アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「お金」です。
[Q]
お釈迦様は、お金を指して「毒蛇がいるので気をつけなさい」と弟子に指導したと聞いたことがあります。お釈迦様は、どのような意味でお金を毒蛇に喩えたのでしょうか?
[A]
■お金の裏には煩悩が忍び寄る
意味は二つあります。まずお金は毒蛇だと指導したのは、出家者に対してです。これは、はっきりとしています。お金といっても、その硬貨や紙幣といった品物はたいしたことありません。例えば小さい子に一万円札を渡してみたら、グチャグチャにして口に入れたりします。その子にすれば、一万円札といってもただの紙切れに過ぎません。大事なことは、どんな味なのかということで、口に入れてみて「まずい」と思って吐き出すだけです。「これは一万円だから大事にしなければ」という気持ちは、これっぽっちもありません。ですから、硬貨や紙幣といった品物に対して、それが「毒蛇」と言っているわけではありません。お金(貨幣)というものの裏にある、妄想・感情・煩悩が問題なのです。
■修行において愛着・執着は汚れそのもの
出家比丘にとっては、お金は毒蛇なのです。出家比丘がお金を持つようになってしまうと、修行ではなくお金を守ることになってしまいます。特に昔は、お金は銀や金のような物体だったので、現代のように単なる電気信号(仮想通貨や暗号通貨)ではありませんでした。泥棒がお金を盗んでいくから、他人に盗られないように守らなくてはいけなくなる。今でも現物のお金は盗った人・持っている人のものでしょう。お金というのは他の品物に変える・交換する力(機能)があります。お金という物体は何の役にも立ちません。私たちはお金を役に立つ品物に変える。例えば千円札でお弁当を買う。お弁当が私の役に立つ。ですから、千円札という紙切れ一枚、これがお弁当に変えられる力を持っているのです。ということで、その分お金に愛着・執着が生まれてくるのです。
■お金の使用を認める弊害
「お金が毒蛇である」ということは、「触るな」「ペットにするな」という意味なのです。戒律上では出家比丘は、まったくお金を使ってはいけないのです。現代の出家比丘は、瞑想道場の比丘以外は、ほとんどがお金を使っています。これは現在の社会状況によって、そのようになっています。ある日、比丘がお釈迦様に質問を出しました。「なぜお金を使うことを許可しないのでしょうか?」と。お釈迦様は「金の使用を許可することは、すべての欲を許可することになる」と答えたのです。お釈迦様は「私は欲を断ちなさいと教えている」のだから、欲を認めることは話にならないのです。お釈迦様はお金という問題を幅広く見ていました。ある比丘は、たいしたことではないと見ていた。お金があれば食べ物が買えるし、困っている人がいたら「これを使ってください」とお金をあげることもできるし、その程度なら可愛いものです。しかし、金があるなら買えないものはないのです。当時では、金で遊女を買うこともできたのです。自分が金を支払ったのなら、その品物を使う権利が自分にあるのです。そうするとお釈迦様が出家比丘に授けた「性行為をするな」という戒律はどうなるでしょうか? ということで、金があれば何でも買えることになります。どんなことでもできます。例えば人を脅すことも、殺すこともできます。専門職として人を殺す人もいるでしょう。邪魔な人がいたら金を払って殺してもらうことも可能なのです。
■お金の使用は慎重にするべき
そういうことで、出家比丘には金の使用を禁止しているのです。その意味を知って、現代の比丘たちも金を使う場合は、戒律の中で生計(暮らし)が困っているとき、その範囲で使わなければならない。残りの金はサンガのものとして、サンガのために・お寺のために使わなければいけない。自分個人の贅沢をするために使うことはダメなのです。現代のお寺には、かなりの金があります。タイの巨大寺院にもなると、お布施でもらったお金を持っていくのに銀行から職員さんが来るのです。どれぐらいのお金をお布施しているのかと、銀行員がお金を数えて、銀行に持っていくのです。それでも、タイの比丘たちは戒律で定められている範囲を超えようとしないのです。
■国や時代によってお金の使用スタイルは変わる
