アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「慈悲を携帯して生きるためのヒント」です。

[Q]

   
機関誌『パティパダー』に「慈悲を携帯しよう」「慈悲を携帯する方法」という文章が載っていました。たいへん感銘を受けたのですが、慈悲を携帯して生きるためのヒントをもう少し頂きたいのです。

 
[A]


■慈悲が心の中で最優先されること

    慈悲を携帯するというのは、簡単に言うならば、いつでも頭の中で「生きとし生けるものが幸せでありますように」という考えが出てくることです。慈悲が心の中で最優先されることです。それ以上、あまりあれこれ考えない方がいいです。「幸せとは何か?」とか、「なぜこの人が幸せにならなければいけないのか?」とか、そういう理屈はどうでもいい。腐った自我であれこれ考えること自体が間違いです。私たちには自我中心にしか考えられないという認識の問題がありますから、いくら考えても、どこかでぶつかってそれ以上進めなくなってしまいます。そうではなく、すごく単純に、軽く、軽く、「幸せでありますように」「どんな生命でも幸せでありますように」という気持ちでずーっといることです。やってみれば。「すごくスムーズに、気楽に生きているのだ」と自分で実感できるようになります。

■すべて忘れても慈悲だけは残るように

    エピソードを一つお話します。私が生まれた村の、親みたいな存在のお寺の住職は、立派な学者でもあったのですが、村人と普通に生活して冗談ばかり言っていました。若者にはかなり人気で、しかもすごく精密に出家者としての生き方を守っている。見栄もはったりも何も無い人でした。その長老が最期の時、「もうご飯も何もいりません」と何もしゃべらなくなったのです。周りの人々が何を訊いても、ただ「(生きとし生けるものが)幸せでありますように」とだけ答える。そして笑顔は絶やしません。それは「慈悲の携帯」ですよ。長老はすべて俗世間との関係を切ってしまったのです。何も考えないから、唯一残ったのは慈悲だけ。すばらしい人生でしょう。そのようにすべて忘れても、慈悲だけは残るような生き方をして欲しいのです。

■仏道を歩む人は認知症も恐れない

    今の日本でみんなが心配しているのは認知症でしょう。認知症になるとどんな人間になってしまうかわからない。現代医学でいくら脳を回復させようとしても、俗世間のレベルで回復するだけです。決して、俗世間のレベルを超えることは知らないのです。ですから認知症は大きな問題になっています。でも仏道を真面目に歩んでいる人には、認知症は問題になりません。認知症になっても誰も気づかない。いろいろ忘れているけれど、自分の修行のことや慈悲の瞑想のことは憶えている。今話している相手が実の子供だと気付かなくても道徳は教えてあげるのです。そういうのは不幸な老後でしょうか?
    皆さんに慈悲を携帯して欲しいのはそういうわけです。脳が壊れたらどこが壊れるかわかりません。でも慈悲を携帯して生きれば、道徳を携帯して実践し続ければ、その部分は壊れないのです。これは昔からいくらでも実績があります。貪瞋痴(とんじんち/むさぼり、怒り、無知の三毒)には破壊力があるのです。脳細胞を貪瞋痴で動かしていると、脳の弱いところから破壊していきます。反対に、不貪不瞋不痴には生成力があります。不貪不瞋不痴で働く部分は壊れないのです。慈悲が呼吸するのと同じになれば、例え認知症になっても心配いらないのです。すごくしっかりした人間に見えますし、そういう人は認知症だと判断することもできません。

■慈悲の携帯とは「生きた仏教」

    ブッダの道を実践して亡くなる人は、私が知っている範囲では、面白いことに「これが自分の寿命だ」とすぐわかるのです。その時が来たら突然倒れる。そして治療もすべて断る。周りのみんなは一生懸命治療しようとしますが断ります。死ぬことに対して、もう微塵も恐怖感が無いのです。今まで心配して悩んできた子供のことなども、きれいサッパリ棄てているのです。親がそういう境地になると子供にとってはキツイんですけどね……。そういう方々から私はよく学んだのです。彼らは出家の私から仏教を学んだつもりかもしれませんが、実際には私が彼らから仏教を、経典の知識ではない「生きた仏教」というものを教わったのですね。「慈悲を携帯する」という言葉で軽く表現したのはそういう生き方のことなのです。


■出典       『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編2」

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