アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「有身見が無くなる条件」です。

[Q]

    煩悩で「有身見」とありますが、有身見の〝有身〟は物質的な肉体のことで、自分の肉体が変わらないものではないと認識すれば、有身見という煩悩は無くなるのでしょうか?

[A]

■「スピリチュアル・ボディは無い」と発見する


    あなたは論理的に考えれば真理という答えが出てくる、という勘違いをしています。みんな同じことをやっています。考えて答えを出そうと。そうすると、科学者は皆悟っていることになりますね。哲学者も悟っていることになります。そんなことはありません。
    物質として肉体があり、感覚や神経システムの働きなどがあります。普通の知識として、それぐらいはわかるでしょう。その肉体やシステムやその働きには、摩訶不思議な「自分」というものがいるんだと、それらを維持管理している実体として「自分」と言える何かがあると思っている。スピリチュアル・ボディがあると思っている。みな、そういう錯覚・幻覚を持っているのです。「そういうものはな無い」と発見することが、有身見が消えたということなのです。
    有身見は邪見です。私を例にしてみると、スマナサーラと名付けて呼んでいる肉体がここにあります。そして、そこに肉体とは別にスマナサーラというスピリチュアル・ボディや魂があると勘違いしているのです。肉体と関係なく別に自分というものを感じることがあるとか、思考・妄想と関係無い自分がいるのだと感じることがあるとか、そういうものが有身見という錯覚なのです。肉体に関係無い魂がある、という見解を生命が持っているのです。これは生命が道を誤る最初の障害です。
    スピリチュアル・ボディとか魂があると思えば、それに執着せざるを得ないのです。ということは、その見解があると永久的に解脱に達することはありません。答えは執着では無く無執着です。有身見とはそういうことなのです。
    「サッカーヤ ディッティ(sakkāya-diṭṭhi)」を日本語訳して漢字にしてみると「有身見」と書きますが、肉体的な物質のことを言っているのではありません。「カーヤ(身)」というのは肉体ではなく、システムという意味です。そのシステムには、スピリチュアル・ボディとか魂とかいうものは無いということです。


■出典     https://amzn.asia/d/fDA2zEy 

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