アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「確実で安全な瞑想法の見分け方」です。

[Q]

     仏教にはたくさんの宗派がありますが、瞑想法もいろいろあり迷います。例えばマインドフルネスとヴィパッサナーは別物だと思いますが、両方とも頭に入れると影響があるのではないかと危惧しています。ブッダが偉大過ぎて、さまざまな宗派や瞑想法が生まれてしまうのでしょうが、危険なものと安全なもの、偽物と本物が入り混じり判断できません。初心者にも判断できる方法があれば教えてください。


[A]

■「目的」というキーワード 教えの一貫性もチェック


    教え(宗派)・瞑想法を判断する場合は、「目的」という言葉をキーワードにしてください。英単語のAimやPurpose(狙い・意図・目当て)という意味です。本なども同じですが、目的・ターゲットがあって書かれているのです。その目的・ターゲットを自分で見つけられれば、自分自身で判断することができます。
    それから、教え・本などは、内容に一貫性があり、読む人が納得できるように書くのが普通です。理論・理屈だけで納得するのではなく、その内容が目指す目的・目標は何なのか?    私たちに何をさせようとしているのか?    という部分も確認してみてください。そうすると判断・選び取ることができると思います。

■仏教の瞑想法の目的はシンプル

    仏教でもたくさん瞑想法があるわけですが、お釈迦さまはシンプルに「解脱に達しなさい」「一切の執着を捨てなさい」と説かれています。それに必要な理解は、すべての物事は無常・苦・無我であり、現象は稲妻のように瞬間的に変化するから執着するに値しないということです。無常である現象を皆はそうではない(常住)と勘違いするため苦しむのです。私たちの脳(心・認識)に問題があって、脳は「ものがある(有)」というスタンスで反応してしまうことが原因なのです。脳は停止したデータしか認識しません。ものがあるという認識しかしません。例えば、自動車が走っているのを見て、「車が走っているのが見える」と言います(認識)。しかし事実は違います。停止位置が少しずつずれている車が映り続けているだけです。画像をコマ送りして、その連続を総合的に処理して「車が走っている」と判断して認識しているだけなのです。実際には、変化する動き自体は見えていないのです。
    同じように音も瞬間・瞬間、変化するのですが、私たちは瞬間の変化(生滅)は経験できないのです。ある一定の時間で入ってきたデータ(有)をまとめて、束にして「音」と判断しているのです。データをまとめて束にする時点で元のデータは消えています。そのように私たちの脳--心・認識という機能に問題があるのです。物事が固定している/あるという先入観・予断で認識する。もちろん認識から起こる理解や思考も同じようになっています。過去に起きた出来事を思い出す時でさえ、私たちはまさに今その出来事が起きているかのように感じてしまいます。過去の出来事を思い出して、その時にまた新たな感情、悩み、苦しみを作るのです。

■ヴィパッサナーは認識機能の問題を解決する

    お釈迦さまの瞑想法(ヴィパッサナー)というのは、その生命にある認識機能の問題を解決するためにあります。無常であることを直接体験させる方法なのです。この瞑想を実践してみると、固定・停止・常住と見えていたことがキレイさっぱり消えてしまいます。無常を体験した人は、何にも執着しない・できない状態になってしまう--それは仏教で言う「解脱」ということです。しかし世の中の人々は、言葉でも言い表せない解脱・涅槃という境地を全然好みませんね。ほとんどの人が期待し望んでいるのは、現世利益--商売繁盛や健康長寿、合格祈願とか、死後の天国・永遠の命というものです。それも人間の脳・心に欠陥があるから起こる目的です。「ものごとは停止している」という錯覚から起こる問題なのです。

■目的に合わせた瞑想法を仏教から抜き出す

    仏教の各宗派も同じことです。「仏教だ」と言い張っている割に、まったく解脱を目指していません。それどころか目的にすらなっていません。大半はどうしても現世利益を目指しています。そういう人々は自分たちの目的・プログラムに合わせた瞑想法がないものかと仏典から探し出すのですが、悪いことに適当なものが見つかってしまうのですね。お釈迦さまは解脱・涅槃に達するまでの完全なプログラムを説いたのですから、心を成長・向上させるプログラムの中から、一部を抜き出せば心はある程度で成長してしまいます。しかし、解脱には達しません。それは明確です。

