で理解して納得いけば、「すべては無常なので変化しない自我があるはずはない」と会得することができます。ブッダの教えには何の間違いも無い、という確信も起こるかもしれません。それで、「私は預流果に悟っているのか?」という疑問が生じます。これはよく起こる現象です。疑問があるなら、「誰かに訊いて確かめてみたい」という気持ちがあるなら、まだ預流果に達していないと判断する方が安全です。誤解で聖者気取りになるよりはマシです。しかし、知識だけででも「自我が無い」と納得しているならそれは素晴らしいことです。気楽に生活できます。感情におぼれて悩むことも無くなります。ただ、このような人にも宿題があります。日常生活を営む過程で、悩んだり、失敗したり、落ち着きが無くなったり、機嫌が悪くなったりします。その時は、自己観察をしてみるのです。自我の錯覚が割り込んでいることを簡単に発見できます。

■預流果の人にも起こる悩み苦しみ

    預流果に達した人にも、悩み苦しみが起きます。機嫌が悪くなったり、嫌になったりもします。それでも、預流果なので有身見は無いのです。実体として自分・自我が無いことを経験しているのです。しかし、預流果の人は俗世間で生活しているのです。世間が自分に「社員、父親、夫、息子、友人、知り合い」などなどの衣装を被せているのです。自我のない自分が、衣装に合わせて適切に演技をしているのです。それは普通に生きることです。誰かが自分を「お父さん」と呼んでいるならば、その相手に対して父親の役を正しく演じるのです。誰かが自分に「主人」という衣装を被せたならば、相手に対して主人を演じるのです。一般人と違って自我のない預流果の人は、世間が与える衣装に合わせて、正しく自分の役を演じたいと思っているのです。「生きることは、その都度その都度、被せられる衣装に合わせて演じることである」と知っているので、俗世間に対する執着が薄いのです。
    役を正しく演じたいと思っても、うまく行かない場合や失敗する場合もあります。その時は、苦しみを感じたり、嫌な気分になったりします。しかし、その気持ちは悪行為にはなりません。罪になりません。預流果の人にも、いくつかの煩悩が残っているのです。その分は苦しむことになるだけです。しかし、本人にはそれについて明確な理解があります。
    例えば、私に自我がないと仮定しましょう。自我がなくても私はいまやっている説法をしっかりとやらなくてはいけません。自我があれば、「オレの説法は、どうだ上手いだろう。カッコイイだろう」と自慢することもできます。逆に自我がないとしても、「説法はどうでもいい」ということにはならないのです。自我があってもなくても、説法はしっかりとしなくてはいけないのです。もし私は説法がしっかりできなかった場合、順番が良くなかったり、プレゼンテーションの仕方が良くなくて、「あぁ、いま日の説法は失敗だったな」という悩みが生まれたとしたら、それは煩悩です。預流果になっても、そのような程度の煩悩は生まれます。仏典でも欲と怒りがまだ残っていると説明されています。ただそれは自我の錯覚から現れるような派手な欲や怒りではありません。罪は犯しません。

■預流果になってもさらに修行が必要

    預流果以上、一来果に進むためには瞑想しなくてはいけません。なぜなら、現象を更に精密に観察してなくてはいけないからです。預流果までは、もう少し大雑把で世間的な現象を観察しても達することができます。それから、精密に観察するのです。やり方は同じプログラムです。例えば瞑想していて、少し空気が体に触れただけで感覚が生じて、そこで「私が感じた」という自我の錯覚が生まれる。そのように精密なプログラムで瞑想(五蘊の観察)をすると、一般人には空気が触れただけで自我が生まれるのだ、と発見して智慧が現れる。そうすると、かなり自我が消えて、欲や怒り・嫉妬・憎しみも消えてしまうのです。ですから、預流果になってもさらに瞑想をする必要があります。以上です。


■出典    https://amzn.asia/d/0u0hhOm 

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