アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。

[Q]
    「心」という働きは、どのように発見できるのでしょうか?


[A]

■物質に依存して働く心


    心とはとても簡単に発見できるものです。私たち生命には「感じる」感覚があります。生きるために外の世界とコミュニケーションを取らなくてはいけないので、肉体という物質に感覚システムという別の働きが備わっているのです。しかし、何でもかんでも感じるわけではありません。感覚自体も肉体という物質に依存する形で働くので、肉体が無いと感覚も起こりません。
    感覚(vedanā)が生まれた瞬間に、概念(saññā)も作られます。それからさまざまな衝動(saṅkhāra)も生じて、認識(viññāṇa)が起こるのです。認識は肉体という物質に依存して起こるのですが、認識は認識として物質とは別の働きなのです。ということで、肉体を解剖して心を探そうとしても、認識の働きを発見しようとしても、見つけることはできません。脳を解剖したところで「この人は⚪︎⚪︎職だった」ということはわかりません。農業を営む人の脳を解剖しても、脳からはその人が毎日畑を耕していたという証拠は見つかりません。
    脳に物質的な異常があったとしても、必ず機能にも異常があるという保証は無いのです。外見的な異常があっても、脳は普通に機能する場合があります。ある数学の達人が亡くなった時、その人の脳を解剖してみたところ皆が驚いたそうです。なんと大脳はほとんど無くて、ほんの少しだけ大脳皮質の細胞があっただけでした。そこから「数学をするのに脳はいらない」という冗談もできたそうです。
    脳そのものが心ではないということです。一般レベルの認識は物質が無ければ働きません。水を飲みたい人は純粋に水を飲みたいでしょう。そのためには、水を入れるためにコップなどの容器が必要になります。手で水を掬うにしても、手は必要になります。そうでなければ水は飲めません。蛇口から直接飲む方法もありますが、その場合は蛇口が容器です。

■瞑想で心は自由になる

    一般的な生命として心が働くためには、何かしらの物質的な肉体という容れ物・容器が必要になります。しかし、認識の働きは物質とはまったく違うエネルギーの働きで、別々にすることができないか実験したら可能でした。瞑想の世界ではこれをやっているのです。肉体と認識の働きを別々にすることには、それぞれステージがあります。瞑想によって肉体に依存することを減らしていくと、認識の働きを物質とは別個に流すことも可能です。簡単に言えば、心が自由になるのです。制限なく認識できるようになります。今、心は肉体の中にしまわれていて、肉体に触れる情報以外のことは全く知らない状態です。檻の中にいるようなイメージです。どんな駿馬も柵の中に入れて扉に鍵をかけたら走ることはできません。しかし、その扉を開ければ自由に走り出すことができるのです。
    そのように、心を自由にすることを仏教では「愛欲という蓋(kāmacchandanīvaraṇa)を外す」と説いています。愛欲とは、眼耳鼻舌身が色声香味触に繋がりたがる衝動のことです。色声香味触に触れなければ感覚が起こりません。そうしないと愛欲の認識が流れないのです。物質の刺激に対する依存をストップさせると、すぐに第一禅定という心の流れが始まります。

■心はいつでも無免許運転

    ということで、問題を起こしているのは心という認識の働きなのです。実は、心には管理する能力があります。今はその管理能力を、とことん悪用しています。管理する必要が無いものまで管理しようとします。健康的に問題は無いのにさらに痩せたがるとか、心当たりがあるでしょう?
    心には管理能力はあるのですが、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)で汚れまくっていて、煩悩で汚染されていて、そんな状態で管理されているのです。物事を管理しているくせに、心は管理する資格を持ち合わせていないのです。例えば、車の運転はすごくシンプルです。ジェット機のように複雑な計器やボタンは無いでしょう。シンプルで簡単であれば誰でも運転できますね。いいえ、運転免許が必要です。運転免許が無い人に運転を任せてはいけません。そんな感じで、私たちの心は運転免許が無いのに車を運転しているようなものなのです。これは危険なことです。結果として、苦しみに満ちた世界を作ってしまいます。