■生きる上で慈悲の瞑想は必須

    お釈迦さまは人間のことを良く知っていたのですから、皆に慈悲の瞑想・慈悲の気持ち・慈悲のスタンスを示して教えられました。慈悲は、生きている人々・生命に必要な素晴らしいエネルギーです。現世利益などの俗世間の期待や目的は、それで達してください。智慧の世界はまた別です。商売繁盛したければ、会社を上手く経営したければ、政治活動を成功させたければ、純粋な慈しみで行動してくださいと言っています。慈悲を実践すれば敵やライバルが消えて、皆が仲間になって大成功します。しかし、そんな俗世間の目的に達し、大成功したからといって何になるのでしょうか?    どうせ最後は老いて死ぬのです。役に立つのは、智慧を開発して解脱に達することです。

■サマーディ瞑想では解脱に達しない


    お釈迦さまは心を進化させる過程で、集中瞑想(サマーディ)も教えられました。それは心の訓練であって、智慧が現れるわけではありません。サマーディ瞑想のプログラムも経典にあります。サマーディ瞑想だけでは解脱に達しません。しかし、心が筋肉モリモリの強靭な状態になるのです。俗世間的に見れば、欲のある人にとってもすごく有り難いことです。そこから人々が能力開発を目指して、さまざまな瞑想法・プログラムを組んだのです。ですから私が言ったのは「目的」というキーワードを使って判断してくださいということ。「この瞑想をする目的は何なのか?」です。そのように目的を見れば、自分がその瞑想法を実行するかどうか決めることができるはずです。例えば何かの能力開発が必要であるなら、それに適した瞑想を選べます。結果が出なればやめることもできます。世にある瞑想のほとんどは俗世間的な目的を目指しています。神と一体になる宗教的な目的を教える瞑想なんかもあります。いるともいないともわからない神を信じて瞑想することの結果は、妄想概念を固定することになってしまいますね。
    しかし、仏教が目的とするのは、たったひとつ「解脱・涅槃」です。一貫してお釈迦さまが説いていることです。ですから、お釈迦さまを直々に自分の師匠とするならば、すべての弟子たちは「解脱・涅槃」という目的を目指すべきなのです。

■ヴィパッサナーの真髄は日陰で受け継がれてきた


    ということで、世にいろいろな瞑想法が出てきたのですが、ヴィパッサナー瞑想というのは、解脱・涅槃を目指す人のみの間に連綿と伝えられ、公には宣伝しませんでした。俗世間に「解脱を目指しなさい」と言っても相手にしてくれませんからね。二千五百年もの間、公の説法では、いろいろな物語やお布施や道徳の話、お釈迦さまの神通力や精密な理論や議論については触れてきました。例えば四聖諦の説明にしても、知識的に噛み砕いて説明し、四聖諦を実存的に解脱・涅槃に達する方法として説明することは公の説法ではしないのです。しかし、ブッダの教えは無くなっていません。解脱という目的を目指す人々に個人的に指導してきたのです。瞑想道場などで、ヴィパッサナー瞑想はしっかり受け継がれてきたのです。
    そんな中で、真剣な仏教徒であるミャンマー人たちが瞑想に興味を持ったため、世間でヴィパッサナー瞑想が知られてしまったのです。スリランカではそれほど知られていませんでした。瞑想をすることは悪いことではありませんから、「では、やってみてください」と気づきの瞑想として世に出して、公にしておいたのです。そのリーダーシップを取ったのは、ミャンマーのお坊様たちです。他のお坊さんたちは誰にも言わないで、内緒でこっそり瞑想していました。

■ヴィパッサナーは常に脳開発の最先端の遥か上を行く


    ヴィパッサナー瞑想は、唯一のブッダの瞑想法です。実践すればみるみる脳が開発されます。現代的な脳科学が発展して来ると、脳はプラスティック(可塑的)でいつでも変化することがわかったのです。脳はいつでも新しい配線を作れる状態にあります。しかし、脳を直接いじることはできません。体力をつけたいからと手術で筋肉をパワーアップすることはできません。運動するしかないのです。同じように脳を開発したければ、瞑想実践することになるのです。

