〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
川野泰周(神奈川県林香寺)
白川宗源(東京都廣福寺)


慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」もいよいよ最終回。臨済宗の川野泰周さん(林香寺)白川宗源さん(廣福寺)をお迎えしてお送りします。


(6)大乗仏教の中の臨済宗


■禅を学んで福沢諭吉先生の言葉の意味がわかる

川野    臨済宗には「自分が楽しいからやっている」という禅僧が多いんですよ。曹洞宗においてもそうかもしれませんが、「自分がやっていて楽しい!」と思うことを貫いている老師には本当に魅力を感じます。
    私たちの修行を指導してくださった建長寺専門道場の師家(しけ)、酒井泰玄(さかいたいげん)老師はまったく迷いがなく、いつもどっしりと落ち着かれていて、酒井老師のスタイルを貫いておられました。落ち着いているように見せているのではなく、それが自然体なんです。そういったスタイルというのは、やはりご本人に楽しくて充実しているという感覚がないと滲み出てこないのではないかと思います。
    迷いがないということは、「やりたいことをやっている」ということでもありますよね。建長寺の管長をされている吉田正道(よしだしょうどう)老師は、まさにその体現者ではないかと、勝手ながら感じております吉田老師は何事も一直線で、思ったことはズバッとやる。やりたいことはやるんだ。そういう姿勢を常に私たちに示してくださっていました。
    みんなが自分のスタイルで生きれば、互いを尊重し合えるのではないかと思います。自分の信念に基づいて生きている人たちが集まると、互いを思いやり合うのではないかと思うんです。もしそういう場に自己犠牲的に自分を押し殺して頑張っている人が一人いたら、その人は他の人たちに対して「なんでみんなそんなわがままなんだ」と言いたくなると思うんです。それぞれが「自分の信念で生きていく」ということが大切なのではないかと思います。
    今日は慶應義塾大学の前野先生がいらっしゃるので申し上げますが、私はこうして禅のことを少しばかり知って、福沢諭吉先生の言葉の意味が初めてわかった気がします。

前野    おお。どういうことですか?

川野    「独立自尊」という福沢諭吉先生の有名な言葉があります。私はSFCの中高時代、色々な学校行事の度にこの言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞かされて、「独立自尊って、なんてわがままな言葉なんだろう」と思っていたんですよ。「自分が独立していて自らが尊いって、何それ?」と。しかし、禅の教えに触れていく中で、独立自尊というのは自分の意思で自分のふるまいを決めて、そして自分がしたことに対してちゃんと責任を取るという気構えのことなんだと思い直すことができました。私が諭吉先生に対して勉強が足りなかっただけなのですが、今になってやっと理解できたという思いがあります。

前野    確かに日本文化では「自尊心の強い人だねえ」とネガティブに言いますけれども、英語では「プライドを持つ」は独立心を持つという意味でポジティブに使いますよね。福沢諭吉先生は西洋に学べという意味もあったんでしょうけど、仏教で言うところの自尊というものもわかった上で言っていたのか、そのへんがまた面白いところですね。

安藤    そういえば、鈴木大拙の師匠の釈宗演(しゃくそうえん)も、南方熊楠と文通していた土宜法龍(どきほうりゅう)も、みな慶應で学んでいるんですよ。だから、今お話いただいたことは、さまざまな側面でつながってくるような感じがいたしますね。

白川    慶應っていいですよねえ。

安藤    ははは(笑)。

前野    ははは(笑)。

川野    宗さんは早稲田なんですけど(笑)。

安藤    そうなんですね!    私も早稲田です(笑)。


■型破りと型なしの違い

白川    禅宗は型破りというものを非常に高く評価する価値観があります。でも型なしは駄目なんですよ。
    じゃあ型とは何か、というと私や泰さんが経験した修行道場だと思うんです。私も彼も今は個々に様々な活動をしていますけれども、修行道場ではそれぞれの個性は捨てて、まったく同じように同じことをやりました。まさに型にはめられるんですよね。型にはめられた修行を経験すると、自分自身の、型からはみ出てしまう部分とか、足りない部分が自然と見えてくるんです。それぞれの個性がアメーバ状にあるとして、そこに四角い型をはめるような感じなので、どうしてもはみ出る部分と足りない部分が出てくるわけです。
    修行中は私にできなくて彼にできることもあれば、私にできて彼にできないこともたくさんありました。それをお互いに見て「なんでそんなこともできないんだ!」と喧嘩していましたね(笑)。

川野    私はいつも怒られるほうなんです(笑)。

白川    いやいや(笑)。こういう禅僧としての「型」をしっかりと身に付けた上で、今度はその「型」をどう破っていくかが大切になるのだと思います。

前野    なるほど。

白川     私は「型」を破れずにいるので、かえって協調性はある方なのかもしれません(笑)

前野    ははは(笑)。いやあ、面白いですね。

安藤    面白いですね。型破りというのは型があるからこそ型破りたり得るというのは、確かにその通りですね。


■禅宗も大乗仏教の仲間

前野    日本の大乗仏教では、たとえば浄土系ですと「南無阿弥陀仏と言えば救われる」と苦しい修行なしに救う方向なのに対して、禅宗は「鍛え抜く」というようなイメージがあります。禅宗が他の大乗仏教と比べて違う感じがするのは、やはり中国で老荘思想の影響も受けているからなのでしょうか?    それとも禅宗も異質ではなく、やはり大乗なんですかね?

