アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「身近な人が亡くなったことがなかなか受け入れられない」という相談にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

   
二年前に親戚が自殺しました。まだ20代でした。私自身の責任はありませんが、こういう死に方でその人がいなくなったことをなかなか受け入れられずにいます。自分に責任は無いこととはいえ、思わぬ不幸にただ涙するばかりです。「自分に責任の無い問題だから無視しよう」とも考えますが、なかなか笑顔が戻らない日が続いています。どうにかして笑顔を取り戻したいです。
 

[A]


■正常な反応

    「他人の自殺に悩む」――この問題は私に解決出来るとは思えません。
ただ、その精神状態について解説することなら、何とかできます。しかし、厳しい言葉になることだけは避けられません。
    人が死んだら誰でも冷静にいられるとは思えません。動物の死にさえも心は痛むのです。誰の死に対しても心が痛むならそれは正常なことで、心優しい人間だとも言えます。しかしこの状態は心の病には繋がらないし、死を自然現象として受け入れ、理性的な人間になることも簡単です。

■愛着による反応

    関係のある人・生命の死に対しては大いに悩みますが、関係の無い人の死に対して無関心・何も感じない・当たり前だと思う--このような場合は、悩みに耐えられなくなったら「私には責任が無い」という呪文を唱えてみる人もいますが、それほど効き目がある対策ではありません。
その理由を考えてみましょう。

①強い愛着
    自分の子供、伴侶、親、お爺さん、お婆さんなどの存在の場合です。愛着の程度によりますが、時間経過で悲しみは消えます。仏教は亡くなった相手に対して感謝の気持ちを抱いて、回向などの法要を行い、亡くなった相手に対しての自分の義務を果たします。

②―A    自分に対する愛着
    相手が亡くなったことで自分が損する場合です。伴侶が亡くなったら寂しくてたまりません。子供が若い時に親が亡くなったら、面倒を見る人がいなくなったことになり、それで損した子供が悲しむのです。しかし、誰でも「自分がエゴイストだから、自分が損したから、相手の死を悲しんでいるのだ」とは決して認めません。自分は優しい人間だと錯覚しているのです。

②―B    自分に対する愛着
    親戚が亡くなったことで自分が特別に損を受けない場合もあります。例えば、親兄弟ほどは近しくない従兄弟が亡くなったとしましょう。普通はショックです。が、そこまでは構いません。精神的な問題にはなりませんが、その死を自分に当てはめて見る人がいます。他人の死を自分の心でシミュレーションしてしまうのです。すると、自分の命が可愛いあまりに、愛着があるあまりに怖くなるのです。悲しむのです。忘れられなくなるのです。これは無意識が「私は死ぬのは大嫌い」と叫んでいること、怯えていることです。相手に対する優しさから来る感情ではありません。

■自我・エゴの錯覚

    基本的に私たちが他人の死を受け入れられないのは、自我・エゴの錯覚があるからです。生命なら死は避けられません。しかし、自我の錯覚で病んでいる人はそれを認めません。他人が死ぬのは当たり前ですが、自分が死ぬのは嫌ですから。親しい人々が亡くなるのも嫌で認めません。(自分は神様になったつもりで、希望通りに物事が進まないことに腹が立つのです。)
    「親に何もしてあげることはできませんでした。もっと親切にしてあげるべきでした、もっと心配してあげるべきでした」などの理由で死を悩むことも自分のエゴです。

■結論

    愛着の問題も自我の問題も簡単に解決できないのです。智慧を開発しなくてはいけないからです。ですから死を悲しむのは避けられません。ある程度の時間が経過したところで、悲しみは消して、亡くなった人のことは忘れないでおきましょう。供養するのもいいですね。親などの場合は感謝の気持ちを持ち続けましょう。
    時間の経過の目安ですが、仏教徒の場合、お釈迦様は一週間程度としています。しかし、それは理性のあるブッダの直弟子の場合なので、テーラワーダ仏教徒なら三ヶ月から一年までです。ただ、決して時間の問題ではなく、悲しみはできるだけ早く断つべきものなのです。たとえ悲しむことになっても、時間のリミットを設定するのは良い方法です。意志が弱いと思うならばこの方法を使ってみることです。
    ある程度の時間が経っても悲しみを取り消せない、忘れられないなどのケースは、他人の死と関係なく自分自身が精神的な問題を起こしているのです。
    最後に、悩むという感情は仏教心理学では「怒り」です。悩む人は怒り続けているのです。明るさが消え、活発に生きることもできなくなるのです。人間関係も悪くなり、身体が病弱になります。頭が悪くなって、怒りに依存してしまいます。怒りが「生き甲斐」になってしまうのです。というわけで、哀しみ・悩み(怒り)は危険です。人の死などの悩みは突然の火事のように現れることが世の常です。火事が起きたら手早く消すことです。



■出典       『それならブッダにきいてみよう:こころ編2」

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