■西洋バージョン「マインドフルネス」の目的

    ですから、精神的に問題がある人々、どんな治療法も効かない人々に、ヴィパッサナー瞑想の方法を取り入れてみたところ、結構上手くいったのです。効果があったのです。西洋のキリスト教文化という非仏教的環境下での研究なので、仏教由来のヴィパッサナーという名前は捨てられたようです。中身や方法だけを抜き取ることは剽窃になりますが、仏教側は全然気にしません。そのようにして西洋バージョンの「マインドフルネス」という方法も広がっていきました。この西洋バージョン=マインドフルネスの目的は、身体の異常を治すこと。どんな治療も効かない急性痛(慢性疼痛・幻肢痛)などは、マインドフルネス・トレーニングで緩和させる・失くすことができます。心が幻覚を作っているということを知る・認知できるようになります。
    そのようにさまざまな瞑想法が世の中に現れているのですが、西洋バージョンのマインドフルネスは解脱・涅槃を目的としていません。貪瞋癡(むさぼり、怒り、無知の三毒)を失くすことは目指していません。逆に、貪瞋癡を正当化させるべく頑張っています。ですから、目的を見て判断すればわかりやすいですね。どちらを使うかは自由です。

■仏教にある他の瞑想法は目的が大きく異なる

    また、仏教の各宗派の中でもいろいろな瞑想法が出て来ました。「神秘体験が欲しい」という目的の人にはサマーディ瞑想が人気になったのです。自分たちの妄想で、阿弥陀さんや観音さんや不動さんといったいろいろな概念を妄想します。大日如来という妄想もあるし、毘盧遮那仏(法身仏)という妄想もあるし、数え切れないあらゆる妄想・神秘的で形而上学的な概念があるのです。そのような妄想を体験したいと瞑想するのです。呪文を唱えたり、太鼓を叩いたり、トランス状態というか瞑想まがいなことをやっていると、脳にちょっとした異常現象が起こるのです。その異常現象を神秘体験として宗派を作って、万々歳ということになります。しかし、その域に達する人は僅かです。

■神秘体験は 単なる脳の異常現象

    単純にお釈迦さまが推薦するサマーディ瞑想をすれば、例えば百人が瞑想すれば六十人程度は第一禅定ぐらい作ることができます。各宗派の瞑想法はそれほど効率が高くはありません。キリスト教信者も瞑想します。神という妄想を体験したいと思っているのです。常識で理解できないことが起きたら、それが神秘体験として認められるわけです。例えばジーザス(Jesus/イエス)を念じる場合があります。少し本題と逸れますが、ある本にはジーザスは存在すらしなかったとあり、妄想キャラクターと言われています。十字架に張り付けにされて殺されたわけではないようですし、そんな出来事は無かったとも言われています。歴史的なデータはほとんど無いということです。新約聖書でもジーザスの物語はバラバラで一貫性がありません。それでもイエス様が十字架に磔にされた姿をイメージして、祈りという形の瞑想をすれば、たまに脳がその現象を具体的に作ってくれることもあります。
    キリスト教で瞑想する人々は、ジーサズが十字架に磔にされる受難の姿をイメージして、朝から晩までずっとお祈りをするのです。イメージを頭の中でループさせて念じるのです。畑仕事をする時も、食事の時もずっと念じ続ける。修道者なので社会ともあまり関わりが無い。ということで、普通とは違うことをやっているため、何かしらの異常な体験が起こるのです。瞑想をすると常識とは違う何だかの体験が起こります。しかし、それが真理・事実だと確定する保証はありません。幻覚を作ることに脳が慣れているのです。ですから、お釈迦さまがサマーディ瞑想を心理学的に整理整頓しました。サマーディに達する人の精神状態がどのように向上したのか説明しますが、どんな神秘体験が起きたのかは説かれません。神秘体験は幻覚として扱うのです。その代わりに、精神の統一、心の安らぎ・落ち着き、煩悩が睡眠状態になったことなどを説明します。

■脳に異常現象を起こさせることは案外簡単

    現代でも、ヒンドゥー教のヨーガ(yoga)などは同じことをやっています。グルと呼ばれる指導者たちがそれぞれ違うことをやって、よりノーマルではない体験をさせようとしているだけ。アメリカの黒人教会で聖歌や讃美歌、ゴスペルを歌うことも同じです。十字架をバックに派手に歌いまくって、脳に現象を起こさせるのです。異常現象ですが、もちろん科学的に説明することができます。神秘でも何でもありません。歌っている時の歌手は異常な精神状態になっているだけ。聴く側にはわかりませんが、歌う方は自分の全身から音が出ているように感じるのです。音の響き、音の差を身体で感じます。音はもちろん耳からも入りますが、肉体の振動で直接的に脳で感じるのです。当然、恍惚とした状態になります。そこに宗教という概念を混ぜ込んでおくと、教会という厳かな雰囲気の中でド派手に歌って、全員が興奮して意識が昂って、ひどい人は失神までしてしまいます。それで締めに牧師さんが「ハレルヤ!」と言えば、神様の存在を証明したつもりになり満足感を得るのです。全ては妄想です。
    他にもたくさん瞑想法はあるのですが、辛口に解説すれば以上のようになります。批判しているわけではなく、仏教視線で分析しているだけのこと。ちょっとした行・行動で脳に異常を起こさせる、幻覚を作らせることは簡単なのです。大げさなことはありません。なぜなら常に私たちが「見えている」「聞こえている」という感覚も、結局は同じ捏造概念(妄想)だからです。それを少しだけ常識外れにすれば、簡単に異常な現象(反応)を起こすことができます。仏教では、とにかく神秘体験は全て排除して、客観的で合理的に物事を見ることを推奨するのです。

