アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「カルマの結果について」です。
[Q]
ものを食べておいしいと思ったり、子供が悪いことをしてコラッ! と怒ったりした時の普通の欲や怒りはカルマとしてどのような悪い結果を現世でもたらすのでしょうか? また、ほとんどの人が貪瞋癡(むさぼり、怒り、無知の三毒)で生きていて、悪いカルマを作りながら生きていると思うのですが、それでもそれなりに本人たちが幸せと感じている場合が多いのはなぜですか?
[A]
■霧と雨のたとえで理解する
一つも具体的なデータが無いですね。人がそんなに幸せを感じているのかということは問題だし。刺激は感じるのですね、貪瞋癡で。刺激を感じてそれが幸せでしょうかね? プロレスラーがリングの中で試合をやっているでしょう。幸せですかね? ただ刺激を感じているだけでしょう? すごく苦しいのに。
《興奮しているというか、気持ちがあがるというか。》
こんなことを勝手に言っても実際、プロレスラーのみなさんの気持ちは私にはわかりません。人のことをあまりそういう風に考えない方がいいでしょうけど、一応、業というのは「露」みたいな感じなのです。霧に触れても濡れることは濡れるけれど、雨に降られて濡れるのとは違う感じでしょう。霧が出ている朝の森の中を歩くとなんとなく濡れているような感じがしても、家に入ってみると全然濡れてなくて大丈夫です。でもザーッと雨が降ったら違いますよね。ひどい時は服の中まで濡れてしまいます。業の働きもそういうことなのです。貪瞋癡があるからといって、それだけで重罪になるわけではありません。
《なんとなく湿っちゃうということですね?》
たまに良いこともすると、少しの湿りなら乾いてしまいますよ。子供に「コラッ!」と言うのはちょっと怒りなのですけど、工夫次第で怒りの感情なしに「コラッ!」と言うことはできます。普通は貪瞋癡で生きている人が、あえて不貪不瞋不癡の善行為をするとします。その場合、意図的に考えて、あえてやっているのだからかなり力が強いのです。毎日霧の中を歩いているような、いつも服が湿っているような感じとは違うのです。そのように、意図的に善に励むことで、かなり人生のバランスが整えられますよ。とりあえず意図的に善行為をする必要があるし、仏教の教える善行為には、「慈悲の瞑想をしなさい、生命に優しくしなさい」という精神が根本的に入っているのだから、それでみんな助かります。他宗教の方々のことはよくわかりませんが、隣人を愛したり困っている人を助けたりすることで、相手も救われます。
神に祈る時などは、欲望まみれのすごく汚い気持とで、貪瞋癡で自分の利益を求める場合は悪行為になるのです。神に祈る場合でも、「神様、全ての生命を助けてあげてください」と祈るとか、祈りのやり方によっては心が清らかになる可能性もあります。でも、神様に祈る暇があったら自分で何かした方がいいでしょう。神を信仰する人々にしても、隣人を愛したり、困っている人を助けてあげたりいろいろやっていますからね。
人間の生き方というのは完全な悪にもなりませんし、完全な善にもなりません。真っ黒にも真っ白にもならないということです。みんな善と悪をごちゃ混ぜにして生きる灰色状態なのです。だから私たちは、「少しでも白に近い灰色にしましょうよ」ということを提案しているのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
https://amzn.asia/d/7uWPWrQ

