熊野宏昭(早稲田大学人間科学学術院教授)
井上ウィマラ(仏教瞑想研究者、マインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰、マインドフルネス・カレッジ学長)


マインドフルネスの指導者育成プログラムを展開する「Teachers」(https://mindfulness-village.com/)の主催による、井上ウィマラ先生の連続対談セミナーを載録していきます。今回は、井上ウィマラ先生と熊野宏昭先生による「マインドフルネスと時間といのち」をテーマとした対話です。“時間”をキーワードにブラックホールや悟りなど、宇宙空間への思考を通じて深い仏教理解へと誘う興味深いやり取りが交わされました。全6回でご紹介します。


第1回    3つの時間の定義


■熊野宏昭先生講義「3つの時間を巡る考察とローヒタッサ経」(1)

●時間とは何だろうという問い

熊野    よろしくお願いいたします。このオンライン講義などにしても、「ご参加していただいている皆さんと時間を共有する」という言い方をしたりしますよね。時間を共有するとは何か。時間というのは何なのか。我々が体験する時間や、生きる時間が我々とどう関わってくるのか。これがわかってくれば、生きていくうえで毎日がもっとヴィヴィットになるんじゃないか。見通しが良くなるのではないか。そんなことを考えて「3つの時間を巡る考察とローヒタッサ経」というテーマでお話をさせていただくことにしました。

図1.jpg 67.29 KB

    以下のものは、私が2022年12月にTwitterにつぶやいたことです。そのとき時間のことを考えていて、どうも我々が体験する時間には3つあるなと思ったのです。

図2.jpg 157.83 KB

    1つは我々自身が体験する主観的な時間。体験の中の時間ですね。それから物理的時間。勝手に流れていくといったらなんですが、原子時計で計る、宇宙の中で流れていく時間です。それから生物的時間。これは時計が示す物理的時間とは違って、一人一人の寿命と関わる時間です。

    ①生物的時間

    たとえば90年生きる人と、50年生きる人では、やはりその中で流れている時間は違うのではないか、と思うわけです。私も皆さんも、小学校・中学校・高校などの同級生がいますよね。同級生の中でも、なかなか年を取らないように見える人と、あっという間に髪も真っ白になって、しわだらけになってというように、早く年を取っていく人がいたと思うんですね。ですから「物理的時間とまたちょっと違った次元で働いている生物的時間というものがあるのではないだろうか」と、考えたわけなんです。
    この生物的時間というのは、「テロメア」つまり1つ1つの細胞に備わっている細胞にとっての時間を測る構造物が、だんだんだんだん、分裂を繰り返すと短くなっていく。そしてある程度以上短くなると、その細胞は分裂できなくなっていき、死に至る。そのテロメアが短くなる度合いは、人によって違うんですね。また、1人の人の中でも、テロメアが短くなる時間が早くなったり遅くなったりするということが知られています。テロメアはテロメアーゼという酵素で分解されているので、この酵素の量が多ければ早く短くなるし、酵素の量が少なければゆっくり短くなる。我々が日頃生きている生活の質というか、ストレスなどによってテロメアーゼのレベルが変化するのだそうです。我々の細胞の老化の速度が、我々がどのように生きるかで変わってくるわけですから大変ですよね。それが生物的時間の特徴ではないかと思います。
    我々にとってストレスがなぜ良くないかというと、すべて酸化ストレスというものに翻訳されます。酸化ストレスは、活性酸素を体の中に増やしていって染色体を傷つけたり、さまざまな組織を傷つけたりもします。酸化ストレスによって老化も進めば、細胞のガン化、ガンになるプロセスも早められてしまうことがわかっています。そして、この酸化ストレスは我々がどんな生活をするかによって変わってくるのです。そう考えると、どんな生活をするかによって生物学的時間の流れが変わってしまう、ということになるわけです。

    ②物理的時間と主観的時間の関わり

    たとえばクルマを運転していて渋滞で動かなくなったとしますよね。すると、物理的時間はずーっと流れていくわけですが、主観的時間は流れなくなってしまうわけです。この場合の主観的時間とは、どこかから出発して、どこかにたどり着きたいと思っているわけですから、「どれぐらい目的地に近づいたか」が主観的時間です。しかし、渋滞するとクルマが進まなくなってなにも変化しなくなる。でも、物理的時間だけは流れていきます。
    逆に道が空いていて1時間かかるところを40分で着けたとしたら、「あれ?    1時間主観的時間をかけるはずだったのに40分で着いちゃった」ということで20分、主観的時間が余ることになります。すると、物理的時間の流れよりも主観的時間の流れのほうが相対的に速くなったといえるんじゃないだろうか、と。これは、主観的に、物理的時間を追い越していく体験になるんじゃないかと思うわけです。つまり、一定の物理的時間の中で行動の量を増やすことは主観的時間を増やすということになり時間密度が高まる、すると物理的時間を追い越すことができる。反対に、だらだらしたり反すう(後悔)や心配(未来に対するいろいろな取り越し苦労)をしたり、先延ばしをしたりしていると時間密度が低くなって物理的時間に追い越されてしまう。そういう体験が得られるのではないかということになります。ここも生活の質ととても関係があるように思います。
    一定の物理的時間の中でいろいろな体験ができたら、我々はそれだけ豊かになる、変わっていく。あるいは、もしかするとそれだけ拘束されていってしまうかもしれないですが、でも体験の質が違うということになると思います。