■仏教が嫌われる理由

    今までの生き方から苦しみが現れたのだから、少しでも理性があれば、ここで生き方を百八十度変えなくてはいけないと思うはずです。しかし、人間にはそこまでの理性もありません。「これまでの生き方でロクな結果になっていないから、別な生き方を探してみたらどうか」と提案すると、心は「とんでもない!    何て突飛なことを言うのか」「あなたの言っていることは理解できない」という反応を返します。世の中で門前払いされる、一方的に拒否・拒絶・却下されるのは、仏教的スキームで提案した場合なのです。
    他のインチキ宗教なら、皆の心はフルオープンで受け入れます。日本の社会にも、原始人でさえ信じないようなレベルの低い新興宗教がたくさんあり、カビのようにすぐに広がって浸透します。たとえ大きな社会問題を起こしたとしても、それによって国がその宗教組織を解体したとしても、宗教が消えることはありません。信仰は元気に蔓延ります。仏教の場合、仏教の「ぶ」と言った途端に拒絶されてしまいます。仏教の「buddhi」とは、knowledge・知識という意味です。「buddha」とは、智慧に達したという意味です。人間が断言的に仏教は嫌だというのは、どんな理由でしょうか?    それは、誰の心にも智慧が無いという証拠なのです。

■依存症のままで回転する心

    世の中では、何でもかんでも管理しようとします。誰かを支配するボスになりたくて、全てを自分の思いのままにしたくて、喚いているのです。そういう人々はとても性格が悪くわがままです。恐ろしく自我を張っています。相手の気持ちをまるっきり理解しようともせず、相手に配慮してくださいと言っても、「そんなことしたら管理できなくなる」と言うのです。無知・エゴイスト・残酷という性格が揃うとリーダーになりたがります。リーダーとして必要な資格とは、生命に対する優しさ・慈しみがあること。他人を労わる気持ちが無ければリーダーとして相応しくないことを理解していないのです。
    この肉体を見てください。リーダーはいません。しかし、細胞たちの間に他を労わる気持ちはあるようです。私たちが病気になった時には、肉体はしっかりと結果を出します。細胞たちが一斉に頑張って肉体を修復しようとします。細胞たちは互いにどう連携すれば良いのかということを知っています。自動的に各細胞がそれぞれの仕事をし始める。ひとりのリーダーが指令することも無く、修復システムが働くのです。修復のために外からの材料が必要だと感じたら、それもきちんと得るためのシステムが働きます。
    私たちの心は、あれこれと思考して感情が暴走し、生きることを苦しむようにしています。無始なる過去から心は間違えた働き方をしているので、どうしても物質に依存することになってしまう。物質的な肉体がなければ行動・活動ができないとも思っています。肉体とは物質で壊れるものです。組み立てたものはどうしても壊れてしまう。それで心はひどく悩みます。結果として、どうしても物質に依存する羽目に陥って、依存症状態で命が回転していくことになるのです。

■心に理性をインストールする

    物質に依存して、物質を弄って、生きることを苦しみに変えて、人生を滅茶苦茶にしてもまた同じことをしてしまう。同じ間違いを繰り返すということは、何ひとつ解っていないということです。宗教では、善行為をして徳を積んだら善い境遇に転生することができると言っています。仏教にも宗教に退化した部分がありますから、同じようなことを言っています。しかし、無知な心はどこに生まれたとしても無知のまま同じことを繰り返すのです。命は失敗から学ぶことはしません。そもそも失敗だと認めることもしません。あれこれと言い訳するばかりです。言い訳というのは、「私は間違っていない、私が正しい」という意味です。どんな理由であっても、行動したことで結果が悪いのであれば仕方ありません。言い訳したからといって、悪い結果が良くなるわけでもないのです。
    私たちは人生の中で何にでも言い訳をして、失敗を認めず、失敗から学ぶことも捨ててしまいます。「親の躾が厳しかったので、怒りっぽい性格になってしまった」と言う。それならば怒る性格は失敗ばかりで良くないと素直に認めて、今日から、今から怒ることを止めようと決意すればそれで良くなっていきます。心に理性をインストールするだけです。人格を向上させることはそんな大げさなことではありません。心で「はい、決めました」と決意して、次に「やめた」と実行するだけ。例えばまず「今日から嘘はつかない」と決めるだけなのです。

