アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「座る瞑想でのサティが難しい」という悩みにスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    座る瞑想でサティの入れ方が難しくて、少しやっただけですごく疲れます。やり方が間違っているのかなと思います。言葉では、膨らみ・縮みを観て、雑念が出てきたら「妄想」とサティを入れると簡単でわかるのですが、いざやってみると難しいです。
 
[A]

■心身のコンディションを確認する

    ヴィパッサナーの気づきそのものが、きわめて精密な修行なのです。やり方は簡単に見えるのですが、実践する場合は精密にやらなくてはいけない。わかりやすい言葉で言えば、「常に精神的なベストコンディションを保ってください」という意味になります。体も心もベストコンディションにしてから、実況中継(サティの実践)を始めて欲しいのです。ですから、少しでも見栄を張ったりすると心のベストコンディションが壊れます。このポイントはすごく気をつけなくてはいけません。自分にやる気が無くなって、隣の人を見るとその人は頑張っている。そこで「情けないな、よし頑張るぞ」と気合を入れるのはいいのですが、その時でも競争しないように、張り合わないように、気をつけなくてはいけません。歩く瞑想にしても、ただやればいいということでもありません。肉体の調子にも波がありますから、そのコンディションを確認しなくてはいけないのです。

■主観で得意/不得意を決めつけない

    どの瞑想でも同じですが、まず自分の感情があって「私はこれが下手、これは上手じゃない」と先入観で決めている可能性もあります。「座る瞑想かぁ、ちょっと嫌だな……」という気持ちがあればそれも先入観なのです。そういう先入観ありきで瞑想を始めると、「早く終わりたい」ということだけ考えてしまいます。そうすると、ストレスが溜まって上手くいきません。逆に「瞑想とは座ることだ」と勘違いしている人は、歩く瞑想や立つ瞑想をしている人を見て「何をやっているんだ」と思う。そこで指導者が歩く瞑想をしなさいとアドバイスすると、「こんな下らないことをやっても意味が無い」という感じでやってしまうのです。すると、その人は歩く瞑想で何も気づくことができなくなってしまいます。歩く瞑想をしていないので、肉体と精神のバランスが取れません。それで修行が上手くいかなくなるのです。修行には様々な、微妙な要因が絡んでくるのです。

■判断して対処するのはあくまで自分

    怠けてはいけない、やり過ぎもいけない、見栄を張ってはいけない、競争的にやってはいけない……気をつけるポイントはいろいろあります。それらをクリアしたとしても、自分自身の気持ちと先入観が邪魔をする場合も大いにあります。問題は「自分で判断して対処しなくてはいけない」ということです。例えば指導者が一人ひとりに、「あなたはここに座って瞑想してください」と指令したり監督したりすることはできません。ですから、まだ慣れていない人が瞑想する時は、気持ち良く座れる場所と時間も考えなくてはいけません。それから人それぞれバイオリズム(生体周期)があって、特に座る瞑想では心をフル活動させますから、一日の生活の中で一番頭が活動する時間と場所を選んで、その条件下で瞑想するのです。なかなかリズムができないときは、歩く瞑想をしっかりやって、ベストコンディションを保ちます。まだまだ、いつでも脳・心が冴えているわけではありません。冴えている時もあって、落ち込んでいる時もあって、機能していない時もあるのです。活発になっているけれど落ち着かないとか、いろいろな状態があります。そのように心にもそれなりにバイオリズムがありますが、このバイオリズムに負けないで、そのリズムに合わせてより良い方向へ持っていくのです。それは、修行する個人が判断して対処しなくてはいけません。

