アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
先日、二十二歳の若い女性プロレスラーが自殺したニュースを見ました。SNSでの誹謗中傷が原因のひとつではないかと言われています。なぜ死を選ぶほど追い込まれてしまったのか、心の整理がつけられません。仏教的にどのように考えるべきでしょうか? また、今の時代SNSとどのように付き合っていくべきかご助言をいただけるとありがたいです。
関連して、自殺をしてはいけない理由は何でしょうか? 自殺をすると死後どこへ行くのでしょうか?
[A]
■危険な世界に生きていると自覚する
原因は一つ、明確です。皆、SNSに書く連中が真剣・真面目に書くと思っているから、被害を受けてしまうのです。SNSのコメントを読む時は、「どこかの愚か者がいい加減なふざけたことを言っているんだ。ひどい皮膚病に罹ったケモノが、痒さのあまり吠えているのだ」と、そういうふうに思ってください。
一般的にインターネット上のコメントというのは、自分が重い病気だということを吐露しているだけです。なぜそんな言葉を真に受けるのでしょう? 皆さんにも責任があります。今、私たちが生きているのは情報化社会です。私たちは「世界の情報を瞬時に知ることができる、進んだ世界に生きているのだ」と自慢している。それは私たちの先祖を差別して馬鹿にしていることにもなります。実際は、情報化社会どころか、フェイクニュースの氾濫で踏み潰された社会に生きているのです。科学知識がなくても、昔のおじいさんおばあさんたちは私たちのことを心配して、ものを言ったのです。祖父母・親・師匠に躾られたとおりに生きてみて問題は無かった。今の親たちはネットから最新情報を得ています。その情報に騙されているから、現代は親の言うことも信頼できなくなっています。親の心もフェイクニュースに汚染されているかもしれません。ですから、情報化社会は安心して平和に暮らせる社会ではありません。昔は、争いで互いに殺し合いをやっていましたが、今はSNSで他を殺そうとしているのです。昔は被害にも上限がありましたが、現在のはそれすらありません。世界中です。今、生きている世界とは、人の言うことがさっぱり当てにならない世界なのだと理解して下さい。誹謗中傷はやりたい放題の世界に住んでいるのだと自覚して下さい。
■鍛冶屋の犬のように
あるスリランカの動画チャンネルで、フリーランスのジャーナリストが個人でデータを出して鋭い政治批判をやっているのです。他の人々は彼が政府を批判することに腹を立てて、恐ろしい誹謗中傷を浴びせています。放送できないような汚い言葉で、とにかくそいつの人格を壊してやるぞ、という狙いで。しかし、そのジャーナリストは本当に立派な人だから、「我々に向けてこういうメッセージが来ています」と、放送してはいけない下品な言葉は消したうえで画面に公開するのです。それからヘッヘッと笑うのです。「われわれメディアの人間というのは、鍛冶屋の犬みたいなものですからね」と。これはスリランカの諺で「鍛冶屋に飼われている犬みたいだ」と。隣でガンガン金槌の音が響いていてもぐっすり寝ていられます。もう騒音に慣れてしまって平気なのです。
■一人ひとりが進化すること
私たちもSNSに慣れるしかありません。決して信頼できませんが、たまに本当に智慧の効いた言葉を言う人もいるから「見ないでください」ということも言えないのです。見事にワンフレーズで言いたいことをピシッとまとめて批判する立派な人々も世の中にいるのです。批判された側もかえって喜んじゃうくらいの。
SNSの誹謗中傷に悩んでいる人に対するアドバイスは、「気にするなよ。あの連中は病気で叫んでいるんだ」ということになります。そうでないと、自分の身を守ることはできなくなります。自分の身の安全も考えてください。SNSに書き込む人々は、自分の部屋の中という安全な所にいるノリでいるだけです。人前で面と向かって、そんな乱暴なことを言えるでしょうか?
SNSに書き込む場合は、誰が読んでもだらしない人格破綻者だと思われないように、頭がおかしい救い難いバカ者だと言われないように、という気持ちで気を付けて書く方が良いのです。私もたまにネットでコメントを書くと瞬時に非難や侮辱的な言葉が返ってきます。私は全然、気にもしませんが、その中で返信が必要な場合のみシャープな言葉で返事はします。そうでない場合は、どうぞ、ご勝手に、さようならと無視して終わってしまうのです。
そういう風に、現代という時代に合わせて各自が進化してください。世界は直せません。私たち一人ひとりが進化するしかないのです。
■変化する世界に対応する「抗体」を作る
自殺云々はまた別の話です。人間がどれほどアホかという、テレビ番組などでやっているのは演技であって、あくまでも作られたキャラクターでしょう。派手にやった方が顔が売れますし、高額な出演料で生きているのだから、全てパフォーマンスでしょう。一部の視聴者にはそんなことが理解できないのですね。エイリアンの映画を観たら、本気でエイリアンが襲ってくると思っているんでしょうか?