図3.jpg 219.84 KB

    そして、一般の社会生活の中ではやっぱり物理的時間に余裕があるほうがいいと思ったりしますよね。いろいろな仕事をあっと言う間に終わらせられれば時間が余るので、のんびりできるとか、そうできたらいいな、と。だから時間を追い越すことができたらいいのではないかなと、そんなことを思ったりしたわけです。

    ③「することモード」と「あることモード」における主観的時間

    マインドフルネスというのは「あることモード」といわれたりもします。「あることモード」は、そこにいて世界を感じ取っているだけの時間。そういったものが我々を我々自身に立ち返らせてくれる、そんなモードです。それに対して「することモード」というのは、社会の中で我々が目標をもって何かを実現するために働こうとする時間です。この「することモード」と「あることモード」で3つの時間の関係というのが変わっているのではないかと、ふと思ったのです。
    皆さんも体験があるのではないかと思うのですが、瞑想をしているときって時間の経ち方が違っていますよね。どうなってるんだろうかと、考えてみたのです。
    普段目を覚まして何か活動している、社会の中で何か目標を持って目的を持って生活している「することモード」では、生物的時間は、ほぼ物理的時間と一緒に流れていく。つまり時計の進行とともに老化は進むわけですね。でも、主観的時間は、先ほど言ったように密度を高めると、物理的時間が余るので、その中でまた新たな体験ができる。あるいは、主観的時間と物理的時間はある程度、ずれるのではないか。つまり、時計の進行とともに生物的時間と物理的時間は進んでいくけれども、主観的時間はそれとは別に流れていくのではないか。
    ではそのとき、この生物的時間はどうなっているかというと、おそらく時計とともに我々は年老いていく。あるいは成長していくだろうと普通、考えるわけですよね。この生物的時間の経ち方の個人差はあるようですけれども、1人の人の中では比較的一定の速さで過ぎていくのではないか。そしてそれは時計で測れるのではないか。だから、5歳になって・10歳になって・20歳になって・40歳になって、というのが意味があるのではないかということですよね。普通に目を覚まして、社会生活している状況では、生物的時間と物理時間はほぼ一緒に進んでいく。それに対して「体験する主観的時間」は、そのときそのときによって、密度が高まったり、間延びしたりするということが起こってくるということです。

図4.jpg 197.54 KB

●瞑想中の生物的時間

    我々は瞑想中にどんな主観的体験をするかを考えてみると、「あることモード」では主観的時間が逆行したり消えたりするということがあると思うのですね。何か時間と離れた体験をするとか、あるいは何か時間が逆戻りしていくような体験をする。そういうことも瞑想をする皆さんは、多かれ少なかれあるのではないかと思うんですね。
    瞑想で主観的時間が逆行していたとしても時計は過ぎていきます。たとえば30分瞑想する。で、ふっと目を開ける。なんかほとんど時間が経ってないような気がする。あるいはものすごく長い時間が経ってしまったような気がする。でも、いつものように目を開けると、30分経っている。すごく不思議ですよね。だいたい30分ぐらい瞑想する経験がある人、20分ぐらいの人、40分ぐらいの人、いろいろいると思いますが、30分瞑想しようと思って始めると、ほぼ狂わないですよね。だいたい30分ぐらいで「今ぐらいかな」と、ぱっと目を開けると30分ぐらい経っている。でも、そこで体験している主観的時間は、そういう時間ではありません。面白いですね。主観的時間は主観的時間として体験していながら、時計は時計として流れていって、それをまた感じ取る部分が我々の中にあるということですね。
    そしてこのとき、実は、生物的時間は物理的時間と乖離するのではないか、と私は思うのです。「することモード」では生物的時間と物理的時間は、ほぼイコールで流れていた。でも、瞑想しているときは、生物的時間は主観的時間とどうも近くなるのではないかという気がするんです。これ、今日の話の中で一番皆さんが納得いかない、あるいは一番面白いところかもしれないですよね。
    瞑想していると若返っているのではないかとか、時間が止まっているのではないかと感じることがあって、そのときに我々の体はどうなっているのだろうか。体も若返ってるのではないかと私は思うんですね。だから主観的時間とともに生物的時間も逆行したり止まったりしているんじゃないのかな、と。これは理屈ではなくて実感として、そういうことはあり得るのではないかと考えてみた、ということです。