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前野隆司先生(撮影=横関一浩)

白川    大乗仏教だと思いますね。上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)という言葉がありますように、お坊さんは菩提・悟りを目指して修行することと、人々を救い導くことを使命とします。この上求菩提と下化衆生は別々のものではなくて、禅僧が悟りを目指して修行を重ねていく姿勢そのものが、人々を救うということなんだろうと思います。
    老荘思想については、禅宗自体が中国から伝わったものですので、純中国式であることが最上の価値とされてきました。鎌倉時代、建長寺では中国語が公用語だったのは有名な話です。禅僧は日本風の衣を着てはいけないという法令が鎌倉幕府から出たりもしました。ですから、老荘思想も非常に色濃く入っていますし、その他の中国的な価値観、言うなれば非常に即物的であり現実的な価値観も入っているように思います。

前野    中国的な価値観は今でも色濃いのですか?

白川    時代を経てだんだんと日本的になっていったとはいえ、他宗派に比べれば今もなお強いと思います。


■禅宗の宗教性、信仰とは

──坐禅が悟りへの手段であるなら禅宗は合理性の高い教えだと思いますが、禅宗の宗教性や信仰というのは、どのようなところにあるのでしょうか?

白川:坐禅は悟りへの手段である。禅宗はそういう立場を取っていますけれども、他宗派にもそれぞれ得意とする手段があります。たとえば極楽浄土に行くには念仏を唱えるのが最短だと考える宗派もあります。ですから禅宗だけが合理性の高い教えであるということはまったくないと思います。
    禅宗における信仰については、「禅宗は仏像を崇拝しないのか」とよく聞かれます。確かに他宗派に比べれば、仏様を崇拝していないように見えるかもしれません。私が思うに、禅宗における信仰というのは、「人間一人ひとりが仏性(ぶっしょう)を持っている」ということへの信仰だと思います。直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)と言いますけれども、一生懸命修行をすれば、仏性が花開いて仏になれる。どんな悪人にも仏性がある。皆が仏になる存在であると信じる。それが禅宗の信仰だと思います。

安藤    「お坊さん、教えて!」の初回で真言宗の方も仏性のお話をされていました。宗派は違っていても、共通性があるように今のお話を聞いて思いました。

白川    非常に近いと思います。宗派というのはそもそも江戸幕府や明治政府が、寺院を統制する上で便利だったからという側面が強いので、信仰を考える上ではあまり気にしないほうがいいとは思います。


■禅の芸術は心を表現する手段である

──円相を見ていると、太極(たいきょく)と似ているような気がしますが、実際どうなのでしょうか。

川野    太極にあまり明るくないのですが、両方とも循環というものを表現しているのではないかとは思います。すべてが一円相で循環していると。

前野    太極は道教で、道教のもとは老荘思想ですから、禅も太極も老荘思想を一つのルーツとしているという意味では一緒なんじゃないですかね。

川野    ちなみに、老師が描かれる円相は素晴らしいんですよ。見様見真似で私が筆を持って描いてもきれいに描けないんです。こういうところに修行の違いが出てくるんだなと。私もいつかきれいな円相が描けるようになりたいものです。

安藤    でも下手であっても味がある絵ってありますよね。

白川    仙厓の「○△□」とか、禅僧の書というのは全部そうなんですけど、上手い下手じゃないんですよ。伝統的な書をきちっと学んだ方からすれば、禅僧の書は下手に見えるでしょうが、禅僧の書は悟りの境地を示しているのであって、上手い下手というレベルのものではないんです。
    これは禅宗の文化全般に言えることだと思います。上手い下手ではなくて、禅における芸術はあくまでも悟りの心を表現する手段である。これが禅の文化の特徴かなと思います。

川野    この掛け軸には、直心是道場(じきしんこれどうじょう)と書いてあります。
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    まっすぐな、ありのままの心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であるという唯摩居士(ゆいまこじ)の言葉ですが、これを書かれたのは明治時代に活躍されて101歳まで生きた静岡の方広寺の3代目管長・足利紫山(あしかがしざん)老師です。この字を見ているだけで心に届くものがあるというか、「ああそうか、今をちゃんと生きよう」という気持ちになります。禅僧の書は素晴らしいなと、いつもいろいろな掛け軸を飾りながら思っています。

前野    私は嶋田彩綜(しまださいそう)先生という達人に書を習っていますけれども、先生も「うまい下手じゃないですよ」と仰いますね。先生が書く円はすごくきれいなんです。手先で書かずに心で書く。「宇宙とつながったら書けるのよ」って仰るんです。だからたぶん境地にいくと似ているのではないかと思いますね。

(つづく)

(5)過去を見ながら未来を作る
(7)禅は非常に実践的な哲学である