「エンゲージドブッディズム」とは、社会問題に仏教的視点から積極的に関わる運動を指し、「社会参画仏教」「行動する仏教」とも称されます。
本企画では、ポーランド出身の曹洞宗僧侶・シュプナル法純師と、長年エンゲージドブッディズムを研究してきた浄土真宗本願寺派超勝寺住職・大來尚順師をお迎えし、仏教は社会活動とどのように関わるべきなのかを掘り下げます。エンゲージドブッディズムの未来を考える対話、全6回連載の第5回をお届けします。
第5回 質疑応答①現代社会と仏教が接するところ
●質問1 怒りを社会改革に役立てるという考え方は?
──様々な社会問題が起こっている今の世の中において、どうしても怒りを覚えてしまうようなことがあります。そして、怒りをもとにして社会を変えなくてはいけないと主張するような方々もいますが、そういうものとは別に、仏教ならではの社会問題に対する向き合い方があるのでしょうか。冒頭で「エンゲージドブッディズムの和訳の一つに"戦う仏教”という言い方もある」と言いましたが、怒りというものを何か違うほうに転換しながら社会と向き合うためにはどうすればよいのでしょうか。
法純 「戦う」という言葉は、あまりよくないかもしれないですけれども、怒らないことは仏法者の目指しているところです。「あるがままで大丈夫」や「怒って、そのままでいい」、「怒りと一つになりましょう」のようなことは仏教ではありません。パーリ教典の中では『カカチューパマ・スッタ』という凄まじいお経があるでしょう。「ノコギリの喩え」として知られています。たとえノコギリで切られても、絶対に相手に怒りを抱いてはいけないと説かれています。しかし、怒らないということは、痩せ我慢ということではありません。
最初に私が言った「ディスエンゲージドブッディズム」について、もう一つ付け加えたいことがあります。ディスエンゲージドというのは、社会から逃げるわけではなくて、その社会という「枠」を出て、ドローンのような目で見渡してみることかと思います。それも、先ほどのフランクルの言った自由に通じると思います。その自由から正しいレスポンスが生まれるでしょう。そういう意味ではディスエンゲージです。
ですから「ディスエンゲージ(離れること)」は、「エンゲージ(関わること)」の裏面だと、私は思います。そういう関係性ですね。たとえば怒りが湧いたとしてもそれを「自由に」見ることができれば、それに惑わされないでしょう。
●リアクションとレスポンスは違う
法純 ただのリアクション(反応)とレスポンスは根本的に違います。レスポンスにはさまざまな選択肢があります。自由が広いです。ですから、前に言ったレスポンスアビリティこそ、仏道だと思います。しかし、自由にアクセスができるために、ディスエンゲージというところを軽んじてはいけないと思います。
大來 なるほど、法純さんのアプローチ、面白いですね。