【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「読経とヴィパッサナー瞑想は関係がありますか?」という問いに、スマナサーラ長老が答えます。
[Q]
お経を唱えること(読経)と、ヴィパッサナー瞑想とは関係がありますか? お経を唱えている時にヴィパッサナー瞑想をするのですか?
[A]
■人生に失敗する理由
関係ありません。それが答えです。しかし、あなたの質問の裏に何か考えがあります。それはあなた自身でも気づいていないことです。少しそれを説明します。
この答えは質問と直接関係は無さそうに思うかもしれませんが、しかしこれはあなたの人生・生き方に関係あるのです。他の方々にも同じく関係があります。説明は言葉が厳しくなります。「お経を唱える時にヴィパッサナー瞑想をするのか?」と質問されましたが、これは別々な二つの行為です。一緒に行うことは不可能です。ヴィパッサナーの基本は行為を一個ずつ行うことです。二つの行為を同時にやってはいけない、という決まりを派手に明確に理解していただくために、大胆な喩えを使って説明します。では、言葉を入れ替えます。
問い1:トイレに入った時、どのようにご飯を食べますか?
問い2:食堂でご飯を食べる時、どのように排便をしますか?
この二つの質問に、出すべき答えを考えてみてください。
人間が人生を失敗しているのは、同時に二つの行為をやっているからなのです。食堂でご飯を食べながら排便もしているようなことになります。結果として、両方失敗します。排便をすることは悪いことですか? 食事をすることは悪いことですか? 両方とも、必ず行わなくてはいけないことです。しかし、決して同時にやってはいけないと戒めているのです。
■今の瞬間にはひとつの行為
今の瞬間では、ひとつの行為をするべきなのです。そうすると行為を失敗することなく、完了することができるのです。行為を完璧に終わらせることで、誰からも批難を受けませんし、失敗した人間にもなりません。皆さんはヘンな喩えだと思われるかもしれませんが、これは大事なことなのです。よく覚えておいてください。これを理解すれば、たちまち人生が変わるのです。格好をつけてはいけません。
皆、本を読みながら音楽を聴いている。歩きながらスマホをいじっている。そういうふうに同時に二つの行為をしようとしているのを見たら、「この人はご飯を食べながらウンコをしている」と思ってください。このような行為は動物がよくやっています。同時に二つの行為ができると思って、人間は威張っているつもりですが、実際にしているのは動物並みのことなのです。
ヴィパッサナー瞑想で教えていることは、英語のフレーズで申し訳ありませんが「one at a time」なのです。これは「一個ずつやってください」という意味です。「同時に二つできません」と言っているのです。ヴィパッサナー瞑想のように大それたことでなくても、皆さんが自分自身の生き方・人生を改良したければ、「ひとつずつやる」ということで、見事なほど心に安穏が生まれてくるのです。
今言った「ひとつずつやると失敗しない、必ず成功する」というのは大それた言い方です。しかし、これは決して大それたことではなく、いかなる行為にも「ひとつずつ行う」ということを適用・適合させれば、それはヴィパッサナー瞑想になります。
■ストレスの無い生き方
例えば、私はお経を唱え終えてから立ちました。その瞬間ででも、一個ずつやるのです。服を着替える時、シャツを脱ぎながらズボンを下ろす、という調子ではダメです。それでは瞑想にはなりません。手を移動させながら、シャツのボタンをひとつひとつ外していきながら、次へ次へと進んでいくのです。それが人生・生き方全体にできる人は、常に安穏で生活できるのです。ストレスのない生き方が現れてきます。悩みが消えてしまうのです。
なぜならば、悩むことがバカバカらしくなってしまうからです。例えば帰宅して靴を片方脱いだとして、次にどうするべきかと悩みますか?「どうしたらいいかわからないから、誰かに聞かなくては!」と思いますか? バカバカらしいでしょう。反対の靴を脱げばいいだけです。ですから、ひとつずつ行うことで何のために悩むのか、とバカバカらしくなるのです。悩むという問題が生まれてこなくなるのです。それを理解したならば、悩んでいる人を見るとバカに思えるほどです。お釈迦様はハッキリそういう人を「愚か者」だと言っています。ポイントはシンプルです。「ひとつずつ行う」こと。
■「ひとつずつ行う」がわからない理由
問題は、私たちはあまりにも獣の心をしているせいで、「ひとつずつ行う」ということを学んでも全然身に付かないのです。しかし、何としても「ひとつずつ行う」ということが身に付くようにしてください。今からどんなことでも一個ずつやってみるのです。これは真理です。なぜならば、ひとつずつしかできないからです。例えば今、私はしゃべりながら、わざと手を動かしています。皆さんは同時にやっていると見えるでしょう。そう思っているでしょう。しゃべりながら手を動かしていると。
本当は、精密に調べると同時にはやっていないのです。別々の行為を、別々な時間でやっているのです。これに中々気づかないのです。そこまで精密に行為を観察できれば覚っているぐらいです。難しいのは、アビダルマの計算によれば心は光(物質)の速度よりも十七倍速いので、それに比べれば物質の速度はずいぶん遅いことです。だから、私たちは同時に行為を二つできる、していると思っているのです。心よりも物質は遅いのです。同時にいくつもの行為をしているというのは、単なる錯覚です。行為は同時にできません。あくまで、ひとつずつなのです。
現代的な知識を持っている人々、電子機器やIC(集積回路)などPCのデジタル知識を持っている人々は、CPU(中央演算処理装置)などはマルチプロセッシング(複数の並行処理)をしているのではないかと思うかもしれません。CPUはどんどん変化しバージョンアップしていきます。最新のものは、ひとつの回路で同時に八つの仕事ができると言っていますが、実際にはそうではなくただ八つの回路があってそれぞれが仕事しているだけなのです。この例を人間に当てはめると、ひとりの人間の中で8人が活動するようなことです。しかし、ひとりの人間の中に無数の人間がいるわけではないのです。
■認識のまやかしを破る
ただ、こころは物質よりはるかに速いので、同時に二つの行為をやっているような錯覚が起きます。テレビの映像を観ることと音声を聴くことを同時にやっているように見えるのです。光の速度より十七倍速い心には、映像が消える前にそれを観て、次に音声が消える前にそれを聴くことができるのです。それから瞬時に、その二つの行為を合体させて、ひとつの行為だと認識するのです。私たちはテレビを観ると、映像を観て楽しんで、音声を聴いて楽しんで、面白い、面白いと笑って、同時にポテトチップスをほおばって、お茶も飲んで、また足を振ったり、首を回したりもするのです。同時に数えきれないほどの行為をやっているようですね。しかし、それは錯覚です。一個ずつ丁寧に行う、というヴィパッサナー実践をやってみれば、心が同時にたくさん仕事をしないことを発見できるのです。この発見は簡単ではありません。時間をかけて実践しなくてはいけないのです。同時にたくさんの行為ができるのだと思うことは錯覚です。そう錯覚している時、心に集中力も力もありません。錯覚をやめるために、一個ずつ丁寧に行う、ということを実践しなくてはいけないのです。
たくさんのことを同時にやろうとすることは、欲・怒り・怠け・無知などの感情に支配されていることです。人がたくさんの仕事を同時にできることは、素晴らしい能力だとも思っているのです。しかし、気づきをもって一個ずつ実行する人のスピードには敵わないと思います。
■結論
では、結論を言います。お経をあげる時は、集中して、落ち着いて、真剣に読誦します。経典の言葉も理解します。瞑想実践の時は、読誦をやめて気づきを実践します。それぞれ互い違いの行為を一個ずつ行った方がよいのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編3』