私が言いたいのは、やはり「進化してください」ということです。世界は日々変わるのだから、私たちもそれに対応できるような「抗体」を作らなくてはいけない。「抗体」ができなかった人々はそこでストップするのです。適者生存という進化論の価値観では、自殺した方は残念ですが、この社会で生きられないから適者ではない、ということになってしまいます。それは私たちから見れば残酷な答えでしょう。ただ、どうしても進化論が描く画は残酷なのです。
仏教では進化論ではなくて「無常」を説きます。周りの現象が無常で変化すると同時に、自分も無常で変化しているのです。なぜそれに気づかないのでしょうか? なぜ過去の妄想で生きてみようとするのでしょうか? 妄想と現実を混同しているから、無常がわからなくなっているのです。
■被害に悩む人たちを助けてあげて下さい
自殺は悲しいです。亡くなった方は競争に負けたのです。私たちの仕事は何とか頑張って、応援してあげて、負けないように協力することです。仏教的な立場は、SNSで被害を受けていると妄想して悩む人々を応援してあげることなのです。そんなことを気にする必要はないんだと。愚か者には言わせたい放題言わせてあげましょうと。どうしてSNSとのはこんな酷いものだと。いろんなデータを集めて、SNSの内容をファクトチェックするようなサイトを作らないのでしょうか?
面白いことに、現代はフェイクニュースこそ信頼されるというところまで人間が退化してしまいました。なぜフェイクニュースに限って認められるかというと、現実のニュースよりも刺激があるからです。人類は刺激中毒に陥っていてフェイクニュースを求めているのです。刺激中毒の私たちは、麻薬中毒と何が違うのでしょうか? 麻薬という科学物資は使わないけれど、代わりに概念という麻薬を入れて脳を破壊しているのです。本当に危険な世界です。理解して頑張って下さい。単純な答えは「他人がネットで何を書こうが気にもしない」こと。しかし、それでも読んでください。何か役に立つことがあるかも。自殺する人々は適者生存の法則で、ちょっと負けそうになっているのだから、負ける前に助けてあげてください。
■自殺は宗教的な問題ではない
自殺について、仏教はたいした問題として扱っていません。生まれたら皆死ぬのですから。仏教から観たら、雨が降ったら地面が濡れるという程度の自然な流れなのです。生れる前にも死ぬし、生まれてすぐ死ぬし、大人になる前にも死ぬし、事故で死ぬし、病気で死ぬし、喧嘩して怪我して死ぬし、いろんな死に方があります。自死する場合もあるし。「死」は自分の人生が終わっただけの話なのです。
どうせ自分の人生は死で終わるのだから、ただ生きて死ぬだけでは納得がいかないでしょう。何か感謝されることをしたり、善行為をしたり、自分自身で私はそれなりに頑張って良いことをして時間を無駄にしないで生きてきた、人を助けた、いろんなことを勉強した、そういう善なる履歴書を書けるようになった方が良いのです。私は百億円も儲けたよ、などと威張っても面白くありません。人を助けたとか、人の役に立つようにデータを出したとか、あるいは自分がSNSで書いたことが読み継がれて、人の役に立ったならば、自分もなかなか良いことをしたんだという充実感が生まれるでしょう。そういうふうに充実感を得られるように生きてみましょう。
■明るさを失わずに死ぬまで生きること
仏教的に言い換えれば、「瞬間でも悪行為をしないで生きてみなさい」ということです。生きることはどんなに生きてもどうということはないし、どうせ死ぬし、死ぬまで生きるだけのことですから、どうせ死ぬんだから、自殺する必要はないのです。世間から誹謗中傷を受けても気にしなくていいのです。仕事を全部クビになってしまったら、「これから私はどうなる?」と自分の人生、一からやり直してみたらどうでしょうか? そういう人々も日本にいるでしょう。全財産がなくなって倒産してしまって、それからまた、じわじわと立ち直ったとか。そういう人生って、本人にとっては充実感があるでしょう。
確かに自殺は愚かな行為なのですが、自殺したら地獄へ堕ちるとかそんなのは証拠のない宗教的な話ですから気にする必要はありません。生命の法則から言えば、自殺する前に、自殺に追い込んだ感情・気持ち・エネルギーが業になります。明るい気持ちで慈しみに溢れて自殺したなら、天国へ行くから問題ありません。ファイナルステージの精神マップによって次の生が作られるのです。仏教的な結論は「どうしても人は死にます。生命は死にます。それまで、明るい気持ちでめげずに頑張って下さい」ということなのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編2』
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