それから、私も一度インドネシアに行ったことがあります。インドネシアのお寺でカティナ衣法要に参加しました。法要の次の日には、多量のお金が集まっています。お坊さんたちはお金に触ろうともしません。在家の信者さんたちがボランティアで、お布施のお金を数えて束にして、お寺の活動資金として銀行に預けるのでしょう。お坊さんたちは触らないのですが、どこかに出かけるときには在家の人がそのお金を持って一緒に付いていくのです。私にも若い男の子がカバンを持って付いてきて、そのカバンにはたくさんお金が入っている。どこに行くにしても、その子がサッとチケットを買ってくれる。お金を使う必要があるときには、全部やってくれるのです。それはお寺のお金です。そのような感じで、お金の使い方を現代的に考えています。しかし、お金の扱いは基本的にヤバイものなのです。インドネシアはイスラム教の国ですから、お寺にたくさんお金があるとわかったら、その人たちはどうするかわかりませんよ。お坊さんたちがお金に対して、無執着の態度を示しているから、国は自由に宗教活動ができるようにしてくれているのです。
そのように戒律にはないのですが、自分たちでお金の取り扱い・リミット(限度)を慎重に考えなくてはいけないのです。それは出家の世界の話です。
■今の生活はお金がないと成り立たないけれど……
次に在家の場合は、お金がないと生活は成り立たない。それは現代という時代の問題でもあります。昔はお金がなくても豊かに生活できていました。畑や田んぼがあって、牛がいて馬がいて、羊やヤギがいて、牛乳が飲みたければ乳絞りをして飲む。卵を食べたければ、ニワトリを育てて卵を取って食べる。お金はかからない。社会が変わって、今では何でもお金で買わなくてはいけない。人間はお金の奴隷のように、収入を得るために働き続けなくてはいけなくなってしまったのです。人間が勘違いしているのは、お金のために働くのだと考えているのですが、そうではありません。食べるものを買うために、家賃を払うために、家族を養うために、子どもの学費を払うために、それら具体的に必要なもののために働いているのです。それを理解してください。そしてお金を優先第一にしないでください。何よりもお金が大事だと勘違いしてはいけません。
■誰しも能力を活かして社会に貢献すべき
それから在家には、例えば自分は頭が良く、商売の才能があって、いろいろと新しいものを作るアイデアがあって、ベンチャー企業でも起こせる能力があれば、それは活かした方が良いのです。現代のIT企業のFacebookやgoogleのように、新しいサービスで人が助かる・役に立つのなら、しっかりと能力を活かした方が良いのです。Facebookなんかは若者がふざけて作ったプログラムですが、それを世界中の人々が使っています。プログラムを作った本人は、ものすごくお金が儲かってしまって、今はもうお金なんか要らないとなっているようです。能力があるのなら、その能力を人々のために使っても構いません。その結果としてお金が入ってくることは、それは仕方がないことなのです。お金があってもなくても、お金に愛着・執着をしないで、「必要なものに使う」という態度を取る。必要以上にお金が入ってくるなら、それは人類の幸せのために使って功徳を積むという順番で使わなくてはいけません。
■毒蛇の取り扱いは慎重に
そういうわけで、お金によって精神病にならないように気をつけなければいけません。毒蛇に噛まれたら、毒がまわって死んでしまう。ですから、毒蛇の譬えは在家にも適応しないわけではありません。お金のために人殺しまでする人が実際にいるのです。お金のために殺される人がいるのです。お釈迦様が「お金は毒蛇」という譬えは、その通りだと思います。毒蛇だからといって取り扱いを止めろということではなく、必要なら毒蛇に噛まれないよう極めて慎重・丁寧に取り扱う。毒蛇を飼育しショーを見せるスネーク・ファームというものがあるでしょう。そこではショーに使う猛毒のコブラたちの牙から毒をきれいに抜き取る。牛の乳絞りのような感じで、コブラたちの毒絞りをする。そうやって、蛇使いは何のことなく蛇を操って素手で捕まえます。とても上手なのです。
■毒蛇に噛まれたら命取りと肝に銘じる
在家の人も「お金は毒蛇である」ということを良く理解した上で、お金というものには、怒り・嫉妬・憎しみ・戦い・ケンカ・人殺しなど、いろいろな問題が付きまとうのだということも理解し、お金の取り扱いを考えなくてはいけないのです。在家は生活に必要なものを得るため仕事をしなくてはいけないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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