■神秘体験を得ることの問題

    瞑想で得る神秘体験は、本人が地道に努力した結果です。もし神秘体験が起きたら、必ずその経験にしがみついてしまいます。強烈に執着するのです。そうすると世間や日常のことなど簡単に無視することができるようになります。本人にとっては成長したつもり・心が清らかになったつもりですが、仏教心理学から見れば強い執着を作っただけ。瞑想から起こる神秘体験は強烈な執着になるので、解脱とは違う世界に行ってしまいます。俗世間の執着を捨てて瞑想しなくてはいけません。もちろん本人は悪行為をしているつもりはありませんから、「その執着を捨てなさい」と言っても納得できないのです。
    ヴィパッサナー・プログラムは、神秘体験が起こらないようにギリギリまで気をつけています。それでも起こる人には起こります。ですから、瞑想指導のテキストでは、体験するはずの神秘体験を心理学的にリストアップして、「ヴィパッサナー障害」というタイトルを付けてあります。さらにこのような体験は真剣に真面目に修行する人に起こるもので、中途半端に瞑想する人には縁の無い話であるとも書かれています。

■宗教もファンタジーも現実逃避の道具に過ぎない

    そういうことで瞑想の裏話でしたが、世の中にある瞑想法は宗教が絡んでいます。宗教というのは全て神話物語です。現実的なデータはありません。エホバ(Jehovah)という神がいることにエビデンスはありません。ゼロ・皆無といっても良いでしょう。ジーザス(イエス)がいたという証拠も全く無いと言っていいほどデータがありません。結局作られた物語なのです。ヒンドゥー教はどうでしょうか?    誰か見たことがありますか?    手が四本あって頭が象のガネーシャという神様を。三千年前でも「私はガネーシャを見ました」という文献でもあればいいですが、そんなものは何も無いのです。ただ妄想して作られた馬鹿げた物語のひとつなのです。現代のヒンドゥー教の人々は、シヴァ神を信仰しているのですが、面白いことに人気が上下します。現代はシヴァ神ですが、昔は別の神々を信仰していました。それだけでも笑い話です。ということで、宗教というのは人間が妄想して作った単なる神話物語でしかありません。
    神話にもいろんな種類があって、現代なら小説も含まれます。子供や青年向けに書かれているノベルなどは、現実には無いファンタジー(幻想)がいっぱい記されています。『ハリー・ポッター』(J・K・ローリング)シリーズなどは人気ですが、幸いにもハリー・ポッター教という宗教組織はありませんね。でももし千五百年前に小説ができていたら、今ごろハリー・ポッター像を作って拝んでいると思います。お守りとして魔法の杖をみんな持っているでしょう。人間というのはいろんなことを妄想して、それを楽しむのです。結構、楽しいのです。『ドラえもん』(藤子不二雄)も大人が見ても面白いです。作者はアイデアが豊富で、次から次に新しい道具を出して来るのが楽しいです。なぜ楽しいのかというと、現実とは違うからです。現実は楽しくありません。現実は辛く、厳しく、苦しいのです。恐竜が好きになり、恐竜教信者になってしまう子供も多いですが。それを上手に利用して、タイムマシンを使って恐竜の時代へ行く。恐竜に襲われて、走って逃げて命拾いする。そこに現実はありません。現実はつまらない、大変で苦しい。それで妄想概念を作って、そこに逃避するのです。
    人間にとって死ぬことは一番嫌なことです。どうしても納得がいかない。ですから、妄想で死が無い世界を作るのです。それが宗教というものです。そこで永遠の天国という妄想が現れてくるのです。