■バイオリズムは一人ひとり違う

    私が指導する時は、「何時から何時までは座る瞑想をする時間ですよ」などと言いたくはないのでそういうことはしません。一部の人にはその時間配分が適しているかもしれませんが、皆がそうとは言えないからです。ある人はその時間は寝ているべきかもしれない。だから、修行は体と心のバイオリズムに合わせなくてはいけないのです。簡単な言葉で言えば、「いつでも良い調子で修行しなさい」ということです。仏道修行は苦行になってはいけません。見栄を張ってはいけません。そういうことです。修行をする時、例えば座る瞑想をしていても、全く心がついてこないという場合もあります。その時はさっさと別な方向へ心を変えるしかありません。
    睡眠時間にしても、睡眠はいくらか必要なことですが、社会的な常識に合わせなくてもいいのです。仏教で「一人で森に入って修行をしなさい」と言っているのは、それぞれが自分に適したプログラムで修行できるようにするためです。人によって体が「今は寝なさい」と指示してくる時間があるのです。体が寝なさいといっている時は寝なくてはいけません。そこでも寝過ぎにならないように、目が覚めたらすぐ修行に戻らなければいけないのです。皆さんはスケジュールに合わせたい、その方が自己管理しやすいと思うかもしれません。その場合、管理はしやすいのですが結果があまり出ません。実績が少なくなるのです。
    修行をする場合、みんなバイオリズムが違いますから、そこをまとめて管理することはできないので、一人ひとりが個人の宿題としてベストコンディションでやってくださいと言うのです。肉体にもサイクルがあって、脳細胞にもサイクルがあって複雑です。お釈迦様は「中道」という言葉を使っています。これは結構難しいのです。私たちは自分自身で試行錯誤して、宿題として自分の修行リズムを見つけて、実践すればいいのです。

■「巧み(kusala)」に生きるという挑戦

    他に「巧みに生きなさい」という言葉もあります。「巧み」はクサラ(kusala)と言います。クサラは「善」と訳しますが、本当は「巧み」という意味です。クサラとは、条件に対して文句を言わずに、「条件を自分の修行・宿題としてどのように使うのか?」と工夫することなのです。具体的な例で言えば、周りにいろいろな音があって瞑想できる環境では無い。それで「こんな状況では瞑想できない」と言うのは巧みな生き方では無いのです。うるさい環境に文句を言わず、こんな状況だけどどうすれば上手くいくのかと自分で方法を見つける--音が次々に入ってきて落ち着かない。では音に集中してみるぞと、音の内容ではなく音が触れて聴覚が生まれて心が乱れる、また次の音が触れて心が乱れる、というように観察すると流れが見えてくる。ただ空気の振動によって心が変化していくことがわかる。その過程で煩悩が生まれると発見する。そうやって自己観察すれば瞑想していることになります。わざわざ音を遮断したり、ノイズキャンセルのイヤホンやヘッドホンを使ったりするのは「巧み」ではないのです。
    ですから、その都度その都度の環境で、修行のために、物事をありのままに観察するために、その環境をどのように使うのかということなのです。「巧み」という能力がある人は決して失敗しません。経典のフレーズを使えば、「世の中の人々は嘘をつく。だから私は嘘をつかない」というふうに励むのです。皆が嘘をつくという現実が、「ならば、自分は嘘をつかない」と頑張るための起爆剤になるのです。「皆が嘘をついているから仕方ない」と言ったら負けになります。「皆は与えられていないものをとって楽々に生きている。私もそうしないと皆からバカにされるから同じことをする」という人は仏道を実践していません。誰だって与えられていないものをとっていい加減に生きている。だからこそ、私は与えられていないものはとらないという宿題を頑張ってみるのです。そのように『戒め』という経典(MN8,Sallekhasutta)の中で、巧みに生きる術を教えています。その経典の中では、「人間は自分の見解にしがみついて、その見解を改良しようという気持ちもまるっきりなく頑固に生きている。だから私は見解にしがみつかないで、いつでも見解を改良し、滑らかな心でいようでないか」と、悪い状況は自分を直す方向に使うのです。それも巧みということです。修行の上でこの「巧み」というポイントも大事なことなのです。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編1』  

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