アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「知識から実践に進むプロセス」です。
[Q]
瞑想実践する中で、無理に四念処経の内容に合わせ思考したり、何だかの衝動という意志を感じたら、感覚に執着したから新たな意志・渇愛が生じたのだと思ったり、無常・無我だと考えてしまうことが癖になってしまっています。知識ありきの瞑想で、知識に引っかかった状態だと感じます。アドバイスいただけると助かります。
[A]
■知識という道具を適切に扱う
知識に引っかかるということはあります。私も昔そういう経験がありました。瞑想指導者に叱られたことがあります。知識の塊で、何のアドバイスも聞き入れない状態だと指摘されました。その瞬間、私は「知識もひとつの妄想だ」と、知識に対する執着を捨てることにしました。それから瞑想に励んだのです。
知識というのは面倒臭いものです。知識が無いと一般的に、俗世間の人々が無常・苦・無我を理解したり、因果法則を理解したり、四聖諦を理解したりできないでしょう。仏教をごちゃごちゃと説明するのは、あれは知識(理性)に訴えかけているのです。それで教えを理解して納得して、それから実践に進んでいくのです。
ということで、知識として理解することも修行の最初のステージとして見て構いません。中部経典の第七〇「キーターギリ経」や第九五「チャンキン経」に、その順番が説かれている部分があります。
■最初に信が必要となる
ブッダの教えに出会うためには、まず「saddhājāto(サッダージャートー) upasaṅkamati(ウパサンカマティ)」とあり、「この人は何かを知っているみたいだ」「この方は何か真理に達しているようだ」と、一般人とは違う人だと理解する必要があります。これは信仰とは違って、「確信」という意味です。私たちも例えば大学受験などでは、信・確信を使っています。「この教授は〇〇という研究で有名な人だ」とか、「〇〇大学は世界的にも認められている」とか、そのように実績や評判に対して信用・信頼して進学を決めたりしているでしょう。
例えばオックスフォード大学に入ろうと思う人と、日本の私大に入ろうとする人とは、それぞれ違いますね。しかし、本人が大学に入ってからしっかり学び研究すれば、大学が違ってもそれ程変わりはありません。ただ大学に入っても勉強しなければアホな人はアホのままです。どうにか卒業しただけで終わることになります。大学も卒業条件が揃えば、卒業させてくれます。
しかし、「それでも私はオックスフォード大学に行きたい」という場合は、信が働いているのです。自分が世界のトップランクの大学に行きたい、これまで歴代の優秀な教授たちを輩出してきた名門大学に行きたい、その大学の教授になれるということは並大抵の能力ではないと、自分の能力を最大限に成長させる、伸ばすためにはこの大学に入った方が良いという信があって、入学資格を取って入るのです。それで頑張って勉強する。信だけでは大学に入学できません。
■知識を使って納得・意欲を引き出す
お釈迦さまが、人が学び・実践するための基本プログラムを教えています。まずブッダに出会う・付き合う・接するのです。お釈迦さまがどこかで説法をしていたら、自分がそこに行って説法を聴くのです。どんな教えなのかを聴いて、それから自分で考える。自分で理論を組み立て検証してみる。「dhammā(ダンマー) nijjhānaṃ(ニッジャーナン) khamanti(カマンティ)」と言っています。それで納得がいくのですね。
教えを聞いて、内容を理解し、自分でも考察して、「なるほど、よくわかりました」「これが仏法か」「これこそが真理だ」と納得がいく、そこまではただの知識です。納得したところで、次に「よし、やってみよう」「実践してみたい」という気持ち(意欲)が生れてくるのです。
次に「ussahitvā(ウッサヒトゥワ) tuleti(トゥレーティ), tulayitvā(トゥライトゥワー) padahati(パダハティ)ー」と、ただやってみただけでは上手くいきません。かなり頑張らなくてはいけません。試行錯誤しなければいけない。精進が必要ということです。徹底的に精進することで、最後に教えられた境地・真理を体験することになります。
■知識に執着しない
そういうことで、一般的に皆さんに向かって「知識を捨てなさい」ということは言いづらい面もあります。しかし、瞑想実践においては、知識は横に置いておいてください。いずれにせよ、中正・中立・中道を保つということが大事です。極端はいけません。知識も仏教を理解して実践するに至るまでは、欠かせないステージということになります。しかし、知識は概念ですから万能ではなく、どこまでも役に立つというわけではありません。知識が必ず皆の役に立つわけではない。ただ知識能力がある人々は、知識を使って納得するところまで徹底的に頑張ってみた方がよろしいと思います。
■心に変化が起きたかを実感する
瞑想中にも「あぁ、やはり現象は因果法則だ」「一切が無常、無我なんだ」と、知識として概念が割り込みます。しかし、本当に煩悩が無くなったのかと観てみれば、まだ煩悩が無くなっていないこともわかります。その時は「まだ心が変わっていない」と気づいて修行を続ければ良いのです。無常を知っているというのは知識レベルです。智慧レベルの無常は全く次元が異なります。無常であることを智慧で経験したのなら、すでに自分という自我の錯覚が消えています。自分が消えたらどんな認識になるのか? それはまだ経験していません。言葉はありません。しかし、心には確実に変化が起こります。それで日常の認識に戻ってみたら「あれ、何か無くなっている」とわかります。これまでの自分では無くなってしまったと気づくでしょう。悟りを経験した後で、煩悩が消えたことが観えてきます。これからも自己観察を頑張ってください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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