アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「愛と慈悲喜捨の違い」です。

[Q]

    慈悲の瞑想をする時、「慈しみ」と思うと意味がわかりにくいです。そこで「愛」と言い替えるとしっくりきますが、そうすると愛着や溺愛などに繋がってしまうから良くないでしょうか?


[A]

■ブッダの四無量心を理解する

    これは良くない言い換えですね。ブッダはそういう言葉は危険だと捨てています。「愛」という単語に繋がってくる悪がいっぱいあるからです。
    悟っていない・真理を発見していない人の中には、精神的なことを語ろうと、他の人にもうちょっと良いことを教えてやろうではないかと企む人がいて、特にいろんな宗教に凝り固まっている人は、よく愛を謳っているのですね。
    ただ、その人たちが真理などわかっていないのに、手っ取り早く見つけたのが「愛」なのですね。
    でも、説明するとなるとお手上げ。感情だけで語るのです。私は研究して調べてみたのですが、キリスト教の「愛」という言葉には定義も無く、どう扱えばいいのかわからないのですね。すごく曖昧・中途半端です。「LOVE」という言葉を欧米人が使いますが、すごく汚いことにも使っちゃうし、美しい状況でも使うのですから、言葉自体がカオスになっています。
    だから気をつけなくちゃいけないのですよ。この言葉の正しい使い方はお釈迦さまが正しく完全に説かれているのです。でもそれは人間にできることではありませんからブッダの言葉には一つも曖昧さが無いのです。だから、わからなくても仕方が無いのですが、いつかわかるように頑張って欲しいのです。ブッダの言葉から脱線せず、俗世間の言葉に寄って行かない方が宜しいと思いますね。

    どうしてもわからないなら、これからブッダが教えた「慈・非・喜・捨(mettā karuṇā mudltā upekkhā)という四つの慈しみの気持ち、四無量心の解説をしますので、それを読んで理解して下さい。
    そもそも「慈しみ」は、私たちには 本来無いものなのです。「愛」は、いつもどこにでもあるものなのです。瞑想は、本来無い能力を育てることですからもうちょっと頑張らないと。愛は苦しみの元で、慈しみは安らぎの元なのです。
慈mettā(maitrī)とは、全ての生命は自分と同じ仲間であるという友情の気持ちなのです。
    例えばカメムシを見て、「あぁ気持ち悪い」と思っちゃうと慈しみが入っていないことになります。カメムシもカメムシの世界で頑張っているのですね。あの臭いは攻撃を受けたら身を守るために出すことで、「あぁ、私だって攻撃を受けたら反撃しますよ」と。お互い様ですね、と思っちゃうと、何となく「可愛い」という気持ちが生まれて来るのですね。だから、「友情」mettā。
    悲karuṇāは「抜苦」という意味です。困っている生命にはちょっと助けてあげるという、それだけのことで心の安らぎになりますよ。
    喜mudltāというのは、生命の幸福・生命の成功を喜ぶこと。鳥たちがヒナを育てて、一生懸命、明るく頑張っているのを見ると、「あぁ、元気で頑張っていますね!」と喜べるでしょうに。みんな一生懸命、自分の世界で、自分の生き方で頑張っているんだと。それで喜べるのです。上手く行かなかったら死にますね。だから生きているということはそれなりに上手く行っているということなのです。そう感じて「あぁ、それなりにみんな上手く行っているんだ!」と、他の生命の成功ぶりを喜んでみるとすごく穏やかな安らかな気持ちになってきます。
    捨upekkhāを私は「平等心」と訳しますけど、漢訳仏教語では「捨」と訳されています。ちょっと難しいのですけど、パーリ語の意味あいだと「感情を持たずただ見守っている」というニュアンスなのですね。具体的に実行するのはちょっと難しいのですが、自分ではこの何の差別感・区別感も捨てて「全ては生命だ、みんな生きているんだ」という感じで観ることなのです。
    そういうわけで、ブッダの慈しみは「愛」とは全く違う世界なのです。本来、私たちにある感情ではなくて、これから育てるべきものなのです。そういう風に理解して、頑張った方が良いと思います。

■出典    『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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