【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】

 皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「嘘も方便とは?」です。


[Q]

 「嘘も方便」と言いますが、具体的にどのくらいの嘘なら許されるのでしょうか。

[A]

真理を理解させるためにある「方便」

 仏教では決して「嘘も方便」とは言っていません。そういうことを言う人々は、自分たちの気持ちを仏教に投影して勝手な言い訳をしているだけなのです。「嘘も方便」と言った時点で、その人は「事実は言えなかった」という自分の弱味――つまり、「自分には能力が無かった。巧みではない」という敗北宣言をしているのです。「他の方法もあったかもしれないけれど、簡単に嘘で人を騙して何とかしました」ということですね。だから「嘘も方便」というのは、無知な人の言いぐさだと理解した方がいいのです。方便は決して嘘ではありません。

 巧みな人・智慧のある人ならば、すぐに方便が見つかるのです。例えば子供たちに丸・三角・星形・四角といったいくつかの違う形を教えます。形を見分けることができなかった子供がいた場合、形はダメでも色は認識できるかもしれないから、そこに色を塗ってあげるのです。星形の穴があるところに赤を塗って、星形のブロックにも赤を塗る。そして、「同じ色同士のものを選んで」と質問を変えるとその子もはっきり理解して、チョイスを間違わなくなる。それが方便というものです。

嘘は決して「方便」になりません

 もうひとつ、悪いことをしようとしたキツネさんがひどい目に遭った物語を子供に聞かせるとしましょう。子供はそれが実際に起きたことだとは思っていません。お伽噺だとちゃんと知っているのです。でも、ストーリーに感動して「悪いことをしてはいけないんだ」と理解する。そういうものを方便と言うのであって、嘘をつくことは方便ではありません。

 俗世間では、例えば政府が戦争を起こしたい時、国民に本当のことを言ったら反対されるので嘘の情報で戦争賛成のキャンペーンを張るとか、そういう汚いことに「嘘も方便」と言ったりしますね。それは元々からして悪行為なのです。

 「方便」という言葉と、「嘘」という言葉をつなげること自体、屁理屈で失礼なのです。方便というのは、とても智慧のある人が人を育てるために使う教育手段です。プロの教育学者たちがたいへん苦労して開発するものであって、単なる嘘を羅列して並べているわけではありません。例えば数学の本を見ると、いかに面白く・気持ちよく・遊びながら、難しい数学を子供たちが理解してくれるかと工夫しているのが見えるでしょう。嘘を羅列して数学を教えることはできませんね。嘘をつくことは明らかな失敗であって、「方便」は巧みな人・智慧のある人にしか見出せないのです。



出典 『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編』