アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日テーマは「慈悲の瞑想」です。

[Q]

    慈悲の瞑想の「私は幸せでありますように」という一行がよくわかりません。「私」は「人に願われている」存在なのですか、それとも「自分に願っている」存在なのですか。この問いは邪見ですか?


[A]

    私は願っている存在なのです。あれやこれや、願って生きているでしょう。願われている存在だと思うのはそうとう怪しいのです。他人が勝手に自分になにを願っているのか、なにを期待しているのか、わかりません。他人が自分の都合で、自分の利益のために、いろいろ願っているかもしれません。私という存在は、他人の好き勝手に、他人の希望通りに、動かさなくてはいけない奴隷のようなものでしょうか。
    願われているという思考は、邪見に決まっています。傲慢のあらわれでもあります。願われている生まれなら、みなの希望の星でしょう。親と、慈悲の実践をする人々以外、誰も他人に対して、ろくなことは願わないのです。世界に向かって自由に対して、人権に対して、説教しているアメリカのことを考えてみてください。アメリカにとっては世界の平和よりも、人権よりも、自国の利益が優先です。国益になるならば独裁者の国も
応援します。この例を挙げたのは、他人が自分に対して願うことはろくなものではないと言いたいがためです。
    自分の幸福は、自分で築くものです。ですから正直に「私は幸せでありますように」と、念じなくてはいけないのです。私を幸せにしたまえ、という祈り系の言葉は邪見そのものです。



■出典    『ブッダの質問箱』