アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
心(citta)・五蘊の識(viññāna)・そして六識の識(viññāna)は、同じ意味・働きでしょうか? 前の二つは「知る(知覚)・認識機能」、六識の識は「眼耳鼻舌身意に、それぞれ対象が触れて生じる認識」という感じで理解しています。ただ、その理解だと、どれも「知る・認識」という感じで、同じ意味・働きにも思えます。心・五蘊の識・六識の識、それらの意味・働きに違いがあれば教えてください。
[A]
■心とは「知る」という仕事をするシステム
三つとも同じ意味・働きです。例えば五取蘊(五蘊)というのは、生命の仕組み・構成を説明しています。生命を分解して部品に分けてみると色受想行識という五つの部品が見つかります。身体があり、感覚があり、思考(概念)があり、衝動があり、認識があります。そこで生命は「生きる」という具体的な行動・作業をしています。各生命は食べる・喋る・歩く・寝るなど、それぞれに適した生活をしています。
次に「生きる」という作業・行動は何なのかと分析・分解してみれば、眼耳鼻舌身意(六根)という窓口に色声香味触法(六境)という刺激が触れ、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識(六識)という認識が起こることだと分けたのです。仏教では「こころ」という機能について、たくさんの同義語があります。結局、同じ「知る・認識」という意味になります。
■心は常に仕事中
人という存在を分解してみると、「知る」ことを「viññāna(ヴィンニャーナ)」と言います。この場合、知覚・認識・思考など、全てまとめてviññānaと言っています。心の機能のひとつである認識で分類してみると、眼耳鼻舌身意という六つのパートがあって、そこに刺激が触れて、それぞれに眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という認識が起きているとわかります。その場合もviññānaと言っています。viññānaというのは、心が仕事をしている状態を表しているのです。
■働きの状態によって名称が変わる
ハサミで例えてみましょう。ハサミが何もしていない状態と、紙を切っている状態があります。ハサミが置いてあるだけの状態は、ただのハサミです。ハサミが何かを切っている時は、自分の仕事をしているのです。その仕事している状態をviññānaと言います。
六識のひとつに「意識」というものがあり、この意識は「mano viññāna」と言いますが、この場合のmanoは、心が何もしていない状態を意味します。しかし心はハサミと違って、何もしていない純粋な状態では存在しません。心は常に認識しているのです。認識しない瞬間はありません。認識しないということは、これは悟りの阿羅漢果に達する時に起こる心の状態です。
■「知る」働きの総称として、心と言っている
一般的に「心」というのは、仕事をしている状態では無く、とても広い意味での心というエネルギーがある状態のことです。その巨大なエネルギーが、物事よりも先に働いているのです。心のエネルギーが物事を管理・支配している。パーリ語でmanoとされている箇所に、viññānaと単語を入れ替えると間違いになります。人もさまざまな人がいます。しかし社長となるとかなり限定されます。そのように状態や機能によって、異なった単語・名称を使って説明しているのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: さとり編3』
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