■宗教の瞑想は洗脳から始まる


    瞑想に宗教が絡むと、また新しい問題が出て来ます。まず宗教の妄想概念で人を洗脳するのです。そして洗脳してできた概念を、脳の中で再現させようとします。例えばヒンドゥー教の哲学では、ブラフマンという魂(真我、アートマンと同一)の概念があって、その魂がなぜか知りませんが二つに割れてしまって、ひとつはそのままブラフマンとして在るのですが、片方は森羅万象の現象世界を作り出した(アートマン)というのです。それで、森羅万象の現象世界は錯覚であって、本来はブラフマンだと言うのです。不二一元論とか梵我一如と言われるものです。そう言われると哲学っぽく聞こえます。世界には多種多様の植物や動物がいますが、科学的に元素として見れば百いくつかの種類でしかありません。科学者者からすれば象も猫も同じです。なぜなら身体を構成している元素が同じだからです。
    そのような妄想概念を使って、「真我であるアートマンを体験しなさい。そうすれば私が言っていることが正しいと理解できる」と洗脳し、瞑想法を教えてあげるのです。だいたい呪文を唱えろとか簡単なことです。呪文を真面目に、真剣に唱え続けると、その人の脳の中で呪文以外の全ての概念が消えてしまって、ひとつ「消えた」「一体となった」という体験が生まれてしまうのです。それで「これが梵我一如、アートマンか」と納得して強烈な執着を作ってしまう。そのような難点があります。
    キリスト教信者が瞑想する場合は、キリスト教の妄想概念を頭に叩き込んでから瞑想します。大乗仏教の各宗派で瞑想する場合も、各宗派の持っている妄想概念を叩き込む。特に真言密教などは、かなりたくさんの妄想概念を持っています。それから呪文や題目を「この呪文を唱えれば、神様・仏様・菩薩様があなたに現れます」と教えて、無我夢中で呪文を唱えれば、一万人に一人ぐらいは神秘体験をすることがあるのです。しかし、その効果や確実性はものすごく低い。なぜなら、心の仕組みや科学性を知らないからです。心の仕組みはお釈迦さまが知り尽くして語られました。

■興味があれば試してみても良いけれど……

    ちょっと難しいことを言いましたが、単純に考えてください。「目的」というキーワードで各瞑想法を見るのです。その目的が自分に必要だったら試してみれば良いでしょう。例えばガンを治す瞑想法を宣伝している人がいて、自分にガンがあるなら試してみても良いと思います。もしかしたら百万人に一人ぐらいは治るかもしれません。なぜなら、ガン細胞のある全ての人がガンで死ぬわけではないからです。ガン細胞が出来ても自然に治る場合もあるのです。
    経典の中でも、お釈迦さまが強烈に厳しく「あなた方の方法には結果が無い」とおっしゃっています。経典にあるエピソードで、あるお坊さんと他宗教の人との対話があります。仲良く互いの神秘体験を話しているのですが、お坊さんが「私にはこういう神通も、ああいう神通もできる」と言うと、相手はびっくりして「あなたは出家してどれぐらいですか?」と訊きます。お坊さんは「出家して一年も経っていません」と答える。相手は「私は一生かけて神秘体験を得ようと頑張っているのに何も得ていません」という内容です。
    一方、お釈迦さまが教えられた瞑想法からひとつ、きちんと実践すれば特殊な体験はできます。サマーディ(禅定・統一)という状態に達したければ、仏教が教える瞑想法であれば、第一禅定ぐらいまでには達することは可能です。無色界の四禅定にまで達するのはかなり難しいですが、色界の四禅定であればそれほど大変なことでありません。

■自覚と納得から始まるブッダの瞑想

    瞑想法が危険かどうかという判断として、お釈迦さまが教えた以外の瞑想法には、どうしてもマインド・コントロール(洗脳)というものが付いてきます。マインド・コントロールは良くありませんから、それを理解したうえで、他の瞑想法にはどのような妄想概念があるのか注意し判断してみてください。
    ヴィパッサナー瞑想は、初心者に瞑想の仕方を納得してもらうために、まず行うことがあります。その人がどれほど洗脳されてマインド・コントロールされて生きているのか詳しく語ります。自分自身の認識すら当てにならないことを具体的に説明します。それから、百パーセントの証拠があるもののみ確認する方法を教えます。身体の部分の「膨らみ、縮み」を観察すること、歩く瞑想などは、証拠百パーセントの現象のみを確認する作業のスタートです。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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