【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「弁護士としての心がまえ」です。
[Q]
弁護士として、人と人との争い事を解決する仕事をしています。訴訟の一方に立って解決する仕事になりますが、仏教の考え方からして、どういった気持ちで仕事に取り組むことが良いでしょうか?
[A]
■「争う人は〝どちらも正しくはない〟」という真理
争い事の仲介をする場合は、自分に関係ある、自分がやらなくてはいけないという立場ならばやるしかないのです。自分と関係無いところで戦っている人々を仲裁しようとして、自分が酷い目に遭う場合もあるから気をつけなくてはいけませんが。
覚えておいて欲しいポイントは、「争う人は〝どちらも正しくはない〟」ということ。争っている人は自分のことばかり主張するのです。〝私〟が主張することを相手が認めないということは、相手にも主張するポイントがあるからですね。つまり〝私〟の主張は正しく無いですし、相手の言い分も正しくありません。
■仲裁者の仕事は納得できる「妥協点」の発見
ですから、双方が妥協できるポイントを探してください。でなければ何も成り立ちません。国際問題の場合でも同じやり方ですね。こちらがこのくらい要求する、向こうもこれくらい要求する。両方とも100パーセント主張を通すことは成り立ちません。そこで「お互いさま」の態度で、「では、これくらいでいかがでしょうか?」という compromising point(妥協点)に達しないといけないのです。
それを成功させるには、仲裁する人が中立かつ、両者が納得できる結果に達するように、というスタンスで仕事をしないといけません。そういうやりとりの結果として、時には、どちらも満足できる答えが見つかることがあります。「これなら文句なし」と、仲裁の仕方によって相手方が思ったより良い結果になる場合もあります。
争い事に際して、仏教では「争う人々はどちらも間違っている」ということだけ発見しています。ですから、仲裁人の仕事は、双方の主張を聞いて、納得できるcompromising pointを見つけることなのですね。
■弁護士の仕事にも「慈しみ」は不可欠です
弁護士として仕事をする場合でも、どちらにとっても良い結果を出すぞという「慈しみ」がないといけません。「それぞれの人に、それぞれの言い分があります」と理解しなければ、compromising pointが出て来ないのです。自分の側にcompromising pointが見えても、相手はそれに乗って来ません。ですから相手のことも慈しみで理解して、「あなたの気持ちはよくわかりました。あなたが要求することはその通りです」と、「しかしですね……」という態度でアプローチしないといけないのです。そうすると、両者とも一応自分に賛成してくれるのですね。
ですから、弁護士として争いごとに関わる際は、「どちら側にとっても良い結果を出してあげよう」という心構えであって欲しいです。
■出典