■永久にやってこない「明日」

    しかし、それを理解しないので、お坊さんが「いかに嘘が悪いことなのか」と何十年間も説法しなくてはいけなくなっています。それで皆は「じゃあ、来年から嘘をつかないようにします」という感じで、問題を後回し・先送りにしてしまう。来年になったら、あなたは生きているかどうかもわかりません。皆いつでも「明日やります」「今度やります」という性格でしょう。必ず明日があると思っているなら、とんでもない無知であることは明確です。「明日」というのは永久に訪れることのない概念なのです。
    経典の中でお釈迦様は「朝に法を聞けば、昼には悟りに達している」と仰っています。逆に、心そのものを変化させなければ、たとえ八十億年くらい修行したとしても解脱に達することはできません。汚れた、無知・無明に支配された心によって作られた科学や哲学・文化や宗教などは、ただ私たちの苦しみを増やすだけなのです。

■狂った象のような心

    それから、多くの人々は心の安らぎを求めて、信仰や宗教の世界におもむきます。俗世間でも誰かの奴隷で生きていて、それに疲れたからと宗教の世界に入って、もっと酷い境遇の奴隷に落とされて苦しむのです。俗世間であれば自由のため、家族同士でも互いにケンカすることもあります。宗教の世界は、自由が一切許されない徹底的な支配の世界です。文句を言ったら「あなたは神を冒涜した」と非難・侮辱される。ひとつも理屈が成り立たない物語・ストーリーを信じることを強いられる。宗教は人間の無知につけ込んで悪用するシステムなのです。
    先ほども言いましたが、心には管理能力があるのに、管理者としての資格を全く欠いています。ですから、自分の心には絶対、管理を任せてはいけないのです。
    タイなどでは象使いがいて、ペットのように飼育しています。象には凄まじいパワーがあります。その気になればどんなものでも壊してしまえる。象は人間よりは賢いので、小さな人間の言うことを聞いてあげているのです。象のようにパワフルな生命体が、もし狂ってしまったらどうなるでしょうか?    例えば、殴ったり傷つけたりして痛い目に遭わせる、それから酒・アルコールを飲ませて理性を奪って興奮させたりする。そうしたらもう終りです。象は見境なく片っ端から破壊していきます。トラックぐらいなら蹴っ飛ばします。突進して家を潰すこともできます。たとえビルでも、どこを壊せば倒れるかと探して壊すでしょう。私たちの心も狂った象と同じく、何でもかんでも破壊していくような生き方をしているのです。

■失敗から学べるとは限らない

    ですから管理能力というのは、使い方を間違えると困るのです。今、私たちには管理する資格はありません。物質はある程度で管理しています。しかし、たとえ物質を弄ったとしても無知・無明という心の状態は変わりません。しかし、技術や文明の発展・開発というのは、ただのバカにできることではありません。自制や訓練によって育てなければいけないし、失敗から学ぶことも必要です。いきなり物事の発見・発明をすることはできません。試行錯誤をしながら結果を出していくのです。私たちが知っている医療や科学技術も膨大な失敗から学んできたものです。しかし、決して人生には「失敗から学ぶ」ということは当てはまりません。もちろん、たまに失敗から学んで立派な人間になるケースはありますが、大抵はとりかえしのつかない失敗で人生を台無しにしてしまうのです。
    それから、私たちには執着があります。いったい何に執着するのでしょうか?    全く価値の無いもの、逆にマイナスの価値・損するものに執着しているのです。とにかく心はおかしいのです。「頭がおかしい」と失礼な言葉づかいをした方がわかりやすいかもしれません。それくらい心が、認識がおかしいのです。

