アルボムッレ・スマナサーラ


新型コロナウイルスの出現による様々な困難に、2600年前から続く仏教は、どのような思考で向き合うのか?   私たちがこれからの時代を幸福に生きるために必要なお釈迦様の智慧をスマナサーラ長老にお尋ねした。  

第6回    ディスコミュニケーションの処方箋と感染対策

編集部    コロナ禍でオンラインでの交流が増え、直接的なコミュニケーションの場が減りました。オンラインでもリアルな交流に近づけようとする工夫や、人との接触が減った寂しさへの対処について、どう考えればいいでしょうか。

■オンラインも上手に活用しつつ

     私は、コミュニケーションはオンラインであろうと対面であろうと、同じだと思います。いろいろなコミュニケーションの仕方がありますからね。人と必ず会わなくてはいけないということでもないし。リアルに会って楽しいと思うのはほんの少しの時間で、リアルで会うとストレスがかかりますから。ちょっとしたメールにしても、慈しみで応えれば相手は喜びますよ。
     家からのリモート会議で、子どもが映ったりすることもよくあるみたいですね。私もテレビの料理番組に突然子どもが割り込んでしゃべったりしたのを見ました。とても美しい光景です。お父さんが料理研究家で、テレビの料理番組にリモート出演していたんですね。家から料理の説明をしている最中に、小さな女の子が「お父さん、何をやってるの?」とか聞いたりするんですよ。超かわいいでしょう。そこでいったん説明を中断して、その子に「座っていてくださいね」と言って、また番組が始まるんです。そのように、状況や時代によって生活の仕方は変わるのだから、明るく生きるために、その都度その都度、調整するしかないのです。それでいいと思いますよ。
     オンラインでできないこともたしかにあります。仏教でいえば、お経をあげたりお布施をしたりするのは、オンラインではちょっとね。お医者さんに注射を打ってもらうことも不可能です。一方で、オンラインのほうが実際に会うよりうまくいくこともあります。人との交流も、オンラインのコミュニティを作って、気の利いたシャープな言葉とか、皆が引用したくなる言葉とか、かっこいい発言をどんどんすればいいと思いますよ。

編集部    ありがとうございます。もうひとつコミュニケーションということで言うと、ワクチンの賛成・反対派もそうですが、お互いに違うデータを取って「こちらが正しい」と主張し合って譲らず、対話にならない「分断」が強まっているように感じます。どうにかして分断のない世界へ向かうべきと思いますが、いかがでしょうか?

■狭い考えで主張する分断思考

     ディスコミュニケーションについて、お釈迦様はものの見事に「見解の問題」だと解説しています。
     コロナに限らず、人が何か狭いものの見方でデータを見ると、データは見解になります。見解になったデータを「これこそ正しい、ほかは間違っている」と言い張るのですね。キャパシティ不足によって「他の意見もある」ということが理解できないのかもしれません。あるいは自分の発見に執着しているかもしれません。
     何か一つの意見・データを取って見解を作っている狭い人は、他の意見もあるということを理解できないんですね。だから自分の意見が正しく、他の意見は不毛で嘘だなどと言ってケンカまでいってしまいます。コミュニケーションの分断というのは、それだけのことですよ。
     この問題を解決するアプローチは誰もわかっていないんです。ずばりと的を射ているのはブッダの言葉だけ。自分の主観、つまり「見解」が原因だよ、ということです。人は自分の見解しか理解しないのです。アメリカ人にとっては「アメリカ人の考えこそが正しくて、タリバンなんか人間じゃない」ぐらいに思っているでしょう。しかし、タリバンの人々と話してみれば、それなりに何かしらの考えをもっている可能性もありますよ。
     結局は「こういう人がいる」「この人はこういう考えなんですね」と理解すればいいだけのことです。もし私にムスリムの友達がいれば、「この人はハラールの(戒律で許されている)食べ物しか食べないんだ」と知っておけばいいだけです。もしもムスリムの友達が家に来たならば、私は野菜の料理を作ります、と。「そうしないと問題でしょうから」と言うだけです。「肉を料理するからとにかく食べなさい」とチキンを出しても、ハラールでないから食べられません。付け合わせの野菜があっても、「もしかしたらチキンの油が一滴でも入っていたらとんでもない」と思いますからね。ですから、相手の人のそういうところは批判しないで、シンプルに「今日は野菜だけにしましょう」あるいは「精進料理にしましょう」とすれば、それで話が終わりです。相手に合わせたからといって私がイスラム教になったわけではないし、相手が仏教徒になったわけでもないのです。

■「相手にも見解がある」と理解する

     分断の問題は、「見解」の問題なのです。あなたも見解を持っている。自分も見解を持っている。誰でも見解を持っているのだから、また他人の見解はなくせませんから、そのことを理解して、うまくコミュニケーションをとったりして、平和な振る舞いをすればいいのです。
     対話ができれば、ディスコミュニケーションは解決です。正反対の見解を持っている二人が、「話し合いましょう」と言って対話をする。それは特別なケースですね。対話したからといって自分の見解を相手が認めてくれるかはわかりません。また、自分に相手の見解が理解できるかもわかりません。ただ、相手のことが理解できますね。
     私はけっこうイスラム教の人と対話をしましたけど、私はムスリムにならなかったし、向こうも仏教徒になりませんでした。しかし、対話の結果としてお互いの価値観をよく知っています。イスラム教の人に「食事を作りますから来てください」と招かれたこともありますよ。相手はとても緊張していたんですね。なぜなら、食べるものや食べることに関して、イスラムのようなハラール(許されている)・ハラム(禁じられている)があるだろうと思って、一生懸命気をつけてくれていたのです。仏教にはそういう決まりはないのですが、相手の気づかいはわかりますから。そういうふうに心を通わせれば、「お互い仲良くやりましょう」という気持ちになりますよ。

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     自分の意見を誇示するというか、「あなたの意見は間違っている」と言ったら、もう終わりですよ。そうではなくて「あちらにも見解がある」というところで止めておかなくてはいけない。できる範囲で学んで、どうやって折り合いをつけるかと考えればいいだけなのです。
     面白いですよ。キリスト教もイスラム教も同じ神を信仰している一神教でしょう。だったら「同じ神を二つの方法で信仰しているんだよ」と言えばすむことなのに、そうはなりません。「自分の見解は正しい」とケンカする話にすぐいってしまうんですね。
     みんな、見解がなければ、いくらでも話し合えるとわかっていないのです。見解がなければ、なんでも理解できるということをわかっていません。見解を持たない人にはみんな負けるということを理解していないのです。