【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「殺生はなぜ、嘘よりも罪が軽いのですか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
殺生はなぜ、嘘よりも罪が軽いのですか?
[A]
罪を定義しましょう。罪とは他人にも、自分にも害を与える行為なのです。反対の言葉で定義するならば、自分の幸福も他人の幸福も壊す行為は罪です。この定義にそって評価すると、「殺生」より「嘘」が重い罪になります。
では与える害について考えてみましょう。殺生の場合は、他の命を奪いますね。一人の生命を殺す場合は、一個の命を奪うことになります。殺された側が善い人間で生きていたならば死後よいところに生まれるでしょう。しかしその生命を殺した人は、善い人間を殺した罪になります。では殺意をもっているだけで、大量の生命を殺せる能力があるのでしょうか。一般的な人間の場合は人を殺すにしても、せいぜい一人だけです。たまにテロ行為などで一〇〇人、二〇〇人が殺されるときもあります。大量殺人をして、国ひとつをまるごと破壊しようとするならば、原子爆弾でも持たないと無理でしょう。原子爆弾を持っているからといって、そう簡単にそれを投下することもできません。
そのように考えると、殺生によって与える害は量れるのです。無量ではなく、「有量」なのです。しかし殺される生命の道徳によって、殺生の罪が徐々に重くなっていくのです。極悪人を殺したら殺人罪です。なにも悪いことをしていない一般人を殺したら、殺人罪は重くなります。道徳を守る人、智慧のある人、人類のために務める人などを殺すと徐々に罪が重くなります。生命としての価値は平等ですが、道徳を守ること、他人のために尽くすこと、みなを導くことなどで生命に価値が加わっていきます。しかしいずれにしろ殺生とは基本的に身体で行なう罪なのでリミットがあるのです。
嘘はそうではありません。嘘をつく場合は一生でも嘘をつき続けることができます。上手に嘘をつけば、全人類を騙すこともできるのです。現在の人間だけではなく、将来に現れる人間まで、騙すことができるのです。嘘をついて人を騙して、人々にさまざまな罪を、悪行為をさせることもできるのです。戦争を引き起こすことも、言葉の力で出来るのです。
言葉の力は最大です。腕力は微々たるものです。「私は神だ」「私に神の啓示が降りたのだ」「私は神に選ばれたのだ」「私は神の子だ」「私がブッダの生まれ変わりだ」などなどの嘘で人を騙すだけでなく、その人を死後の世界でも不幸にすることができるのです。人を殺す人には、その人の命を奪えますが、被害者を地獄に落とすことはできません。嘘つきにはそれがいたって簡単にできてしまいます。
また嘘をつく癖がついたら、それがどんな罪も起こせるライセンスになるのです。罪を犯して、嘘でごまかせばよいのです。殺生はほとんど一時的な感情による犯罪です。正気に戻ったら反省します。犯して悪かったと思うのです。嘘とは罪を反省する気持ちではなく、隠す気持ちなのです。開き直る気持ちなのです。罪を正当化する気持ちなのです。一時的な感情ではなく、慢性的な無智の結果なのです。嘘つきは、心を慢性的に汚しているので、死後、天国に生まれる変わることも、修行して解脱に達することもできなくなるのです。死後の幸福に対しては失格なのです。殺生はそれに比べると、それほど重罪にはならないのです。
ブッダの時代に、アングリマーラ長老が、九九九人の人間の指を首飾りにしていたという話があります。しかし、長老は悟りました。なぜなら、嘘つきではなかったからです。アングリマーラが人を殺したのは、自分が信仰していた神に対するお供えとしてです。「神のための生贄だから、被害者たちにとってはそれほど悪いことではないでしょう」と思っていたかもしれません。アングリマーラ長老は「真理を知りたい」と思っていたのです。嘘には反対の性格だったのです。
嘘はほかのすべての罪を正当化する審判役なので、罪のなかの王、「罪王」なのです。
■出典 『ブッダの質問箱』