図5.jpg 229.97 KB

●情報やエネルギーの出入りと時間の流れ

    では、集中瞑想をしているとき、何が起こるのか。集中瞑想というのは、「無念無想になりなさい」というインストラクションですが、我々は無念無想にはなれないんですよね。厳密に言うと、なれないわけではないですが、普通は無念無想になろうとすると逆に雑念が、どんどんどんどん出てくるという経験をします。これは瞑想をしている皆さんは誰でも経験していますよね。
「雑念が出てくることは別に悪いことじゃない」ともよく言われます。雑念が出てきたことに気づくことが大事なんですよ、今こういう雑念が浮かんでいるということに気づくことが大事なんですよ、その雑念とどう関わっていくかを体験することが大事なんですよと。
    つまり、無念無想になろうとすると、むしろ雑念が出てくるということが、メカニズム上あるのではないか。これは何なんだろうか。雑念というのは、だいたいは過去のことが多いと思うんですね。自分の中に溜め込んだものが、だんだん、だんだん浮き出てくるというようなことが起こります。
    我々が普段「することモード」で生活しているときは雑念が次々と浮かんでくるようなことは起こらないんですよね。「することモード」というのは、情報やエネルギーを取り込むモードなんですね。何か体験をする、何かを覚える、何かを味わう。それはぜんぶ外から自分の内側に情報やエネルギーが流れ込んでくることです。私は若い頃、とくに中学のころでしたかね、自分というのがなんだかすごく不自由な気がして、自分の殻を何とかして破りたいと思って、「もう今までの生き方を変えよう」と一生懸命、自分の殻を壊すようにがんがん頑張った時期がありました。で、1年ぐらい経った頃にふと気がつきました。今までの小さい、優等生の自分の殻は確かに少し壊れたなと。ま、頑張りましたからね。でもその外側に、もっと大きな強固な殻ができているわー、と思ったんですね。なぜかというと、殻を壊すということも我々にとって体験ですから、その体験によって、情報やエネルギーが取り込まれていきます。だから新たな情報やエネルギーを取り込んで、より強い壁みたいなものができてしまったということなんです。
「することモード」では、必ず情報やエネルギーは外から内側に流れ込んでくる。ところが「あることモード」では、とくに集中瞑想をするときは、何もしない、何も取り込まないでいようとするので、そこが逆転するのではないか。そしてそこで内側から出てくる情報やエネルギーが「雑念」なのではないかと私は思います。だから、いろいろなものが、どんどんどんどん浮き上がって、解放されていく。
    すると、ここでは時間が逆転して流れているのではないのかな、ということなんですね。普通は何かを経験すると、それが取り込まれて、時間がたとえば一分流れる。また一分流れる間に取り込まれる。でも集中瞑想している間というのは一分流れると、昔のことが外に浮き上がって出てくるわけですから、時間がそこで逆転しているのではないか。だからこのときの時間は「主観的時間であり生物的時間」だと思うんです。つまり、生物的時間も逆転しているのではないかというような感じがするのです。
    瞑想すると出てくる余計なものを我々はいっぱい自分の中に溜め込んでいて、そうなると脳も疲れていき体も疲れていきますから、老化が進みます。ところが、自分の中に溜め込んだ歪みを解放していくと、脳が若返っていくんですね。脳機能が若返ってリフレッシュされている。どうもそういうことが起こっているようだと。生物学的にもこういったデータも一部あると思います。

●主観的時間が逆行すると、生物的時間もそれにならう

    では、観察瞑想はどうか。観察瞑想は自分というものから離れていく瞑想なので、自分を作り出す意識の働きや言葉の働きから離れていきます。自分というものがなくなっていけば、時間もなくなっていくと思うんですね。主観的な時間を作り出しているのは「私」ですから、私の考え、私の言葉、私がなくなっていくということは時間もなくなっていく。
    だから観察瞑想では、主観的時間がなくなっていく。時間の感覚が希薄になって無時間の体験が続くようになる。この無時間の感覚、無時間の体験というのは、おそらく体にとっても非常に負荷が小さい。そうするとこのときは体の修復機構がかなり働いて、やっぱり脳も含めて体も若返っていくのではないか。そんなふうに感じます。
    だから集中瞑想であれ観察瞑想であれ、主観的時間が逆行したり消えたりする。それに伴い生物的時間も逆行したり、あるいは消えたりするということが起こっているのではないかと思います。

「することモード」では生物的時間が物理的時間であり、時計とともに我々は成長して年老いていく。
「あることモード」では生物的時間は主観的時間なのではないか、と考えると、問題解決的に生きているときは物理的時間の流れとともに成長老化が進みますが、瞑想的に生きているときは主観的時間が記憶を解放することで逆行したり、観察瞑想で我々が感覚にとどまることによって主観的時間が消えれば、生物的時間もまた消えたり若返る、ということが起こるのではないか。そういうことを考えました。


2023年4月1日オンライン対談
主催:Teachers(https://mindfulness-village.com/)
構成:川松佳緒里



第2回    禅定体験は宇宙の果てへのワープか