■物質を神様扱いする世界

    発展した科学技術や文明が絶対的だと思うこと、物質を神様だと思うことも頭がおかしいのです。いくら社会が発展したとはいえ、人間の生命としてのレベルは何も変わっていません。人間は皆、奴隷のようなものです。昔は皆、携帯音楽プレーヤーで四六時中イヤホンをつけて音楽などを聞いていました。電車に乗る時も、歩く時も、運動する時も、ずっとイヤホンは着けっぱなしで依存していた。そこにスマートフォンが現れたら依存先を変更したのです。どちらにせよ自分だけの世界に閉じこもってしまいます。依存している自分だけの世界に引きこもっていて何か得るものがあるでしょうか?    何もありません。人格向上したとか、性格が明るくなったとか、他人に優しくなったとか、そんな変化は気配すらありません。ただ物質を弄って、新しい刺激を探しているだけです。
    知らない情報を知るとか、その情報が自分にとって役に立つかどうかとか、そんなことは気にしていません。そこから何が見えてくるのかというと、やはり奴隷のままということです。新しい道具・ガジェットを作って、それに依存して奴隷になる。ある時期、若者たちがバイクや車の奴隷になっていました。日本では暴走族が社会問題にまでなっていました。バイクという道具に乗ると早く走れる、それが気持ち良い。それだけでしょう。バイクを有効に使うという考えはありません。バイクの奴隷になるのです。暴走族のファッションがあって、流行の髪型があって、バイクもデコレーションする。しかし、いまひとつ何か足りない。そこでマフラーをいじって、近所迷惑な爆音が出るように改造する。それから、深夜になったら集団で騒音を鳴らしながら朝まで暴走していたのです。それは若者たちが依存し、奴隷になっていた事例です。それで得たものは何かと言えば、何も得ていません。成長したことは何かと見ても、何もありません。次の世代は別なものに依存して同じように奴隷になるだけです。
    もう私には関係ありませんが、今、現代人はスマートフォンに依存し奴隷になっています。次に何に依存して、何の奴隷となるのかと見ものですね。心は物質に依存して、物質を神様だと勘違いしています。いつでも物質を弄って物質を優先しています。それは間違いなのです。物質はただの道具に過ぎません。肉体も単なる道具です。道具は道具として丁寧に扱えば良いだけであって、決して尊いものではないのです。

■肉体という道具は必ず壊れる

    私たちは病気になるとすぐに慌てふためきます。病気になったらもう放っておくことはできないのです。医療が頼りにならないと、迷信にでもすがって病気を治そうとする。人は肉体のことが気になって仕方ないのです。それは愛着・執着があるということです。でも、ふだんから肉体に執着せず、余計な負荷をかけず適切に扱っていれば、肉体は肉体の因果法則によって、病気に罹らないまま流れていくのです。とはいえ、肉体は必ず壊れていくし、老いて死ぬことは誰にも避けられません。
    心は肉体に依存して、物質の奴隷になっているので、ヴィパッサナー瞑想のやり方を指導したとしても誰も真剣に実践しようとはしません。なぜそうなるのかというと、肉体の奴隷であることを止めようとしないからです。口では何を言っても、肉体を神様だと勘違いしたままなのです。

■心の主導権を取り戻す

    皆さんはまず、心という認識の働きを理解し、感情が心の主導権を握っていることを知ってください。心には管理能力はあるのですが、感情が主導権を握っているから間違った方向に使われています。それで心は肉体の奴隷になっているのです。心は感情と一緒に働きます。ですから、お釈迦様は「私たちを奴隷にしている依存システムを解除してください。生命は誰かの、何かの奴隷になる必要はありません」と教えているのです。それは肉体の細胞にボスがいないのと同じことです。心臓にしても臓器のひとつであって、肉体のボスではありません。心臓にある心筋細胞は単純な伸び縮みをして、見事にポンプとしての仕事をしています。近くの細胞たちと神経を通じて連絡し合って、調和を保って各担当の自己責任でやるべきことをしている。それで生命のシステムが成り立っているのです。

■奴隷システムからの解放

    私たちの心には、奴隷システムへの依存という問題があります。現状は、物質を管理できるはずの心が、物質の奴隷になっているのです。これはあべこべです。感情の暴走がこの惨状を招いているので、まず道徳・戒の実践から始めるのです。感情に負けてはいけません。感情を野放しにしない・感情を暴走させないように、やってはいけない具体的な行為の項目を守って、道徳を実践します。そうすることで感情を制御できるのです。感情が落ち着くと、同時に心も落ち着きます。そこからさらに、瞑想を通じて心にあるパワーを発見して、最終的にシステムから自由になることができるのです。仏道とは戒・定・慧というステップで説かれた精密な教えです。これは信仰に賭けるしかない宗教とはまったく次元が違う教えです。
    戒によって感情の暴走を抑えると心が目覚めます。「管理者は心だ」と発見します。心が物質の奴隷になっている状態をやめてみれば、すぐに禅定状態に入ります。心の問題やシステムについて観察することで、智慧が顕れて奴隷システムが完全に終了します。心は二度と苦しみを作り出さなくなるのです。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編6』
https://amzn.asia/d/0ddkRKhp